福井県福井市東郷地区に朝倉時代の御仕置場、いわゆる刑場があったのだといいます。今は石地蔵と南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経の碑があるといいます。
それぞれの碑の由来もありますが、その場所には火の玉が出るとか言う妖怪の言い伝えも伝えられていたといいます。
今回はその刑場跡を訪問し、現在の様子を届けます。
御仕置場(刑場)の話
御仕置場の跡
一乗谷朝倉家百余年の間、御仕置場になっていたのが現在福田地籍の西北、福井へ通ずる道路と鉄道路線の交叉点になっているところだと伝えられている。(御仕置場とは死刑を執行する場所)その後誰も世話する者もいないままに草がおいしげり、夜な夜な火の玉が出ると云ううわさに通行する人々も恐れをなして困っていたので、同区の小林佐平次氏の先祖が之をうれえて同志を集め近村を廻って浄財をつのり建立したのが今もある南無阿弥陀仏と書かれた大きな石碑である。其の後妖怪の話もなくなり、交通安全の守となっている。尚御仕置には磔、火罪、斬罪、死罪等が行われた。
引用:『東郷村誌 後編』
この刑場は朝倉時代の刑場であったということです。
北ノ庄側の刑場はいろいろと資料が残っていますが、朝倉時代の刑場はなかなか目にする事がないので貴重です。
朝倉に関係する寺も東郷地区にあります。一乗谷から近いこともあり、このあたりは朝倉の色が濃く残っている土地です。

現地には南無阿弥陀仏の石碑一基、南無妙法蓮華経の石碑二基、石地蔵数体がありました。
南無阿弥陀仏の石碑はかなり大きいです。これが言い伝えにあった石碑であると思われます。
石地蔵は堂の中に入っている物。堂の外にあるものがあります。堂の中の地蔵が刑場を伝える地蔵でしょうか。堂の外にある地蔵は頭部がなくなっています。
個人宅の前にあるので、どこまで撮っていいのか中々悩ましいです。
地理
刑場跡があるのは、先も話した通り、道路と鉄道路線の交差する場所で、現在の踏切の近くです。

この道は古くからある道です。朝倉時代まで遡るとどうかわかりませんが、少なくとも明治時代には東郷への主要道路。つまり朝倉への主要道路でもあったということだと思います。
よく刑場は主要街道沿いや河原などにあって見せしめのために人が多く通る所にあるなんてことが言われていますが、朝倉時代の時点でそうだったのかは不明です。
東郷の街中からは西に外れた場所です。今では住宅が密集しています。1930年ごろまではこのあたりは田んぼだったようです。
名号碑、石地蔵について
この刑場についての話は、初めに見た郷土史『東郷村誌』の前編にも記述があります。
早瀬氏の前東郷、中島〇北方に昔ながらの石地蔵と南無阿弥陀仏の石碑と南無妙法蓮華経の碑石の三体があり道行く人の足を止めたものであった。其の由緒について考慮して見たい。
引用:『東郷村誌 前編』
ここに書かれているのは、先ほど見た刑場の話とは少々異なるものでもあります。少し見ていきます。
石地蔵
地蔵尊について
福田区十六番の田字に石塚とあり、(イ)佐久兵田(ロ)元田(砂田)という田字もある。此の石塚の辺は朝倉時代の刑場(オシオキ場)であった。そうした関係で其辺に塔として石塚を立てたもので中は石地蔵にもあった。
引用:『東郷村誌 前編』
これは先ほどの言い伝え通り、刑場があったが故の石地蔵であるということです。
少なくともこの場所が刑場であったということ、そういった場所であったということは、言い伝え上では確定のようです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏の碑について
小林十代目(作兵衛)の分家が現在の小林佐平次氏である。小林作兵衛家の分家の法眼浄真沙弥と言う人は生来信仰の厚かりし人で当時の「ナンマイダ」を信仰されて死去の際石碑に南無阿弥陀仏を記されて記念されたものである。
引用:『東郷村誌 前編』
先ほどの言い伝えでは、「夜な夜な火の玉が出ると云ううわさに通行する人々も恐れをなして困っていたので、同区の小林佐平次氏の先祖が之をうれえて同志を集め近村を廻って浄財をつのり建立したのが今もある南無阿弥陀仏と書かれた大きな石碑である。」という風に言われていましたが、少し違う話になっていますね。
ではこの石碑は別の物なのかと言うと、現地には一つしかなく、違うものであるというわけでもなさそうですし、さらに建立者が「小林佐平次氏の先祖」であるという共通点があり、どうもこれはいつもの言い伝えの「諸説ある」ということになるのではないかと思います。それとも両方の説が正しいのか。
いずれにしてもそういった内容の言い伝えがある石碑ということです。
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経の碑
明治初年に「タテカリ」という相撲取りがあった。仲仲の力士で力持ちでもあった。米三俵を悠々として頭上に上げて歩いたといわれる程であり、妻は安原の人である。主人が亡くなった時、安原で供養の為南無妙法蓮華経の碑を建立した。妻は日蓮宗であったという。因に此の石碑を後になって福田に移す時は大変な騒ぎであった。「石ひき」というて村民多数が出て之を移転したらしいので其の経費二十俵を要したと伝えられている。
引用:『東郷村誌 前編』
南無妙法蓮華経は二つあります。どちらがこの言い伝えの物なのかは、わかりません。
しかしどちらともとても古いというのはよくわかります。
刑場があって、石碑が立てられた石塚という地には、そういったものが集められてゆくのかもしれません。
刑場の為の名号碑なのか庶民の信仰の由来なのか
以上南無阿弥陀仏を中心にして左右地蔵尊と南無妙法蓮華経の石碑を立てたのである。何れにしてもかかる宗教的な伝説と朝倉時代の刑場との関係は因縁があることは確かである。
引用:『東郷村誌 前編』
どんな伝説があれど、何にしても、そういった地なので最初は霊的なものを抑えるために建てられたものが、徐々に信仰の場として発展していった。それが今でも残っているということです。
最後に「刑場」との関係を書いているあたり、ここが刑場であったという話と関係する石碑石仏はこの土地にとっては強い意味を持つ重要地点であるということなのでしょう。
朝倉の遺跡の一部
江戸時代の刑場ならともかく、朝倉時代の刑場跡が残っており、しかもそれに際し石碑や石仏が残っている。
刑場ということが残るのは、まず朝倉時代以降に刑場に塚を築いたことから、現在は信仰の施設として石碑が集められ、おそらくこのあたりも家が増え、道路が拡張整備もされたことでしょう。それでもこうして残し続けてくれているというのは、昔の人から伝え続けた遺産です。
刑場という重々しい場ではあれど、それは価値があるものであり、次世代にも伝え続けていく、そういった場所であると思います。
参考文献
『東郷村誌 後編』著者東郷村誌編纂会 出版1957.3
『東郷村誌 前編』著者東郷村誌編纂会 出版1956.7
基本情報(アクセス)
最寄り駅 | JR越美北線から徒歩10分 |
自動車 | 福井ICから6分 |
駐車場 | なし |
コメント