福井県敦賀市松原地区の櫛川には、史跡「穴地蔵古墳群」、通称「穴地蔵」という歴史の名所があります。
敦賀の有名な史跡の中の一つで福井県指定文化財に指定されています。福井県内でも有数の立派な石室と近隣では珍しいとされる石棚があり、歴史や史跡好きにはたまらん場所でしょう。
今回はそんな穴地蔵古墳に訪問したので、歴史やら由緒やらを見て、現地の記録をしたいと思います。
もし現地レポートの写真を見たいという方は、[穴地蔵(1号墳)の概要と現地レポート]へ。
穴地蔵古墳の位置
穴地蔵古墳があるのは、櫛川地区です。
櫛川地区は、気比の松原の西側に位置します。この櫛川は散布地の埋蔵遺跡が広範囲に見つかっていて、時代は古墳時代~平安時代といいます。散布地とは、器の欠片などが出土したもので、人が住んでいたかどうかの特定まではいきませんが、昔からの集落だったということも存在するので、ここも古来より人が住んでいた可能性もあります。
またこの散布地関連の話としては、『穴地蔵古墳群 松原遺跡 平成元年 敦賀市教育委員会』に櫛川製塩集落と製塩集団の記述があり、これらの人々が古墳に深く関わっているとしています。
これだけ広い散布地があったところなら、近くに古墳があるというのもわかる気がします。
穴地蔵古墳がある場所は、そんな散布地よりさらに西、井の口川を渡った山の麓にあります。
位置関係として、散布地から川を渡った先、つまり川の向こう側という位置で言うと、異界との区別という位置づけになるのでしょうか。(個人の感想ですが)
でも疑問なのは、この穴地蔵古墳という「古墳」が作られた年代に、川の向こう側が異界だという思想がすでにあったのかということです。
例による「三途の川」という思想の日本での広まり方は、まず飛鳥時代に伝わった経典の中にそのような内容が書かれていたようで、一般的に知れ渡ったのが平安時代とされるようです。
この古墳の造られた年代に関して調べてみると、調査資料に以下ような記述がありました。
近隣の諸古墳との対比で、6世紀末~7世紀前半。 または、7世紀前葉~中頃、須恵器研究の年代観の揺れによっては、7世紀後半までの可能性。 参考:『穴地蔵古墳 福井県指定史跡保存修理事業報告書 2001 敦賀市教育委員会』 |
つまりは古墳時代・飛鳥時代です。古墳なんですからそれはそうですよね。
やはり山があったからそこに埋葬するのが良いと考えたのでしょうか。どちらにせよこの考え方は違うようですね。ただこの世と異界との区別はあったのかなと勝手に思っています。
原集落が関係している可能性も考えましたが、横穴は多数見つかっているので、原集落側は独自の埋葬地を持っているものと考えられます。それに、福井埋蔵文化財のサイトでは散布地記述もなかったので、そこに集落があったかも謎です。(調査記述されてないだけかも)。
原の横穴については、既に取り上げています。
ただ、原の人の話では櫛川は「よその地区」という話だったので、一旦原と穴地蔵の関係は無視しようと思います。
穴地蔵に関しては、この後の時代で原集落というより原にある西福寺が大きく関わってくるようになります。
穴地蔵の歴史
この古墳が作られたのは、先にも記した通り7世紀あたり、古墳時代・飛鳥時代で櫛川の製塩集団が古墳造営に関わっているとしています。
そのあと、この穴地蔵古墳に関わってくるのが、福井県の中でも有名となっている西福寺というお寺です。
原には西福寺の鎮守社だったとされる別宮神社も祀られて残っています。
「穴地蔵古墳」という名前の「穴地蔵」の部分が名づけられた理由の元をたどれば、この西福寺との関係にたどり着きます(現資料『穴地蔵古墳 福井県指定史跡保存修理事業報告書 2001 敦賀市教育委員会』の段階では)。
穴地蔵古墳という名前の通り、この古墳の穴の中には地蔵尊が祀られています。
ただ、もともとこの穴地蔵古墳は、言うまでもなく普通の「古墳」だったのです。古墳築造当時、古墳に地蔵が祀られるということはないでしょうし、石室の石はちゃんと閉められています。
ではなぜそこに今、地蔵尊が祀られているのか。
資料には、以下ような旨の記述がみられます。
地蔵尊祭祀の由来は、西福寺第12世寿光上人の事跡と伝えている。明治7,8年頃まで堂が存在していて、地元の人の信仰の場となっていた。 参考:『穴地蔵古墳 福井県指定史跡保存修理事業報告書 2001 敦賀市教育委員会』 |
強い力を持っていた西福寺。
その信仰の場所として、この古墳に地蔵尊を祀り、庶民からの民間信仰を集めていたのです。
つまりここは、古墳というだけではなく、信仰の遺跡としての価値もあるのです。
同じく福井県坂井市にある大森古墳もそんな感じの「古墳でありながら信仰の地」という遺跡があるので、やはり古墳は信仰の対象または場所となっている場合が多いのでしょう。
穴地蔵(1号墳)の概要と現地レポート
