福井県おおい町若狭大島半島にある神社。ここは大島の産土神と境内社にニソの杜の開拓二十四祖神総社であるとされている神が祀られるとされます。
由緒や境内、現地の現在の様子を記録していきます。
地理
大島にはいくつかの集落がありますが、この島山神社はそのちょうど真ん中あたりに鎮座しています。
この神社は後に見ますが、元々は大山という所にあったようです。この大島の神社として、皆が参りやすいこの地に移動してきたのでしょう。
『大飯郡誌』や『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』には、昔の島山神社の写真が載っており、境内ぎりぎりまで海岸で、森の木が海に飛び出ている様子が写されています。
丁度鳥居前の参道が堤防のような感じで岸壁になっていたようです。
島山神社の御祭神・由緒
祭神:天照大御神、天児屋根命、底中表筒男命、応神天皇、彦火火出見尊、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后(御大典記念福井県神社誌)
応神天皇、天照大御神、天児屋根命、彦火火出見尊、伊弉册尊、底中表筒男命三神(福井県神社誌)
福井県神社誌には「嶋山神社」とある。
『若狭国神名帳』に「桓武天皇の延暦年中(782~806)の創建」とあるという。つまり勅命によって「天照皇大神、熊野大権現、春日大明神、住吉大明神、八幡大明神、上下大明神」を祀ったとした。古くは島山明神、六所明神と言ったが近世は六社神社と言っていた。それを明治四十四年に島山神社と改称。往古、志摩の「タチハヂマリ」に奉祀した神で「我志摩の産土神也」と伝え、大山の麓にあったものを遷座したともいう。創建以来、社伝の記述には天元元年(978)に宍人氏影年が再興、永万元年(1165)と文永十一年(1274)に改築。文和四年(1355)に若狭国守護細川清氏が改築。永享元年(1429)に三方若狭守惟宗範次が社殿修補新田寄付。文禄三年(1594)に太閤検地で社領没収。寛文四年(1664)に若狭国主酒井忠直公が六所宮を再建。安政四年(1857)に領内四郡三ヶ年継続で家別勘進を免許、特別寄進、安政六年に完修。
上下宮(若狭彦姫神社)の遥拝所あり。陰暦三月十日に祭典がある。当村から大神の還御する日と伝え村人は上下宮へ参る。通常は遥拝所から参る。(福井県神社誌)
参考:『御大典記念福井県神社誌』『福井県神社誌』
所在は字名「宮」。
桓武天皇の時代が始まりであるという、とんでもなく古い神社ということです。そんな古い神社なので、昔は山際にあったのでしょう。参りやすい場所に下ろしてきたのですね。
そうはいっても、ここへ来てもだいぶ長い年月が経っていることでしょう。この杜。もの凄いです。杉などではなく広葉樹の森。鬱蒼としています。
鳥居前に境内の案内図があります。丁寧に合祀されている神や境内社の名前などが書いてあります。郷土史の通りですかね。
勧請縄はちょうど人の身長よりちょっと低い位置にかかっています。強制的に頭を下げて鳥居をくぐることになるわけです。
まさに森。巨大な切り株が階段を覆わんとしています。中には杉の大木もありました。
様々な木が生えた境内。まさに「森」なのです。
左の建物は神楽殿。奥が本殿。右が社務所です。
島山神社本殿です。屋根が長いです。扉は格子。上には灯り。
創立年不詳。
祭神は、伊勢の天照大神、大和春日の天ノ児屋根命、山城男山の誉田天皇、熊野明神(紀伊なら伊邪那美命、出雲なら神速進雄神)、摂津住吉の表筒男命・底筒男命、若狭若狭彦姫神社の彦火火出見尊豊玉姫尊元当村宮富(※宮留の事か)の八幡宮応神天皇仲哀天皇神功皇后。八幡神合祀は明治四十四年六月一日。
島山明神と言われ、地元からは今も「明神様」といわれる。中古は六所大明神又は六社明神様とも。明治四十四年に旧称に復し島山明神と改称。
〔六所名神社〕大島村の六所とは、伊勢、石清水、春日、熊野、住吉、遠敷であり、産神である。勧請不詳。領主三方若狭守範次が再興し神殿を営み永享二年十二月三日遷宮。小浜妙玉院の權大僧都賢海という者が別当職として長楽寺を知らせる。
他安政四年にも再造。
参考:『大飯郡誌』
『大飯郡誌』では創立不詳になっています。神社誌の桓武天皇の御代という説が出始めたのはいつ頃なのでしょうか。なにか資料が見つかったのでしょうか。
祭神も少し違います。ただ、地元の呼ばれ方として「明神様」と呼ばれているというのはやはり、大飯郡特化の郷土誌だからこそでしょうね。
本殿の先、まだまだ奥にも道が続いており、ここから先が境内社の道になります。
その前に灯籠なども見て置くと面白いです。様々な年代の灯籠があります。
安政七庚申年三月吉日と書いてあります。
そういえば、「安政六年に完修」ということが神社誌にありましたね。改修後に奉納された灯籠でしょうか。
さてもう少し郷土誌を見ていきます。
『大飯郡誌』内[神社宗教]項の記述
正五位 島山明神
『若狭郡縣志』・・・不知其処
