福井県勝山市猪野と平泉寺境界に勝山城博物館があり、その敷地の丸山に白山稚児神社があります。
何の神を祀られるのか。それは大日孁貴尊、日之御前社などが祀られるとされています。かつて稚児御前という神を祀って社を立てたというがその神のことなのでしょうか。そのあたりも見ていきます。
地理
勝山盆地を縦断すると必ず目に入るであろう勝山城。その麓の丸山に神社があります。そこに白山稚児神社があります。
字名は「人宿り」。隣接地に二十字丸山あり。
「人宿」とは、『勝山市史』によると「平泉寺を訪れる人のために宿をかす家が存在していたところ」ということです。
その神社のある場所は国道157号線の近くにあり、勝山城博物館の駐車場も利用できることから自動車でのアクセスは良好。
また、歴史的な地理を見ても、勝山の街道から平泉寺へ向かう参道沿いにあり、それは今も変わらず国道から平泉寺へ行く道の途中にあるという、いかにも平泉寺との関わりを暗示するかのような位置に鎮座しています。
由緒・御祭神
祭神:大日孁貴尊、伊勢両皇大神
読み方は「はくさんちごじんじゃ」。『福井県神社誌』によると境内社日之御前社も大日孁貴尊を祀る。
[明細帳]延宝六年戌午七月十八日創立。明治九年六月に村社。明治四十一年に高田神社合併。高田神社は伊勢兩皇大神を祀った。例祭九月五日。
「白山」とありますが、祭神は白山神である菊理媛尊でもなく、伊弉冉尊でもなく、伊弉諾尊でもなく、大日孁貴尊という祭神のようですね。
大日孁貴尊とは太陽神、つまりは天照大神のことのようです。
稚児社の今昔
境内の正面参道に入れば杜の空気にかわる。
平泉寺参道を思わせるような高い杉の木が現れる。
白山平泉寺全盛時におけるその境内域の一社である児宮(ちごのみや)が前身である。天正の一揆の後、猪野村の尊崇するところとなり、下社ともあるいは下宮・稚児社とも、また白山稚児社とも呼称され、現在の猪野村の西端あたりに位置していた。現在社あたりは、白山平泉寺全盛のころには、字名の人宿りがしめすように、この近辺に和労堂(わろうどう)があったごとくであり、近世においては上社とか丸山社と称し、八幡神を奉斎していた。明治三年の『御高附上之控』には、「八幡宮建立 正徳元(一七一三)」とあるが、明治初年に村の下方にあった稚児社が丸山の地(現在社域)に移り、当初は丸山白山社、後に白山稚児社と呼ばれるようになり、八幡社の姿は埋没した。
引用:『御大典記念福井県神社誌』
日之御前社は寛文十年(実際には十一年)に村民大池善左衛門が土中より神を掘り出し、それを屋敷に祀ったのが始まり。社殿造立が延宝六年七月十八日。社名は平泉寺全盛期白山平泉寺の一社日之御前社に由来する。現神社の東方に隣接していたと推測されている。
高田神社は勝山町の浄土寺喜兵衛と新紺屋小兵衛が丸山境内に創建を願い出たことによる。天保八年。
参考:『御大典記念福井県神社誌』
とされています。
ちなみに、現在の神社のある字人宿の南隣接地に一字日御前があります。
平成元年、篤志家故多田清翁の寄進と氏子らの協力により、社殿(総檜造)の大改築と境内整備の大事業が進められた。
引用:『御大典記念福井県神社誌』
泰澄大師・白山との関係
『勝山市史』には気になることがかかれています。
〔伊野原〕泰澄の母伊野姫の誕生地はいまの天野八郎右衛門屋敷だといわれている。この地に一社を建立し〔稚児御前〕と称した。平泉寺大縁起に「泰澄大師此の地に一社を営み、稚児御前と称す。今伊野村にあり」とある。この伊野姫は養老三年、泰澄大師三十八才の時に亡くなったという。その墓所は毛屋にある。〔丸山〕平泉寺の菩提林の近くにある小山で、そこに白山神社がある。以前は平泉寺の要地らしく岡横江と地続きに〔甚内〕〔日御前〕という小字があり、それらを物語っているものと思われる。
引用:『勝山市史』
どうやら「稚児御前」と「丸山白山社」のことを言っているようです。ただこれが「日御前」と「白山稚児社」のことなのかがなんとも微妙。というより何やら混在しているようにも見えます。
