福井県坂井市三国新保にかつて、陸軍の鯖江三六連隊兵舎と演習場があったようです。
今回、国土地理院の空撮や地域の郷土史を交えて、現地の石碑や跡地などの様子を見ていきます。
陸軍演習場兵舎と空撮
明治42年(1909)に砂浜に陸軍演習場及び兵舎が作られ、三里浜は地主から軍に貸与されました。
まずは特に深い話はせずに見て行こうと思います。まずは、どこにあったのか当時の様子の空撮です。
戦後3年ほどの様子ですが、当時そのままのように思えます。
新保の町から左の方の三里浜へ延びる道は、兵営を貫く主要道です。
『三国町百年史』には、
村内の一町(約109m)ほどの農地及び出来島と、九頭竜川の堤防下の七町ほどの田以外農地はなく、大戦中辺り山を開拓するまで農業は少なかった。
引用:『三国町百年史』
といいます。
大部分が軍の物になったのですね。上の空撮で黄色線で囲ったのはあくまで兵舎なので、演習場はもっと広範囲でした。
では現在(2008年)の様子を見ます。
大体兵営の境界と思われる物をなぞってみました。
今でも地形はその兵営に沿った境界線が引かれているように思えます。
周りは民家や畑、町の施設が立っているようです。
後で現地の様子も見ていきます。
お次は、陸軍演習場があった当時の様子を郷土誌から見ていきます。
演習場と当時の様子
ここから当時の様子について、『新保区誌』を見て行こうと思います。
兵舎の配置
この三里浜演習場は、明治四十二年に鯖江36連隊の演習地として創設、後に金澤騎兵連隊の錬兵場になり、昭和4年(1929)の六呂師演習場ができるまでは唯一の演習場として使用されたようです。
- 兵舎 東西250m、南北500m。
- 演習場 幅2.3km、長さ13km。
村の山林と浜を使用していたようで、兵舎の営門には衛兵が立ち、その手前には衛兵所(管理人宅)があり、広場には松の木があったと言います。
兵舎は松原住宅に4棟、新保体育館側に4棟、墓地の上に面会所、松原住宅の丘の方に弾薬庫・厩舎(馬小屋)・浴場、その下に炊事場・酒保(売店)、後になって炊事場・酒保付近に将校宿舎・集会所があったと言います。
簡単に言うと、道路を挟んで体育館側は北側、松原住宅側は南側です。
500~1000人程度の訓練が可能だったとか。
演習・兵舎・村の様子
36連隊は夜行軍で朝方に新保に着き、浜や松林で演習を行いました。浜には今はなき、丸山・松山と言った丘があり、実弾射撃訓練の標的となったようです。ただ、砂浜という事もあり、思うように走れず、服には砂が入り、銃口が砂まみれになるなど散々だったようですね。
夏演習には、金澤騎兵第9連隊が来ていた時があり、三、四丁目の各家が4斗樽2本を1日2回提供し、道路に馬を並べて水を飲ませていたと。
今はテクノポートになっていますが、ここら一帯は砂浜や丘がありました。戦後、工業地帯になるまでの数十年間は、弾丸などが多く埋まっていたかもしれませんね。
演習場なので通常は使用しないようですが、営門近くに番宅があり、退役将校が管理していたようです。兵隊がやってくると、朝夕ラッパが響き町の上人が魚・米・味噌などを納入し、酒保も開き、うどん・そば・菓子なども売られたようです。また兵隊から残飯をもらって養豚することもあった様で、『新保区誌』には「ちょっとした兵隊の町になった。」と書かれています。
現在の様子
石碑はどこにあるか
現在、三里浜兵舎跡には石碑と記念のオブジェらしきものがあります。
「三里浜兵舎跡」石碑の側面には簡単な説明文も刻まれており、現地でもその歴史を確かめることができます。
この石碑とオブジェがあるのが、かつての兵舎跡。現在のコミュニティーセンター敷地です。
兵舎跡の様子
広々とした駐車場と新保コミュニティーセンター。その後ろには、グラウンドがあり、更に横には新保体育館があります。この一帯が北側です。
そして、道路を挟んで逆方向には・・・
住宅地が見えます。松原住宅です。あれが南側です。
この体育館、グラウンド、コミュニティーセンター、住宅地一帯が兵舎跡というわけです。
境界石杭があるらしい
さらに、この新保のどこかに「陸軍省」という石杭があるらしいのです。
それに関して問い合わせた所、
現在は新保区で管理しており、非公開であり、どこにあるかも公表していない。もし学者や研究者としての取材であればお見せすることはできる。
という返答をいただきました。
残念ながら私は個人なので、これには当てはまりませんね。
そんな隠すようなものでもないと思うんですが・・・、まあ思う所は人それぞれなのでしょう。
ふれあい公園と忠魂碑
体育館の横から「ふれあい公園」という丘があります。
かつては、兵舎と新保の村を隔てた天然の仕切りだったのでしょう。
この公園の一番北には忠魂碑が建っています。
戦争という時代。日本の軍国という時代。この忠魂碑は、決して気高き誇り高き栄光の象徴ではなく、日本の為に散った人々を忘れることなく弔うため、戦争という悲惨な道を歩んだかつての日本を忘れないため、負の歴史を繰り返さないため、そんな多くの意味を持つ石碑だと思っています。
ここ演習場のあった場所に建っているというのも、さらに深い気持ちにさせます。
参考資料:『三国町百年史』『新保区誌』
基本情報(アクセス、駐車場)
最寄り駅は、えちぜん鉄道三国駅からバスに乗り換え、新保(川西)バス停下車徒歩10分。
三国駅から徒歩35分。
駐車場は、兵舎跡地の新保コミュニティーセンター内。
新保内周辺の記事
コメント