
福井の街中に柴田勝家の菩提寺、天台真盛宗光明山乗律院西光寺。
保育園も運営されているこのお寺は歴史も古く、かつて朝倉氏の手によって建てられました。今は柴田勝家との縁の深さで注目されているこのお寺。
今回は、西光寺のご住職に直接お話をお聞きすることができましたので、その内容も交えて紹介します。
そして前回の「首無し行列」と「柴田神社と北ノ庄城」に続いて、今回はついに柴田勝家の供養、墓所の地を見ていきます。
前々回:柴田勝家の幽霊 ~九十九橋の首なし行列伝説【福井市】
前回:柴田神社と北ノ庄城址の歴史 ~パワースポット【福井市】
西光寺について

光明山北ノ庄乗律院西光寺。
天台真盛宗。
本尊は阿弥陀如来。
西光寺さんは福井県福井市左内町のお寺や住宅が立ち並ぶ区域にあり、大通りから少し入ったところにあるので、少し迷うかもしれません。
今は「左内町」ですが、かつての町名は「相生町」といったそうです。
境内は広々としている印象です。
真ん中にお堂があり、奥に柴田公の墓碑があります。境内の様子や墓碑については、これから見ていきます。
では、まずお寺の歴史を見ていきましょう。その後で柴田公の墓地を見ます。
西光寺の歴史
朝倉時代
西光寺の始まりは朝倉時代まで遡ります。
延徳元年(1489)に朝倉孫次郎貞景(朝倉家三代目)の家臣上田兵衛尉景忠が主君の命によって、天台律宗近江国阪本西教寺の真盛上人を招請し開基として、岡保村次郎丸町の山ノ手に七堂伽藍を建立し「岡ノ西光寺」としたことに始まるといいます。
参考:『福井県の地名』『足羽の昔ものがたり集』『福井市史』『福井藩史話』
基本的には、「朝倉家三代目の貞景が真盛上人を招いて建立した」というのがよく言われますが、その建立に携わった人として、『足羽の昔ものがたり集』では、上田兵衛尉景忠という人をあげていました。
その建立の時、ある伝説が生まれました。
延徳元年西光寺、落慶供養のありしとき、三光ならび照らしてぞ、天華の降れる奇瑞あり。
引用:『足羽の昔ものがたり集』
『福井市史』によると、この出来事は六月四日の堂供養の時だったそうです。西方から光明が差したことから、お寺の号が「光明山」となったということです。
やはり重要なお寺の建立には伝説がつきものです。
これがこの光明山西光寺の始まりです。
ちなみに真盛上人を招いた後、上人に高三百石の朱印、吉野・蔵王権現の山林二里余りを寄進したそうです。
その後、織田が朝倉に攻めたことにより、天正元年に朝倉滅亡。その時にこの「岡ノ西光寺」も焼失したといいます。
柴田時代
兵火によって焼失はしましたが、天正三年から柴田勝家が越前を治めることになると、その勝家が西光寺・真盛上人に格別帰依して、天正四年(1576)に北の庄に再建するとともに、菩提寺としまし、北ノ庄西光寺と名を改めました。門前や畑地、除地など土地を寄付したそうです。
このとき勝家は荒廃した寺院の復興をしており、西光寺を「民生安定の根本道場」と定めて、禁制や制札で保護しました。
旧地である次郎丸の方も西光寺を再建したといいます。その旧地の西光寺の方は北ノ庄西光寺の「末寺」として再建したようです。
今よりもかなり大きな土地だったようです。
ご住職のお話によりますと、勝家が北ノ庄城を建てるときに親交が深くなったという事でしたので、勝家が越前を治め始め、北ノ庄城を建てるにあたって一番心の安定としていたのが、この西光寺だったのかもしれません。
現在の福井市の駅前周辺中心地の発展は柴田勝家の政策によって急速に進められてきました。ということはある意味、この現在の福井市街地発展の一番初めの軸、柱となる部分にこの西光寺の存在があったという事になるのではないでしょうか。
しかし天正十一年に、前記事で紹介した通り、賤ケ岳敗戦の後に北庄城にて勝家はお市と共にこの世を去りました。この時西光寺住職は九代目でした。
北ノ庄城で敗北した際、前の柴田神社の記事で書いた通り、浅井三姉妹の茶々、初、江を城から逃がしたという話があります。よく言われるのは、「秀吉軍に引き渡した」という話です。しかし、別の説もあるようです。
ご住職から聞いたお話ですが、西光寺さんに代々伝わってきた話では「三姉妹は西光寺にかくまわれた」という内容の言い伝えがあるといいます。
「かくまわれた」。だから西光寺にしか知る由もない話。確かによく知られる話とは違います。
しかし、勝家は秀吉を信用していたか?もし三姉妹を守ろうとしたなら、敵に保護させるのか、親交のあった寺にかくまうのか。
こう考えると、後者の「寺にかくまう」方が自然のような気もしませんか?
もしかすると寺にかくまった後、秀吉方に保護されたのかも。
といった、なかなか興味深い話も伝わっているのです。
その後
勝家が亡くなった後の西光寺の事はあまり郷土誌でも見ることはできないですが、『福井市史』に少しだけ書かれていました。
『福井市史』によると勝家が亡くなった後は、「大いに転変化、破滅同様貧困寺と成」だったそうです。
それでもさらにその後の様子を見ると立派な伽藍などはまだ残っていたようです。
しかし、それも文政十年(1828)七月、近くの山ノ奥からの大火事で西光寺も燃えてしまい、堂塔・伽藍が焼失。
さらに昭和二十年七月、福井空襲をもろに受け、堂塔の他にも什宝などすべて焼失してしまいました。
七月…。この月に焼失が重なるって、なんだか…。
まあ、偶然だとは思うのですがね…。

