七人塚(郡区)と証拠仏に伝わる、昔の町の対立【勝山市】

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今も昔も起きる土地所有問題。
長い歴史から起こりうる、その問題から土地を守ろうと奔走した者たちの話。

福井県勝山市の中心地近くにある村岡町の中の大きな町「郡」

昔ながらの家々と、現代の新しい住宅地が混在するこの町の一角に、「七人塚」という塚があります。

今回はこの「七人塚」の由来と、関係する言い伝えと歴史について、現地と併せて見て行きます。

七人塚

「七人塚」の場所

七人塚場所

七人塚があるのは、郡区県道261号線より北側の住宅と商業地が並ぶ一角にある、村の墓地にあります。

墓地の正面にひときわ目立って立っているのが七人塚です。

七人塚

そこには説明板も掲げられているので、わかりやすいです。

この塚にはいつも新しい花が手向けられている印象です。

では、この塚はいったいどういった塚なのでしょうか。ここではまず、郷土史に載っている話を見て行こうと思います。

郷土資料の言い伝え

 小原から弁ヶ滝一帯の山を奥山といい、郡村の所有で、将軍から年貢で永久請けをして、それをさらに勝山他浄土寺~滝波など11ヶ所に卸していた。しかし勝山ではこれを勝山の所有地であると主張したため、郡村の代表七人が江戸に出て幕府に訴えた。裁判は郡側の勝訴。喜び帰る途中、七人は今庄付近で待ち伏せていた勝山側の者の手にかかり亡くなった。そして判決文は奪われた。郡村の人は村の墓地に七人塚をつくった。
 七人は郡村の3家と暮見、五本寺、寺尾、滝波の四村の代表の七人だった。今は郡の代表1家の平内家が墓の清掃をして、判決文は暮見に保存されている。

参考:『勝山市史』『大野郡誌』『福井県の伝説』

以上のような非業の死を遂げた七人を弔っている塚です。

ちなみに、郡の他に「暮見、五本寺、寺尾、滝波」の人がいるのは、この地域も一つの大きな町だったことによります。詳しくは後で記載します。

さて、この郷土史の記述は郡区と勝山町が真っ向から対立し、とんでもない状況まで来ていることがわかります。町と町との争いで人が亡くなっているのですから。

現地の言い伝え

郷土資料で見てきた分では、郡と勝山町はかなりのひどい状況にあったように見えます。

ただ、現地の案内板では、話がまったく違いました。

貞享元年(1684)に江戸訴訟になるも郡の主張は通らず、福井藩に掛け合っても受け入れられず、翌年庄屋と併せて5人処刑される。後、村の為に奔走した2人と併せて、元禄4年(1691)に塚が建てられた。

参考:現地説明板

現地ではもっと詳しく多くのことが書かれていますが、要点だけまとめるとこんな感じです。

まず、話のほとんどが違います。勝山側に手にかけられたこともないようです。

たしかに、そんなこと今の時代の案内板に堂々と書くわけにもいきませんが、果たしてそれだけが理由でしょうか。

七人塚の石碑から見る

七人塚の石碑にはうっすらと文字が書かれています。

七人塚碑文

もうすでに風化しているのか、または逆光で見にくかったこともありますが、非常に見えずらいです。

そこで、ある文献を頼ります。それは、勝山の石碑を網羅する『勝山市石碑調査報告書 勝山市の石碑 勝山市教育委員会二〇一四』です。それによると、七人塚にはこう書かれているようです。

梵字
元禄四辛未年七月二十九日
法界萬霊平等利益
轍堂可心造之

引用:『勝山市石碑調査報告書 勝山市の石碑』

元禄四辛未年とは1691年の事といいます。

つまりこの塚が何時つくられたのかがわかりました。

郷土史にはこの年代は出てきていません。

 

さて、先に記したこの郷土史と現地の違いについて、一体どちらが濃厚な説なのか気になるところです。しかし、その前にこの七人塚の話の続きであるとされる言い伝えもあるので、そちらを先に見て行こうと思います。

「証拠仏」の言い伝え

七人塚の郡と勝山の闘争の話には続きがあり、それがこの「証拠仏」の話です。

郡と勝山の奥山の争いはいつまでも続いていた。郡村は、今度は仏さまに採決してもらおうといい、薪を千束積んで、その上に紙の仏をのせて、仏が燃えたら勝山の勝ち、燃えなかったら郡の勝ちとして火をつけた。千束の薪は燃えたが、紙仏は燃えず空に舞い上がり、道場の屋根に落ちて、郡川の勝ちとなった。(または、火の中に紙仏を入れたら、表だけ僅かに焦げたが焼けなかった。)

参考:『勝山市史』『大野郡誌』『福井県の伝説』

昔の人は何かを決めるとき、火を使うのが常のようですね。ただ、今回のこれは、よくある熱した何かを持つというようなことでもないので、まだ平和な方でしょう。

ただ、これは郷土資料の方の続きなので、現地説明板にはこの事は書かれていませんでした。

ただ、この伝説で気になるところがあります。それは『勝山市史』に載っている「証拠仏」に関する一文。

天正年間、郡村の者と勝山の者が、奥山の境目のことで争った。

引用:『勝山市史』

「天正年間」という部分。

これは単なる記載ミスなのか、それとも・・・。

               

郡区について

ではここで、この言い伝えが伝わる郡区について少し見て行きましょう。この七人塚の事件につながる情か何かがあるやもしれません。

といっても、地名などからざっくりとしか書きませんが。

この「郡」という土地は、かなり昔からあった様で、『古名考』では「郡司」のあった場所ではないかともいわれているようです。ただ、かつて郡は隣の滝波村に含まれているということは留意するべきとされ、一部落にとどめるものであったともいわれます。
参考:『勝山市史』『大野郡誌』

