福井県あわら市の金津神社はあわらを代表する神社で、継体天皇や織田信長とも歴史的関わりのある神社でもあります。
今回はこの金津神社についての歴史や御祭神について見ていきます。
御祭神と信仰
あわら市旧金津町春宮(十日)にある金津神社。大きな境内を持っています。
祭神:神日本磐余彦尊(神武天皇)、天児屋根命、経津主命、武甕槌神、姫大神、厩戸太子、金山彦命、伊弉諾命、伊弉册命
創立年:前身の大溝神社が継体天皇の時代。金津神社としては昭和24年から。
多くの神社を祀ることから、幅広いご利益があると思われる。のですが、まああまりご利益等の事は言及しないのがいつものスタイルです。
この神社の歴史は深く、福井の伝説の時代、継体天皇まで遡るといいます。有名な人物も関わってきた経緯があります。
神社の歴史を見ていきましょう。
神社の歴史
継体天皇
金津神社の一番最初の名は「大溝神社」といったそうで、これは継体天皇の勧請によって創立されました。
『御大典記念福井県神社誌』によると、境内にその名残ともいえる「継体天皇御腰掛石」なるものが存在しているそうです。
しかしながら、この資料以外でその情報を見ることはできません。
ただ現地ではそれらしきものはありました。
2つ石があります。
一つは立てられ、もう一つは横に置かれています。
座るにはちょうど良さそうな石です。
しかもこの2つの石のある場所は、一番上段の社殿と同じ場所(社殿の右横)にあるのです。
そんな格の高い位置に意味深に置かれた石。
特に説明などはありませんでしたが、私はこれが腰掛石だったのではないかと、妄想しています。
平安時代
平安時代には桓武天皇時代延暦十一年(792)に南都本宮の分神春日神社を合祀し、芦原大溝神社・春日大神などと呼ぶようになりました。
その後も多くの寄付があります。
- 坂上田村麻呂信仰による多くの寄付。
- 一条天皇時代、押領使齋藤民部小輔伊伝信仰社領を寄付。
- 後白河天皇時代、追捕使齋藤国貞が信仰厚く、保元元年(1156)勅使中納言時宗卿並びに興福寺衆徒伊予法眼等が神輿の御供をして下向し、神輿を寄付した。
かなり重要視されていた神社のようです。
創建が継体天皇とする意味では当然と言えば当然かもしれませんが、今の見た目が近代的なだけに、そこまで時代をさかのぼることになるとは私は思いませんでした。
戦国時代
- 室町時代、永禄(1558~)に入ると北陸は戦場に。福井も長く戦が続く。
- 天正二年二月(1574)一向一揆の兵火に焼け、社殿・宝物・記録はすべて焼失。『金津町の史話と伝説』によると、性宝院坊ひとりその場に踏みとどまり、身体だけは何とか守護した。これが社家斉藤家になる。
- 天正三年(1575)に織田信長に社領を没収された。
兵火で焼けて燃え残った欠片を保存していたようです。
福井県内の嶺北の社寺の古い物はほとんどがこの一向一揆や信長によって焼かれています。この金津神社もその一つだったようです。
それからしばらくは「川北芦原大溝神社」という号だけが残っていたそうです。
江戸から明治・大正と金津祭り
- 宝永四年(1707)氏子の協力で社殿拝殿を再興、寛延元年(1748)太守より寄付。大溝神社は3月11日。春日神社は8月15日に祭日を決め、春には市中に神輿を渡しました。
- 明治五年に郷社に加列。
- 明治十年四月に郷社大溝春日神社と改称。
- 明治三十年六月に古社寺保存法により社殿等修復・境内拡張・末社建築。加えて祭礼山車巡行を始める。
- 明治三十九年八月に鎮座千百年祭。
- 大正元年八月二十六日神饌幣帛料供進社に指定。
神社の激動の時代である明治大正にかなり整備されたようですね。
金津祭りでの山車の巡行は県内ではかなり有名なものだと思いますが、ここから始まっていたようです。
明治時代の物も残っています。
東京から寄進されたようですね。
福井大震災
ここで、福井の文化財のほとんどを壊滅させた3年がやって来ます。
その1つ、昭和二十三年六月福井大震災はこのあわら市にも甚大な被害をもたらしました。
境内の広場奥には震災の碑が立っています。
四角い石板には被害者の名前が並んでいます。
丸い石碑はこの慰霊碑と震災についてのことが書いてあります。
当神社も倒壊し、町の神社も倒壊。
倒壊した神社を昭和二十四年に境内社・合祀として当社に移し、それから春日神社を「金津神社」と改称しました。
現在の金津神社は、ここから出発したのでした。
