足羽川ダム建設地に沈む村たちを訪問【池田町】

福井県下池田地区には足羽川ダムの建設が進んでいます。

足羽川ダムとは福井豪雨を機に発足したダムで、このダムの建設により下池田地区のいくつかの村が沈みます。

なので完全になくなる前に下池田地区の「大本」「千代谷」「小畑」集落の最後をここに収めておきたいと思います。もう人は住んでいませんが、土地の歴史と「確かにここにあった」という痕跡や名残だけでも見つけて行ければと思います。

大本集落

大本集落

この大本村、『池田町史』によれば、

継体天皇の妃、目子媛(めのこひめ、部子媛ともいう)が、部子山登拝のとき、輿をかついだ輿丁前嘉の末孫が、延暦二十四年(805)に土地をもらって住居を定めたのが、大本のはじまりとも、平泉寺滅亡前に移住した三家がはじまりとも、草分けがはじまりともいわれています。

歴史的な集落なのですね。

ここには八幡神社があるはずなので、もうなくなっているとは思いますが行きます。

八幡神社

ここが八幡神社跡です。

まあ、予想通りの状態と言いますか、境内跡には砂利が盛られています。周りの住宅跡もこんな感じです。石垣は残っていますね。

なんだか・・・、ほんの少しだけ「ここにあった」という痕跡が残っているのが、嬉しくもあるし、むなしくもあります。

マップにはまだあった頃の写真が残っていました。

 

『池田町史』によると、

氏神には、八幡、薬師、権現、観音、部子山神、目子姫、毘沙門天、火産ノ神等が立像御姿で他は座像であるそうです。
正月一日にはをし、「花びら」という餅を作って、これを二枚、神社にお供えすることが慣行となっているそうです。

多くの神を祀っていたのですね。

この集落がどれほど大きな集落だったかがわかります。

干天が続くと、昔は祝部が神様の一体を奉持して、竜双が滝の滝壺に安置し神酒を供えて雨乞いをしたそうです。降雨があれば雨喜祭りを行い、感謝のために一日休んだそう。

昔からの雨乞いの風習も残っていたということで、歴史民俗的にも重要な土地だったのでしょう。またそれだけこの八幡神社は聖地としてあがめられてきたのですね。

みそぎ

先の八幡神社でもありましたが、元旦の未明に、八幡神社前の部子川清流で「みそぎ」の神事が欠かさず続けられてきました。
大本開祖の昔より伝わる神事だったそうです。

これはかなり重要な行事だったようで、まさに日本の集落の風習と言えるでしょう。

『会報集録郷土史探求 池田歴史の会』によると、

午前四時半ごろ拝殿で身体につけるものはワラジだけになり、外は真っ暗で、先頭の一番男と列の三番男、列の最後の祝部(ほうり)が松明を持ち、一列になって駆け足で部子川に入り、松明の明かりの中清流で全身を洗い清めた後、お互いに水をかけ清め合い揃って拝殿に戻ります

伝統的な神事が、つい今までずっと守り続けられていたのですね。

部子川

八幡神社があった前、道路を挟んだ川の写真です。

この川でしょうか。「みそぎ」をしていたのは。川へ入るための階段がありますが、神事のためのものでしょうか。

今ではわかりませんが、そういう憶測もまた面白いです。

大本の伝説「黒い雨」

この大本集落には数々の伝説が残っていますが、その中の一つです。

まずは、伝説の内容を見ていきましょう。参考にしたのは、『福井県の伝説』です。

 大本の泰澄作の薬師如来像は、雨を降らす霊験があると言い伝えがありました。雨乞いをする機会がありませんでしたが、ある夏その機会がやってきました。人々はどんな野草でも食べるという状況だったそうです。
 川上の龍双が滝の上に薬師如来を安置して、村人たちは空を仰ぎながら雨乞いをしました。人々は雨乞いに声をからしましたが、夕方になっても何もおこりませんでした。人々は悲しみや怒り、絶望で口々に罵り、薬師如来も放置したまま引き上げました。
 その夜、祝部の枕元に薬師如来が立ち、「我は薬師如来なり、大雨に流されて川上に止まって居る。」といいました。驚いて目がさめると、大雨の音が聞こえました。しかし、不思議にも降りつづく雨は、まっ黒な雨でした。祝部はその中で薬師如来を探しにいきました。
 人々の罵りにも関せず薬師如来は人々を救いました。薬師如来は今も尚、そしらぬ顔でほほえんでいます。

参考:『福井県の伝説』

おそらく、この薬師如来は、前述の八幡神社に祀られていたものであると思います。

八幡神社の神様は「干ばつの時、龍双が滝に祭って雨乞いをした。」とあるので、この神様だと思います。伝説と史実がつながりました。

ただこの「黒い雨」というのはなんだったのでしょう。あくまでも伝説の範囲内ですが、とても不可思議で気になります。できれば、この地で拝みたかったですね。今はもう、神社の石垣のみを残しています。