ただ、『勝山市史』は重ねて、「郡」という地名の事を「大きな村」という意味だと記しており、七人塚の事件で、郡区だけでなく滝波や暮見などが関わってきたのも、そういった大きな村の一体感の事情があったのかもしれません。(単純に卸しの関係や勝山町の独占を嫌ったということかもしれませんが)

また、この七人塚の「奥山の所有」問題に郡区が必死になったのは、郡の村が今も昔も森林事業を生業としているからでしょう。

『勝山市史』によると、郡は個人の山ではなく、現在共同で「共有林」として森林生産組合を中心に、植林事業を行っていて、昔から部落在住者だけで運営しているとのこと。

郡の山とは、「個人の山」ではなく、昔から「村の山」だったというわけです。なので、絶対に守らなければいけないという気持ちがあったのでしょう。

勝山町と郡区の関係

ついでに、この郡地区と勝山地区との関係も少し見て行きます。

これらを踏まえて、最後に照らし合わせと、事実を洗って、一連の騒動の有力な説を見て行きます。

歴史関係

勝山と郡の関係を見ていく中で、最も面白いのが「勝山」の地名に関する話です。

というのも、元々「勝山」は郡区が起こりとされているからです。

平泉寺・朝倉景鏡と一向一揆との戦いで、一向一揆が勝利しました。そのとき一向一揆の城であった「村岡城」を「勝ち戦の村岡山城」であるから北袋(今の勝山)の農民が「勝山(かちやま)城」と呼び始め、それが勝山の名前の始まりとされます。

その後、信長が一揆の掃討に動き柴田勝家を越前に、勝家は柴田義宣(監物)に勝山の地を与えて一揆を処理。ただ、監物は北谷七家との戦いで戦死。その後の勝安が平定し、天正8年に袋田に城を築き、「勝山城」と名付けました。これが現在の勝山です。

元々は、村岡村郡区にあった一揆の城「村岡城」の「勝山」を、後にその一揆らを平定した勝安によって、袋田村北袋(現在の勝山の地)に「勝山」の名を移したという感じになったのです。

まあ、それがどうしたという感じにもなりますが、もしかしたらそういった地名の移動の歴史背景も今回の郡と勝山町の対立に関係しているのかなとも思わなくはないです。

奥山の所有

では、七人塚のメインの問題となっていた「奥山の所有」に関する話は、近年どうなっているのでしょうか。

1912年の資料になりますが、『大野郡誌』には、以下のような文が登場します。

  • 村岡村の項目に「勝山奥山部」の記述
  • 勝山町の項目に「奥山部は法恩寺山西北面を成せる全然山岳地にして~」の記述

つまりこれを見ると、近年の大正時代では、奥山は現在勝山町の所有になっているみたいですね。

さらに「奥山小史」なるものも記載されており、「当町(勝山町)高持町民が支配」だとか「勝山藩領は村岡山あわせて保有」だとか「元禄4年小笠原氏入封以来村岡山は植林山になった」とか、たくさん書かれていますが、見る限りでは勝山町所有という感じが色濃く出ています。

では、ここまでが郡に関することや言い伝えの話でした。

七人塚、郡と勝山の奥山闘争の要点洗い出し

さて、ここからは奥山闘争について、可能性を洗ってみましょう。

郷土史と現地説明板の違いについてみて行くと共に、現在ある事実を見て行きます。

郷土史と現地説明の違い

  郷土誌 現地説明板
郡区の訴訟の結果 勝訴 受け入れられず
7人の最期 今庄で亡くなる 5人処刑
最期を下した者 勝山側の者 福井藩
時代(年号) 天正 貞享

見る限りほとんど違いますね。

現在ある事実

  • 現地碑には「元禄四辛未年七月二十九日」の記述。
  • 大正時代は村岡村(郡区の村)ではなく勝山町所有。
  • 『勝山市史』の「証拠仏」の記述、天正の時代はまだ室町幕府であり、江戸に訴訟を起こしに行くこと自体おかしな話。(単なる書き間違いか)

こうみると、郷土史の話にはいくつかの食い違いがあるような。

有力な説は…

以上のことを踏まえて、有力な説は郷土史か現地案内板かどちらなのか。

個人的な意見ですが、辻褄があっていて、時代の誤りもなさそうで、最新の記述である、現地案内板の説の方が可能性がありそうな予感です。話の流れとしても、そちらの方が現実味もあります。

ただ、これはあくまで一説です。

多くの郷土史に載っているということは、その話も完全には否定できないということです。(天正の件以外は)

なので、どちらか一方の説を潰さず、この2説とも伝説として語り継いでいくことは必要だと思います。

村の英雄である7人

以上、七人塚を取り巻く言い伝えと歴史の数々を紹介しました。

いろいろな言い伝えや歴史認識などがあり、勝山の町の中でも昔はさまざまな問題があったのでしょう。

ただ、村の為に奔走したこの七人塚に弔われている7人は、この郡村にとっての英雄であり、敬意を払われる存在だということはどの説でも変わりません

今も常に新しい花が手向けられています。そして、この七人塚では今でも追悼法要が行われているとのことです。

参考文献:『勝山市史』『大野郡誌』『福井県の伝説』『勝山市石碑調査報告書 勝山市の石碑』、他現地説明板

基本情報(アクセス、最寄り駅バス停)

最寄り駅は、えちぜん鉄道勝山駅からバスに乗り換え、郡町3丁目バス停下車すぐそこです。

駐車場はありません。

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