歴史は長いですが、震災後に金津内の神社を合祀したために「金津神社」となったわけですね。
近年
- 昭和四十五年一月再建奉賛会を設立。
- 昭和四十六年鉄筋コンクリート銅板葺入母屋造り本殿幣殿拝殿翼殿竣工。
- 昭和四十七年五月社務所竣工。
- 昭和五十一年十二月社務所二階増築。
福井県の嶺北でよく見る、鉄筋コンクリートの社寺の建物です。
当サイトで取り上げた、孝顕寺や西光寺も鉄筋コンクリートです。
地震や火災に強い構造にした為に、このような鉄筋コンクリートの建物になったのです。
ちなみに、金津祭りについて面白い経緯があります。
7月20日が祭礼だった物を再建を記念して、昭和四十七年から6月2日になり、その後海の日が出来、7月20日にまた戻り、現在はその海の日に合わせて祭日を決めているそうです。
色々考えていたのでしょうね。
大震災後の境内社・合祀された神社
金津神社には現在境内社が2つあります。
金山神社と市姫神社です。
境内社は金津神社の鉄筋とは違い木造です。この二つも震災前は別の所にあったようです。
そして、白山と春日が本殿にて合祀されています。
これらの神社も『福井県神社誌』にはしっかりと由緒が書かれているほどの神社でした。
個人的には白山神社は形を残しておいてほしかったです。(理由は「伝説」関連です。)
「馬面のばば」という伝説で登場する妖怪が祀られていたのが白山神社でした。
しかし、そうできない事情もあったことでしょう。それでも名前や歴史が残っているだけありがたいものです。
他境内見所
ではここからは境内の見所を見ていきます。
狛犬
金津神社境内にはかなり古めかしい狛犬がいくつも置かれています。
もちろん新しいものもあります。
ただ、いくら大きな神社でも狛犬が居すぎではないかと思います。6対もいるのです。
なので、一つ仮説を立てます。
これらの狛犬はひょっとして、合祀した神社の狛犬も混ざっているのではないかと思うのです。
もしかしたら、この狛犬群の中に私の目当てだった白山神社の狛犬もいるのでしょうか。
そう思っておきます。
地蔵塔
上段の鳥居の向かって右にこのような塔が立っています。下層部には石仏が彫ってあり、なかなか見ごたえがあります。
『金津町の史話と伝説』にこれについての言及がありました。
境内の鳥居の右に五重の石塔があり、「九重四仏の形像を造立し奉り、神宮護国寺と為す。普明長老之れを建つ、天文十九年庚戌八月二日」の銘文がある。
引用:『金津町の史話と伝説』
確かにすごい文字がたくさん書いてありました。ただ、「天文」は見つからず。というか結構読みにくくなっていました。ただ「修復」と書いてあった記憶があります。
それにしても「天文」とは凄い昔ですね。よくここまで持ちこたえました。
神宮護国寺の役割ということで、春日神社時代に仏教を絡めたものにしたかったのでしょうね。
カエデ紅葉
金津神社社殿、境内社の辺りにもみじがあります。
秋に来ると紅葉で色づいていました。
しかし、11月1週目では赤く色づく木もあればまだ青い葉の木もあります。見ごろは後一週くらい後かもしれません。
石灯篭
金津神社の魅力は石灯篭にもあります。
「弘化三丙午年八月吉日」と彫られている灯籠があります。
これまた震災で倒れなかったのですね。
180年近く前の灯籠があるとは。
そしてひときわ異色を放つ灯籠がこれです。
何ですかこの装飾はカオスです。龍がうねりまくっています。
これもまた名物になるといいですね。
杉の大木
金津神社のある場所はかつて「春日山」と呼ばれた位置にあるのだと思われます。
他よりも一段と高い位置にあります。
なので、昔からあったであろう大きな木々も立っています。
その木々はなぜか石に囲まれ、不思議な存在感を放っているのです。
金津の総社として
金津神社は古くから重要な神社として鎮座してきました。
兵火や震災があってもその存在は絶たれることなく引き継がれ、倒壊してしまった町内の神社の安置の場となり、「金津の神の地」「金津町の社」として「金津神社」の名を掲げ、現代まで人々の信仰を受け止めます。
金津の神社の歴史はこれからも続きます。
参考文献
『御大典記念福井県神社誌』
『金津町の史話と伝説』
『福井県神社誌』
基本情報(アクセス、駐車場、最寄り駅)
最寄り駅 | 芦原温泉駅から徒歩9分 |
自動車 | 金津ICから8分 |
駐車場 | 境内にあり |
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