とにかく今まで出てきた社白や地名を書き出すと、
- 稚児御前
- 日御前
- 日之御前社
- 白山稚児社
- 丸山白山社
- 稚児社
需要なのは
- 稚児
- 御前
ですね。
ここから見るに、
- 御前=伊野姫
- 稚児=泰澄
なぜなら勝山の猪野原には泰澄の母の伝説があり墓もあるからです。
または
- 御前=白山神
- 稚児=泰澄
のようにも捉えられそうな?と勝手に思ってしまいました。
白山の頂上は御前ヶ峰と言いますし、そこに祀られるのは白山神。
「稚児社」というのは、いわゆる「若宮」のような意味合いもあるのでしょうか。
大本の神である「御前(本宮)」と、それを受け継ぎ広め伝え続けるための「稚児(若宮)」。
そんな位置づけがあるように思えてなりません。
個人的に「御前」と「稚児」は何かしらの関係があると思うのです。
そんなあてずっぽうな妄想を勝手に繰り広げていましたが、『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』という書籍で何やらそれらしいことが書かれていました。
というわけで次の項でそれを見ていこうと思います。
白山稚児社の「稚児」とはどういう意味なのか(『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』より)
稚児とはおそらくほとんどの方がわかると思いますが、改めて書くと、
乳子、赤子、子ども、幼子のことを主に意味し、その他に公家・武家・寺院などに召し使われた少年、社寺の行列に美装して出る男女の児童のことであるとされています。
ではこの白山稚児神社の「稚児」とは何なのか。
『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』内の考察の中で、一番核心を突いた一文がこれでした。
猪野の氏神については次の三つの意見が複合しているように思われます。
(一)泰澄大師の母子伝承、(二)中宮平泉寺の白山神社の祭神は伊弉冉尊。その御子に当たられるのが猪野の児宮の御祭神大日孁貴尊である。(三)戦後、白山研究と白山曼荼(陀)羅の研究が進むにつれ、「児宮」を本地垂迹説で解明しようとする動きが高まってきた。
引用:『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』
なるほど、先ほど私が妄想した泰澄と泰澄母はある意味可能性としてはあったようですが、(二)については全く盲点でした。
大日孁貴尊、つまりは天照大神。その母親は伊弉冉尊でした。だからこそ、本宮が母である平泉寺白山神「伊弉冉尊」で、児宮(若宮)が子の大日孁貴尊(天照大神)である。ということだったのですね。
この(二)の説がなんとも納得いきます。
そういえば北郷町檜曽谷にも大日霊神社がありましたね。同じく大日孁貴尊という名で祀られています。
白山神と大日孁貴尊(天照大神)はここではセットで祀られる存在なのかもしれません。
稚児社のさらなる詳細
詳細の創建
まず白山稚児神社由緒が書かれていたのでまとめます。
元正天皇の御代、養老年中泰澄大師によって開創。泰澄が越知山から白山へ向かう際、伊野原に至り祈念し、現平泉寺の林に至るが、その時に御生母誕生地を以て一社建立し児宮と称した。平泉寺最盛期四十八社の一社として古図に書かれるも天正二年四月一向一揆により平泉寺焼亡の際当社も焼失。後近年再興し、白山平泉寺管轄から離れ猪野区民の神となる。一方日之御前社もまた泰澄の開創で四十八社の一つであった。現社地は丸山社とし、日之御前を奉祀、児宮は丸山の下手に鎮座、児社あるいは下宮と称された。明治初年二社を現在地に統合し白山稚児社と称し、後白山稚児神社となる。境内社高田神社は泰澄大師御孕(オンハラミ)ノ像を奉祀される。平成元年篤志家多田清翁と氏子により社殿大改修と境内整備を行った。