『足羽の昔ものがたり集』によると、現在のお堂は昭和33年以降に再建したといいます。
見た感じ外観は鉄筋コンクリートです。
なぜかというと、福井は空襲の後も福井地震がありました。
そのため、西光寺だけでなく、前回の真田幸村を供養した孝顕寺もそうですが、この辺り一帯のお寺は燃えにくく、倒壊しにくい鉄筋コンクリートのお堂になっています。
お寺らしさとか、景観とか、そういうことを思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これはこれでれっきとした「歴史」の歩みによって、成るべくして形成された「今の形」なのです。
ではここからは、遂に勝家公とお市の墓を見ていきます。
勝家公とお市の方(その一族)の墓
柴田勝家の墓

西光寺さんの境内東側に、柴田勝家の墓があります。
いかにも神聖な雰囲気をかもし出しています。
上段にある石の祠。その中に石塔が5つ入っています。
柴田勝家、お市の他に柴田家の人の墓がこの石祠に納められているのだそうです。
墓を建てたのは、『福井市史』によると山中山城守長俊とされ、現地には説明も書かれており、慶長年間に建てられたものと言います。
さらに、この石塔(五輪塔)は『福井藩史話』によると、この山中山城守は秀吉の士ですが、兼ねて勝家の恩に報いたいと思っていたらしく、慶長年間に許しを得て、西光寺境内に建立したのだそうです。
この山中長俊も中々凄いです。豊臣に許可をもらってまで勝家の墓を建てようとするとは、とても義理堅い人です。
また、柴田勝家の方も、自分が亡き後も秀吉側の人間が「勝家の恩に報いたい」と思えるほどの人情を持っていたという事でしょう。
この二人の人情と義理堅さが、いまの「柴田勝家の墓」という形になっているのですね。
後の項目でアップ写真を掲載しますが、上写真でもわかる通り、ほぼ破損無し。完全な状態です。
『足羽の昔ものがたり集』によると、この墓だけは福井空襲の被害を受けなかったのだと言います。
やはり、何かそういう特別なものがあるのかもしれません。
『若越墓碑めぐり』には勝家五輪塔正面に法名、右に没年、左に山中山城守と勝家の名が刻んであるという事が書かれています。現在のこの五輪塔の文字までは確認できそうにないですが、法名は『福井藩史話』『若越墓碑めぐり』によると、
摧鬼院前越州太守従五位下台岳還道大居士
と刻まれているそうです。
勝家の他の五輪塔の一つは、作次郎。乳母沢仲間伝内の守護により、越中城ヶ端→紀州根来寺→大阪の順に移動し、父の敵として秀吉を狙うも果たせず、後西光寺に勝家の木像を寄せて、慶長十九年この西光寺に葬られたといいます。
墓の形「越前式石廟」

