福井県敦賀市沓見の敦賀総合運動公園近くの交差点、運動公園西口近くに石の祠がある区画があります。この祠について見て行くとともに春には桜が咲くのでその様子も見ていきます。
地理
冒頭でも言った通り、敦賀総合運動公園近くの交差点に広い区画があり、そのなかに石の祠があります。
ここは沓見地区にして北東にあります。北東の入口にあるという位置関係です。
沓見にとっての庚申塚
純粋な庚申信仰
現地の説明板には庚申塚についての説明が書かれており、ここには純粋な庚申信仰が書かれていました。
それによると、
集落外から入ってくる禍を追い払うと信じられ、沓見集落の鬼門にあたる北東に祀られるとし、江戸時代に全国的に流行った庚申講、庚申塚・塔などの庚申信仰の中で、沓見でも江戸中期以降に建てられたとされている。
という説明です。その他庚申信仰自体のことも書かれているので気になった方は現地でご覧ください。
ただしこの純粋な庚申信仰以外にもこの庚申塚にかもう一つ伝説が伝わっているようです。
伝説
その伝説が書かれているのは、地元郷土史の『沓見誌』。
それによると、この庚申塚の由緒は南北朝の金ヶ崎の戦いに遡るとされています。
延元一月一日に高師泰が金ヶ崎城を総攻撃。敦賀平野は足利軍が覆い、島津も参戦し、食糧も馬もなく籠城が二ヵ月続き忠臣も死んでいく中で、延元二年/建武四年(1337)三月に尊良親王、新田義顕、気比大宮司気比氏治父子等と自害された。そのとき尊良親王は新田義顕に自害の方法を教わって自害したとしているというが、俗説で義顕が尊良親王のの身代わりを出し服を取り返させて、一頭だけ残しておいた馬に載せて気比の松原へ逃がした伝説がある。しかしその後も賊軍に遭い沓見方面へ逃げた峠を避け、今の馬坂を登り下った際に馬が農具につまづき落馬し圧死したという話があるという。馬も餓死した。これを村人が見つけ賊軍に見つかっては首を持ち去られると思い、その場へ馬と共に土葬し、石を建てて葬ったと。場所は不明だが地籍名に「越の塚」があり、「馬坂」も馬で枯死た場所であると考えている。なお賊に知られては一大事ということで一丁手前に庚申さんをお祭りした。庚申は見ざる言わざる聞かざる。「庚申塚」の地籍もある。
参考:『沓見誌』
という話も載っています。あくまで俗説です。ただ地名として残っていることは伝説として意味があると思います。
馬坂は敦賀市総合運動公園プールの北にある交差点付近の坂道のことを言うそうです。あの辺りにもお堂があります。今回取り上げた庚申塚は、その馬坂から南西250mにあり、距離的にも近くにあります。説明板には江戸中期に建てられたとみられるとのことですが、元々ここに庚申塚があったものを改めて祠にしたものなのかもしれませんね。
ちなみに横にある石は説明板によると、楽土山人の句碑だそうです。
桜との景観
撮影は2023年4月1日。
信仰や伝説のある庚申塚の東側に桜並木が植えられており、春には満開の桜が見られます。
西側から見ると庚申塚の手入れされた植木の小丘と桜の背景、更にその奥に敦賀さくらの里という丘があり、晴天の空が広がるという素晴らしい風景になります。
華やかな桜の景色。しかし伝説を見ると儚い桜の色にも見える。そんな場所でした。
参考文献
『沓見誌』
現地説明板
基本情報
最寄り駅 | 敦賀駅からバスに乗り換え運動公園西口で下車すぐ |
自動車 | 敦賀ICから14分 |
駐車場 | なし |
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