『若狭國志』・・・八幡神祠条下在大島宮留邑・・・長楽寺・・・僧説云・・・島山明神
『神社私考』・・・今按に此社大島の内東村と云処に座す大島の明神又六所(或いは六社)大明神とも称社これなるべし(この神社旧は同処の大山の麓に在りしを後に今処に遷と里人云)然考たる由は此大島は古は島山といへり・・・『大和大安寺流記』・・・乎入郡島山陌町(四面海)とあるこれなり・・・志(郡縣志)・・・説・・・寺僧が考は信じがたし。
長楽寺はこの島山神社の境内を抜けた先にあります。
反対側です。ここにも頭を下げる程度の勧請縄が。
そしてここを振り返ると。
細い路地の奥に建物があるのがわかるでしょうか。あれが長楽寺です。ここは参道が続いている大島の信仰巡りのような道なのでしょうかね。
大島にとって、やはりこの島山神社はかなり重要な立ち位置なようです。
大谷信雄の「島山神社社記」に「明神様はまとは大山のそらに御祀りしてあったが現在の所に移した」「八幡宮は島の氏神にて明神は夫より上の大神なり、御鎮座も八幡宮より古し云々」と書いてあり大島の人にとって最も大切な神社であった。
参考:『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
ということが書かれています。第一の神社なのですね。
(ちなみに八幡宮とは宮留の八幡宮のことで、藩主などが武運祈願をしたり寄進したりした由緒ある神社でした。現在は島山神社の境内社になっています。)
さて、「島山神社」という名前ですが、そもそもこの大島自体、以前は「島山」と呼ばれていたという記述もあります。なので、島山神社はまさにその「大島の神社である」ということなのです。
余永神社
さて、この島山神社の境内社の中で最も注目したい神社があります。
それがこの余永神社です。
郷土誌にも多く取り上げられる余永神社。その理由は、郷土史を見ていただければわかります。
余永神社 祭神 不詳(口碑志摩の宗家二十四家の祖神を祀るといふ)
引用:『大飯郡誌』
長楽寺の西に不老の渓があり、俗に「余永屋敷」という。また元は赤礁崎に鎮座しニソの二十四祖神を祀るともされている。
島山神社の摂社余永神社については、「御祭神を記したものはないが、御祭座が二十四座に分かれ、各々に神霊が祀られていることから、「二十四名の開拓先祖を祀る」ニソの杜との関係が示唆されている」としている。
大谷信雄氏の記した中に余永は世永とも夜長とも書き、神体が二十四座あり、村中にも二十四の祠の杜があるとし、二十四家各祖神を祀るとしている。
「古老の伝にも余永神社ハ廿四家の氏神なりと云へりされバ此伝こそ正しかるべけれ」
「余永様は、にその神様と御同体の神様であって、我が志摩の宗家の二十四名の氏神なり(中略)。二十四名各家の御先祖様であって、我が志摩の土地を闢めて開拓し給ひし神様なり」
とも記される。
『長楽寺縁起(延宝三年)』や『若州管内社寺由緒記』に「廿四名の百姓共に諸官位御免被遊候」とあり伴信友も引用しているということから343年前ほどには二十四名の家格は実在していたと考えられるとしている。
参考:『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
元は赤礁崎にあって影長神社(永享十一年正月十五日賢海文書)と記した。その後長楽寺の近くの不老の渓影長屋敷に移り、さらに島山神社の境内に移った(年代不明)。
御祭神は明記したものはないが、伝うるところでは大島の二十四名の各々の始祖を祀ったもので、島民はこの社が氏神で、島山神社は産土の神だとも言っている。したがっておのおのの名にある「ニソの杜」の祖神を集合した社と考えられる。
むかし大島の二十四の開拓区があって、その各々が草分けの神を祭った森が「ニソの杜」で、今日は三十カ所に増えているが(それは永年の間に地神、山神、荒神などという森が紛れ込んできたものであろう)、その惣社が余永神社であるとして御神座が二十四座に分かれ、各々に神霊が祀られている。
こうした特殊な神社であるため、摂社としてあがめ、民俗研究家によく知られることとなったのである。お祭りを担当する株がある。後壁家(加部家)と糀屋(糀谷家)の二旧家がそれである。新田二カ所をそれぞれ耕作してお祭りの調物一切をそれで賄うのである。祭日は霜月の午の日(二度あれば初の午、三度あれば中の午)であったが、今は二十二~三日になっている。
引用:『大飯町誌』
そう、つまりこの余永神社は、大島で有名なニソの杜と関係があるとされ、そのうえで地元の郷土史には「余永神社=ニソの杜の総社」という考えがなされているのです。
確かにこの島山神社境内。まるでニソの杜にあるというタモの大木が大量にあって、それをかき集めたかのような、タモの大木の森になっています。まさにこの大島の信仰の中心にふさわしい境内です。
島山神社が産土神。余永神社が開拓祖霊神。
という関係で、この大島になくてはならない神なのでしょう。