大本にあった金山の話

この大本にはの採掘の関する話も残っています。

部子山について、昔は山の領有に関しての争いが長く続いてきたといいます。

『池田町史』によると、

理由として「越前の名山」というだけでなく、砂金が採掘されていたからだという見方があるといいます。
越前松平家所蔵の越前絵図(慶長十一年作)には、大本村の周辺、蒲沢、篭掛付近とみられる場所に、「金山流跡」の符号があるそうで、砂金採取跡ではないかと記されています。

また、部子山麓の金山については、この金山流跡だけでなく、大本の「中瀬谷」でも「西青」でも採掘されていたといいます。

そんな栄えた金山が廃坑になった理由として、藩の財政救済の半知された時に、坑道に水を入れたとか、採掘時に鉱山から流れる汚濁水に下流の住民は悩まされていたらしく、後に廃坑になったとか、廃坑には諸説あるようです。

しかし、明治時代にはまた再開されていたようです。

もちろん近年ではなくなっていますが。

 

しかしそういえば、足羽川沿いの市波という町で、自然史博物館が主催する足羽川の砂金取りというものがあったような。

「足羽川の上流には金山が~」とよく見るので、もしかしたらこのことなのかな。

ダムがつくられることにより、砂金が取れなくなるなんてこともあるかもしれないのでしょうか?

別にダム建設を批判しているわけではないけど・・・。

 

また、大本にはいくつか伝説が残っていますが、その中にも「金山」に関する伝説があります。

それが「中瀬谷」の鉱山についての伝説です。

中瀬鉱山

 大本の鉱山はなやかだった頃は、魚屋や呉服屋があり、朝夕花売りの声すらありました。
 昔、1日の仕事がすんで、人々が帰り支度を始めた時、最後に居た鉱夫が仔牛ほどもある金塊が半ば現れたのを見つけました。人々は喜び、明日をたのしみに引き上げ、その夜は煮えかえるような祝の宴を行いました。
 しかしその夜、豪雨がこの地方を襲い、翌朝鉱夫がかけつけた時には縦坑は水に浸かり、金塊はどこに行ったかわかりませんでした。それは宝を探しあてた事を知った龍神が、縦坑の底から龍宮に奪って行ったとも伝えます。人々はその日のうちに取らなかった事を後悔しました。

参考:『福井県の伝説』

伝説と史実が結びつくというのは、とても喜ばしいです。伝説が史実の裏側やヒントを与えている場合もあるので、こういう伝説を「史実じゃないから」といって突き放すのはまた違うということです。

これほど金山の話があるということは本当にここには金山があったのでしょうね。

中瀬谷の場所は、大本と千代谷の集落のちょうど真ん中に位置する、南へ続く谷です。

中瀬谷には林道があったようですが・・・、

中瀬鉱山への道

こちらが「中瀬谷」を県道34号から見た光景です。今はこのように、柵で規制されていて行けません。(もっと早く来ていれば・・・)

別に金を狙っていたわけではないですが、残念ですね・・・。

マップへ

そのほかの伝説

伝承と信仰と歴史と自然が感じられる、大本集落の神聖な地として、「大石な様」というところがありました。

ここには特別思いがあったので、別記事で紹介します。

千代谷集落

千代谷の今昔

千代谷

続いては千代谷(読み方は「ちよだに」)ですが、今は写真の通りほとんど何もなくなってしまい、集落の痕跡は山の麓の土台だけになってしまっていました。

千代谷は現地ではもうほとんどその暮らしの痕跡を見ることができませんでした。

この千代谷のいわれはいくつかあるそうで、

  • 寛文九年三月(1669)に福井藩島田三左ヱ門奉行によって、従来火の坪村といったのを火事が多くて縁起も良くないからと、千代谷村に改名した説。
  • 村字名を大本と交換したという説。越前名蹟考には大本村の朶村(えだむら)としての火の坪の名がある。
  • 鎌倉武士岩崎幸正が土着した。昔は火事が多かったといいますが、古い記録には残されていないそう。

村や字単位の差があっても、「火の坪」という名は、あったようですね。

氏神「八幡神社」と「薬師ルリコ如来」

この村の氏神は八幡神で、

氏神八幡神社は誉田別尊(薬師ルリコ如来)を奉納し、建暦年間(1211~1222)鎌倉の武士岩崎幸正、源家没落後当地に隠棲土着、鎌倉八幡宮を崇敬して八幡社を創建すると伝える。

出典『池田町誌』

とあります。

「誉田別尊」とは八幡神の応神天皇のことですね。そこに()で「薬師ルリコ如来」と書かれていますが、一緒に祀られていたということでしょうか。

ちなみにこの「薬師ルリコ如来」、はじめなにこれ?って思いましたが、調べてみると、薬師如来の別称が「薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)」というそうで、その「瑠璃光」が「ルリコ」になったと思われ、つまりは、薬師如来さんということです。