参考:『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』
とあります。現地説明版にも同じようなことが書かれていました。
より細かく、この稚児社創建の経緯を記していますね。
境内社の日之御前社も高田神社も最初から白山信仰関係の神社だったようです。
稚児神社について
『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』内「児宮をめぐって」という項には、この神社の「稚児」という部分に関してより詳細に書かれていました。もはや改めてこのサイトに書かなくてもいいくらいに。
- 猪野の氏神は「泰澄母の伝承」「中宮平泉寺白山神社祭神伊弉冉尊とその子大日孁貴尊」「本地垂迹」の3つの意見で考えられている。
- 児宮は一向一揆で焼失している。
- 猪野には村の社と丸山の社の2つがあった。村の社を明治の統合の時に白山稚児社と名付けた。村の社には藤の木があったという。丸山は丸山堂、村の社は藤の堂と呼んでいた。
- 稚児には子供という意味がある。泰澄母が生まれた地であり、村は御孕(オンハラミ)像を信仰しているためこの名前になった。
- 当時の資料にも「白山稚児社」「稚児社」などバラバラで混乱ぶりが見られる。
- 文久元年(1861)の記録では村の社は下宮と書いてあり、明治三年には稚宮と書いている。
- 明治四十四年の扁額には「白山神宮」と書かれていたが、正式に登録された名は一貫して「白山稚児社」である。
- 勝山町神明神社宮司が社掌を兼ねた時代、古記録をみて訂正すべきとした中に、「神社名は白山稚児社を児之御前神社とすべきである」とした。(日ノ御前には触れていない。)ただしこの記録は平泉寺大縁起の考証がされていない。
- 『神社明細帳へ謄録願』には「白山稚児社を白山権現社と訂正してほしい」とされている。
- 元稚児宮のあった場所は猪野の西、北陸電力の鉄塔のある場所とされる。
となります。
元あった稚児宮の場所はここでしょうか。
鉄塔があり空き地になっていますが、特に何も跡地っぽいものはありません。あやしいですが、確かに猪野地区の西に位置する鉄塔なのでこのあたりになると思います。
「児宮」について
「児宮」というものについて、
正応四年の『白山記』には白山の東に社があり、「児宮」と号し、「如意輪の垂迹である」としている。
ということが書かれています。先ほどから出ているように、この稚児社そのものは昔からあったもので、白山信仰の歴史の中にあるものということで間違いないのでしょう。
結局のところ、白山稚児神社の稚児とは児宮などからきているものなのでしょう。
- オンハラミ像を祀っているという点
- イザナミイザナギの子である天照大神を祀るという点
- 下社という立ち位置
これらの点において「稚児社」ということになっているのだと思われます。
若宮という意味合いも間違ってはいないと思えます。
境内
参道わきの道に石仏が並んでいる。
手水舎にアイスクリームのベンチが置かれている。
本殿の両脇に境内社が祭られている。
平成に整備された神社とは思えないほどの古灯籠。
歴史の謎と名前のロマン
謎多き名前のロマンと歴史の数々。それがこうも絡み合って深堀を面白くさせてゆきます。
勝山にはこのような深い歴史がまだまだあるので、人の伝説、歴史上の伝説についても焦点を当ててゆくと面白いでしょう。
参考文献
『勝山市史』
『大野郡誌』
『福井県神社誌』
『御大典記念福井県神社誌』
『泰澄大師御母のふるさと・勝山市猪野』
基本情報
最寄り駅 | 勝山ぜん鉄道勝山駅からバスに乗り換え勝山城博物館バス停下車すぐ |
自動車 | 勝山ICから10分 |
駐車場 | あり |
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