では、そんな穴地蔵古墳を見てみましょう。
俗に穴地蔵と言われる表に出ている史跡は、実際には穴地蔵古墳群1~3号墳までの「1号墳」です。ここでは、1号墳のレポートと説明をします。
穴地蔵の看板があった所から、十数段くらいの石段を登った先に古墳の入口があります。
これが、穴地蔵古墳群の「1号墳」です。形状は円墳。
この中に3体の地蔵さんが祀られています。写真でもうっすら見えていますが、穴の奥に見えるのが石棚で、行けるのはそこまでです。
ただなかは、やはり独特の空気。古墳ですからね。さすがに中で写真は撮る気にはなれませんでした。実際に行ってみて、古墳内の空気を味わってみてください。
ちなみにこの地蔵尊の一体には、「永世15年正月2日」との文字があるというので、1518年には石室が開けられたとされているため、古墳内にはほとんど遺物が発見されなかったそうで、『穴地蔵古墳 福井県指定史跡保存修理事業報告書 2001 敦賀市教育委員会』によると、わずかに須恵器や馬具が発見されたとしています。
副葬品もあり、ここは紛れもなく古墳という名の、誰かの墓なのです。
さらにこの穴地蔵の1号古墳は崩壊の危険があった為、昭和59年に改修工事がされました。
入口の隣には、石塔が並べられています。墓場にもよくあるような石が並べられているのがわかります。
まさに、仏教系の信仰場所として使用されてきたということです。
この穴地蔵の信仰に関する記述として、郷土資料の中には、このような話も書かれていました。
男女ともに下の病気がある者が参詣する。 参考:『越前若狭の伝説』内 寺社什物記 |
病気の治癒に関する信仰もあったのですね。
現地には史跡に関する説明板があり、歴史を実感することができます。
そして、この穴地蔵古墳の入り口前の空間は、上の写真で見る通り、ある程度の平地が形作られています。まさに人が来るために作られたようにです。
この平面の場所が、西福寺の地蔵信仰の際に建てられたお堂があった名残なのです。
古墳でもあり、民間信仰の遺跡でもある重要な遺跡がこうやって現存していて、今の時代も見ることができるのです。
では、先ほどから「1号墳」と言っていますが、それ以外はどうでしょうか。
次は、2、3号墳について話です。残念ながら、この二つについては写真がないので説明だけになります。
穴地蔵古墳群「2,3号墳」
2号墳
2号墳については、すでに消滅しています。
元は、1号墳「穴地蔵」の西に隣接してあったそうですが、開発が進んで、まともに調査される前に消滅してしまったようです。
西側には道路と企業の敷地があります。この開発の際に消滅したのでしょうか。調査される前というのが残念ですね。
3号墳
3号墳については、既に調査されています。
3号墳があるのは、穴地蔵(1号墳)のある場所から少し離れて、南東の山がつきだしている部分あたりにあるようです。穴地蔵橋の北あたりでしょうか。行っていないので詳しくはわからないのですが。(現存するかも怪しいが)
ただこの3号墳は平成元年の調査報告書『穴地蔵古墳群 松原遺跡 平成元年 敦賀市教育委員会』があるので、調査もつい最近されたことになります。
簡単な概要を説明すると、
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この資料内の説明でもあるように、櫛川に古くからの集落があったのは確実らしいですね。その櫛川の人々が古墳に関わってきたというのも、可能性が高いみたい。
この3号墳への道は見た感じ無いです。行ったところで見ることができる物かもわかりません。興味のある方は探してみても良いかもしれませんが、私有地や危険な山道があるかもしれないので注意は必要です。周辺に企業の敷地もあるので、そこも注意です。
穴地蔵とは多彩な歴史の遺跡
以上が今回訪れた穴地蔵のレポートと詳細の概要です。
敦賀だけでなく福井県内でも有名な史跡である「穴地蔵」には、以上のように古代の古墳や埋葬の歴史の価値と中世の信仰と民俗の歴史の価値とがあり、多彩な魅力と歴史が詰まっている場所なのです。
歴史や史跡好きなら、この歴史背景と共に一度訪れてみると価値のある時間になるのではないかと思います。
参考文献:『穴地蔵古墳群 松原遺跡 平成元年 敦賀市教育委員会』『穴地蔵古墳 福井県指定史跡保存修理事業報告書 2001 敦賀市教育委員会』『越前若狭の伝説』
基本情報
アクセスは、県道33号線井の口川の西岸の山側に入る交差点を曲がり、直進すると右の山の麓に穴地蔵の石柱が見えてきます。
駐車場はないです。
バスは、敦賀市コミュニティーバスはありますが、コミュニティーのため本数は少ないです。下りるなら花城バス停が一番近いかと思います。
近くの名所の記事もあります。
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