昔は宮守りが銀杏の実を拾い集めて村中に配ったといいます。

また千手観音火伏せの秋葉大権現も別の場所に祀られていたようで、かなり信仰が厚かった集落だったようです。

ただ今では本当に何も残っていないです。それでも村がここにあったということを偲びます。

小畑集落

小畑には「下小畑」「上小畑」があります。

こちらもほとんどが無くなっていましたが、かつて交通のかなめであった橋が残っていたので、こちらも行ってきました。

下小畑

この地の氏神は春日神社と言い、ご祭神は素佐嗚尊で、神罰を恐れて胡瓜を食べない習慣があったらしいです。その後「下池田神社」と呼ばれました。

この下池田神社、参道の道に壁(新しい道?)が作られていて、もういけなくなっていました。

また、小畑新橋の近くに、浦ヶ淵というものがあったといいます。この淵には伝説が残っています。

小畑新橋から50メートル下流に昔大橋があり、橋下には大岩盤があって、岩の下が大きな渕となっていたといいます。渕には主が棲むと怖れられていたと伝わります。ただ洪水による土砂流出で埋没し、今は岩の一部だけが露出しているとされます。

参考:『池田町誌』

ただこの場所も明確にはわかりませんでした。

小畑新橋というのはおそらくこの橋のことと思います。

小畑新橋

ここから下流へ50メートル程度なら何か見えるはずですが、橋から見た感じでは川には石がごろごろあり、どれが大岩の頭なのかもわからない状態です。

横からは工事のため見ることはできませんでした。

いまではその岩の一部すらなくなってしまったのかもしれません。

マップへ

上小畑

小畑

もはや痕跡すら見つけることができないほどの状態でした。砂利が山積みにされ、もはやただの砂利置き場です。何とも虚しい光景でした。

 

氏神は白山神社薬師如来十一面観音が合祀されてありました。

やはりこの辺りの神社は、神仏が同じ場所に祀られていたようですね。

観音は泰澄大師が部子山登拝の時、村人が干ばつで難渋してる様子を見て、観音様を作ってご祈祷になると、たちまち御利益があって雨が降り干害を免れたと伝えます。これをたたえ祀ったのが白山神社のはじまりと言います。

やはり、村の神社は村の歴史を語ります。この村の神社を語ることで、何もなくなってしまった村でも、少しでも村があったという事実と名残を残しておきたいものです。

小畑の伝説「切株の竜」

この小畑にはある伝説も残っています。

その現地はわからないので、簡単に話だけ紹介します。村が無くなってもこういった村の伝承は残していきたいものです。

 ある日、五作というぢいさんが家路へと山道を急いで居ました。その途中に、一つの切株が転がっていました。ぢいさんは「家で囲炉裏で燃やそう」と切株を背負って見ましたがとても重く、流れる汗をふきもしないで家まで帰りました。
 その夜。不思議なうめき声のような泣き声が聞こえてきました。外を見ると、夕方背負ってきた切株が泣いていました。
「池野へ帰りたい、池野へ帰りたい。」
と聞こえます。切株に近づけば何の音もしません。背負ってみると、まるで綿を背負う様に軽かったのです。ぢいさんはそれを元に返しました。

 その後ある女が、池野の山田の沼でおむつを洗ったところ、空は暗くなり雨が降り出して、沼の中から大蛇が姿を現し、他の沼に移ったといいます。池野の沼の大蛇が切株となつて、昼寝の最中だったものを、五作ぢいさんが持ち帰ったのだ、という事がわかりました。
 小畑の後の宮ん谷という急な山を登ると、小さな草原があり、二つの小さな沼があって今もまだ池野と呼んでいます。

参考『福井県の伝説』

とても情景が想像しやすい物語です。

これは本当に「昔話」という感じの物語ですね。しかも後日談まであるのは面白いです。

「池野」という土地は本当にあった土地のようですね。しかし物語を見るにかなり山の上みたいです。いまも池野という所はあるんでしょうか。もしあるのなら行ってみたいですが、場所が全く特定できないので、おそらく無理でしょうね・・・。

これからも伝え続ける「下池田地区」

以上、下池田地区の3つの集落でした。

この集落以外にも「金見谷」「下荒谷」という村もありましたが、「金見谷」の方はすでに通行止めとなっており、行くことすらできませんでした。

金見谷への道

この先に金見谷があったようですが、足羽川ダムの施設の一部になるようです。

「下荒谷」の方はまだ行くことができたので、それの現地レポートは別記事に書きました。


これから足羽川ダムが作られていきますが、つい最近まで人が住んでいた集落があったということを忘れないために、神社や村の伝説などを語り継ぐのも一つの役割なのかもしれません。

村が無くなっても、そういった集落の言い伝えは残ってほしいものです。

そして、まだこの下池田の中には沈まないむらもあり、その村には大本集落と深くつながっている神社と伝説があります。こうやって村と村の間のつながりからも、無くなる村の伝承を伝え守っていけるのです。

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