見えるでしょうか。石祠の中に、たしかに5つ石塔があります。
さて、もしかしたら福井県外の方からしたら「なぜ墓なのに祠?」と思ってらっしゃる方がいるかもしれません。正直、私は何にも違和感はありませんでした。
しかし、ご住職のお話を聞いて大変勉強になりました。この時ご教示いただけなかったら、おそらくずっと知らないままだったでしょう。ありがたいです。
この石祠、越前特有の形なのだそうです。その名も「越前式石廟」。
ご住職は、この石廟について「小さいころからそこにあったのでこれが普通だと思っていた」とおっしゃっていました。
そこでいろいろ調べると、『若越郷土研究』という書にこの事が書かれていました。
越前では笏谷石を使用し、寺院建築様式をとりいれ、各所に華麗な荘厳を施した他に例のない越前独特の覆屋(「石龕」、「石廟」)が創られた。これらを越前式石龕および越前式石廟と呼んでいる。
引用:『若越郷土研究』
- 石廟(せきびょう)とは、高位の人の墓として使用され、中に墓碑や石塔などが納められている供養のもの。
- 石龕(せきがん)とは、神社や寺院にあり、月や太陽の形の穴が開いた扉などがあり、中に仏像や神像が納められたり、壁に彫られていたりする信仰のもの。
ということです。
なので、西光寺さんにあるのは「越前式石廟」ということのようです。
私も県内を色々見てきましたが、こういった「石龕」「石廟」といった石祠の形は多くあって、そういうものだと思っていました。特に坂井平野なんかにはそこらへんにどこにでもあります。
しかしこれが「越前式」という独特なものだとは・・・
越前と言えど小浜の方にもあるようです。他に県外にも少しあるそうで、滋賀辺りにも少しあるようですが、それらも勝家や福井県、小浜藩主などと縁のある所がその形式らしく、その形を見つけたら、ほとんどが福井県と何かしら関りがある石廟ということのようです。
とにかく、地域色の強い珍しいものという事です。
今回のお話がなければ、私はきっと疑問すら持たず、知ることもできなかったでしょう。
ありがたいことです。やはり直接お話を聞くことは勉強になります。
勝家の埋葬は
さて、この墓について勝家の死後に関わることを『福井市史』で見ていくと、次のようなことが書かれていました。
霊骸を光明山西光寺に納め山中山城守長俊五輪塔を造建せり
引用:『福井市史』
この「霊骸」というのは、遺体の事なのか?と思い、ご住職に尋ねた所、
実際に勝家公やお市の御骨を埋葬したという話は伝わっておらず、2人の遺体は北ノ庄城が炎上し燃えているから、もし遺骨が見つかったとしても誰のものかわからなかったと思われる。
とのことでした。
とにかく事実上、この西光寺に勝家やお市の遺骨・遺体が埋葬されているわけではないという事のようです。
さらに、
昔は勝家の墓は、今の資料館のあった場所に建っていて、墓を今の位置に移動させたときも特に何か出てきたというわけではない。
ということでした。

今の勝家の墓(石廟)と、その墓の前にある白い建物が資料館です。配置関係はこんな感じです。
なるほど昔はあの場所にあったわけですね。
『福井市史』の「霊骸」という言葉も「遺骸」ではないので、少し聞きなれず、遺体のことを言っているわけではないのかもしれません。
勝家公の供養
さて、ではいったいなぜこの場所に「霊骸」を納め、墓があるのか。
それは先ほども記した通り、勝家自身がこの西光寺をとても信仰していたからで、親交も深かったからというのはその通りなのですが、賤ケ岳の前に一幕あったようです。
というのも、ご住職のお話によると、
柴田勝家が賤ケ岳の戦いに行く際、何かを悟ってか、西光寺の当時9代目住職に「後のことは頼んだ」と、死後の供養を頼んでいたということなのです。
どれほど勝家と西光寺の縁が深かったかがわかります。
そして、先ほど記した「三姉妹を西光寺がかくまった」とする話。ここにつながる気がするのです。
最後の戦いの前に、この西光寺を頼りにしていたことが分かります。


上段の横に石碑が建っています。
表…柴田勝家公 墳
横…文政九丙戌年
なかなか古い物ですね。勝家の死後200年以上もたってからこうやって石碑が建てられ、今も説明板や石板が建てられ続け、いかに柴田勝家を慕っているか、供養をしてきたかがわかります。
そして今年(2022年)の4月で440回忌だったそうです。
毎年盛大に供養が行われます。
勝家公愛用の梅