しかしさらに視野を広げて他の郷土史を見てみると、また解釈が変わってくる内容が書かれています。
創建は飛鳥時代に勧請したともされるが、桓武天皇の御代と推考されるという。古くは若狭彦姫神の影向地に鎮座されていたが、後に多田嶽山麓、赤礁崎、長楽寺裏、島山神社隣接地、そして明治初期に島山神社境内に遷座。旧暦三月十日には「みかえりの神事」が伝承され、村人は上下の宮に詣り大神を拝したと。永享元年に三方守範次が赤栗島影長神社社殿を修復。
参考:『御大典記念福井県神社誌』
島山神社の項にも上下宮詣りのことが書かれていたので、それはこの余永神社のことだったのかもしれません。それともまた別のことなのか。
『御大典記念福井県神社誌』には余永神社が元々多田嶽麓にあったなどと書かれていますが、他の資料を見ると、元々大島の神である(大島開拓二十四祖霊神の総社)というような感じのことが多く書かれています。
もう混乱してきますね。
境内社余永神社について、『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』では、若狭内の同じ読みの神社を出して考察されています。
三方郡須可麻神社(美浜町菅浜)にある世永神社は仁徳天皇の御歌に建内宿禰を齢の長人と詠んだことに因み、宿禰を摂社に祀り「世永ノ神」と称した。神功皇后の祖母菅竃由良度美姫を祀ることと関係すると。世久美浦にも世永神社がある。また『若狭国神私考』に元慶三年(879)に帝が移り住み二十四名の百姓に官位を授けたという伝説があり、公家が配流された伝説を推察。
参考:『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
ここでまさかのニソの大島開拓二十四祖神以外の二十四名の伝説が出てくるという事態になりました。もう訳が分からないです。
もしかしてこれは大島とか美浜とかそういう範囲ではなく、若狭広域の話になってきているのでしょうか。
素人の私はここまでにしておきましょう。もう無理です。
境内(余永神社以外)
では、ここからは余永神社以外の境内社の様子を見ていきます。
島山神社本殿の横の道を抜けてゆくと、左側に境内社、右側に石碑や石像が並んでいます。そして海が見えます。
室内になっているわけではなく、おそらく浜風による風化の防止のためにプラスチックの壁が付けられているのだと思います。
ここに三社、
稲荷神社
恵美須神社
厳島神社
以上が並んで祀られています。
海側には島山神社の簡単な由緒書きがあります。とても簡単に書かれています。
そしてその境内三社の奥に、余永神社。さらに奥に、
左に御神輿殿、右に上下の宮遥拝所があります。
上下の宮遥拝所は最初、他に御霊神社という境内社があるというのでその神社かと思ったのですが、案内板や由緒書きに書かれていませんでしたし、最初の案内板にはこの位置に遥拝所が記されていたので、おそらくこれは、先ほど何度か登場した上下の宮遥拝所のことなのでしょう。
余永神社の項で、余永神社と関連付けられて書かれている郷土史もありましたが、ここでは別の物として配置されているようです。やはり余永神社は大島の神社であるということでいいのでしょうか。
いや、この話はやはりやめます。わけわからなくなりますから。
葬儀「アラブキ」
島山神社がいかに重要な存在かというのは、神社の信仰の面以外でも見ることができます。
それは民俗の中で最も重要であろう、葬儀葬礼について。
『福井県史15 民俗』にこのような記述があります。
大飯町大島では、死後五十日たつとサンバクを帯にして、島山神社へ参り、前の海へ行ってサンバクを捨てて拝む。これをアラブキというが、これによって忌が明けたことになる。サンバクはサンビャクともいう云々
引用:『福井県史15 民俗』
※サンバクとは、越前ではチガイ、若狭ではスガイともいい、湯灌をするときに使う仕切り、目隠し、結界のようなもの。稲わらなどでできているものです。
死後五十日。四十九日を過ぎたちょうどその時に島山神社をお参りし、忌明けとするのです。
大島の葬礼にも大きく関わっている島山神社。いかに偉大な存在かがわかります。
大島の重要な神社の杜
ニソの杜で有名な大島。
しかしニソの杜だけではなく、この大島を語るうえで外せない神社がこの島山神社にあるのです。
産土神である最も大切な島山神社。大島を開拓した二十四祖神を祀るニソの総社である余永神社。
この二つは、二つで一つなのかもしれません。
大島をこれからも守ってゆく、そんな神なのでしょう。
参考文献
『大飯郡誌』
『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
『御大典記念福井県神社誌』
『福井県神社誌』
『大飯町誌』
『福井県史15 民俗』
基本情報
最寄り駅 | JR小浜線若狭本郷駅からバスに乗り換え⽇角浜バス停下車すぐ |
自動車 | 大飯高浜ICから20分 |
駐車場 | 付近のスペース |
コメント