勝家公の墓の横に大きな木があります。いったい何の木かというと梅の木です。
開花時の写真は2023年3月15日の写真です。
現地には説明もあり、勝家公愛用の梅だそうです。
こんな大きな梅の木はめったに見ません。
ご住職のお話では、400年くらいたっているのではないかということでした。
ということは、空襲・地震を乗り越えた梅なのです。
実際焼けたそうですが、その後花開き、生きていたのだと言います。凄い生命力ですね・・・。
ちなみにこの梅の木ですが、ご住職のお話によると
木が大きくなりすぎて玉垣が押し出してきている
という事でした。

凄い生命力・・・。
本当です。覆いかぶさっています。このままいくと玉垣が飲み込まれそうですね。
というか本当に大きいです。この玉垣が作られた時の想定を超えるほど大きくなったという事でしょう。
玉垣をも押し出す勢いのこの大きな梅。
勇猛で力強く、なんだか、勝家公を連想させるよう・・・。
もしかしたら、可憐な花は、お市さんかな・・・。

ぜひとも花が咲いた時期に又訪れたいですね。
他見どころ
さて、ここからは境内の他の見所を見ていきます。
資料館

勝家公の墓の前に資料館があります。
先ほども少し書きましたね。
一階には勝家とお市の像があります。
かつては古くからの木像がありましたが、それも福井空襲で焼けてしまいました。戦争は文化財も失うのです。
夏の夜の夢路はかなき跡の名を雲井にあげよ山郭公
木像に詠まれたうたです。
ちなみに今現在、感染症の影響で資料館は閉館しているという事でした。
西光寺さんは保育園も併設しており、園児たちがこの一階の像の前に集まって行事をすることもあるからだと思います。
ちなみに閉館中も、外から勝家公の像がちらっと見えました。
宝物
かつてあった木像の他に、雷除袖切丸の刀、馬印制札、漆が淵に沈んでいた漆門(鳩が門)付近にあった櫓の鬼瓦三個があったといいます。
鬼瓦は笏谷石製だったという事なので、もしかしたらどこかに焼け残っているかも・・・。
鬼瓦については後から知りえた情報なので、また探してみたいと思います。
北庄城礎石

前述で見た通り、ここは柴田勝家・北ノ庄城ととても深い関りのあるお寺です。
なので、北ノ庄城の礎石がこの西光寺にもあるのですね。
説明には明治七年の整地の際に発見されたものだそうで、おそらく柴田神社辺りから出た物だと思いますが、それがここに置かれているという事は、北ノ庄城・柴田神社との深い縁が、今尚繋がり続けているということが分かる、象徴的存在のように思えます。
石仏

境内に石仏が並んでいました。
よく見ると、螺髪のある石仏です。という事は如来ですか。
こういった石仏が数体並んでいます。かなり昔の物のように思えます。奥に見えるものは砕けたりしていますが、ひょっとすると、空襲や地震の爪跡なのかもしれませんね。
首なし行列は勝家の怨念と言われるが・・・
前々回、「九十九橋の首無し行列」の怪談伝説を取り上げました。
この伝説、最近は巷で取り上げられたのか少しだけ有名な伝説になりました。
しかし、どうでしょうか。前回の柴田神社に加えて、今回の西光寺。
こんなにも慕われ、祀られ、供養されているのです。
西光寺のご住職はおっしゃっていました。
勝家公の怨霊伝説などという話は今まで聞いたことがなく、逆に福井を発展させ、町の人々に感謝されてきたという印象です。
と。
今回、私は首無し行列から始まり、伝説から掘り下げた形で西光寺と柴田神社へ赴きました。
しかし、思ったのです。もっと見るべきは西光寺と柴田神社、北ノ庄城の話の方だと。
こんなにも大切に供養され、忘れさられずに、祀られ続けられる柴田勝家とお市。
怨霊などにはなっていないでしょう。
きっと安らかなはずです。
協力・参考
取材協力
『西光寺』
参考文献
『足羽の昔ものがたり集』
『福井県の地名』
『福井市史 下稿』
『若越郷土研究』
『福井藩史話』
『若越墓碑めぐり』
アクセス(最寄り駅、駐車場)
最寄り駅は、福井駅から福井鉄道に乗り換え足羽山公園口下車、徒歩4分。
福井駅から徒歩だと16分。
駐車場は境内。
※現在資料館は閉鎖しているようです。詳しくは公式ホームページをご確認ください。
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