福井県大野市佐開に荒島神社があります。その後ろには、荒島岳がそびえ立っています。
別名や山頂祠の仏像、南無阿弥陀仏の石碑から信仰の歴史を物語ります。
今回は荒島の信仰、伝説について見ていきます。
物部氏や仙人伝説もあるのです。
結構長くなります。
荒島信仰
荒島
荒島岳は大野市大野盆地の南東に位置します。
現在は福井県唯一の百名山として県内登山者はもちろんの事、県外登山者からも人気を集めているようです。
私のもぼってきましたが、実際その眺めは最高です。私も紅葉の時期に登ってきましたが、紅葉はさることながら、晴れ渡った日には大野勝山はもちろん、三国の海や福井の足羽山も見ることができます。
ただ、昔は荒島岳は「登る山ではなかった」ようです。
別名から見る荒島
そんな荒島岳が、古くからどのような形で人々に見られていたのか。
それを別名から読み解くことができます。
- 大野富士・・・勝山下荒井からの眺望が美しく、富士の名に相応しい。
- 蕨生山・・・和銅六年(713)の風土記に書かれる名。荒島岳は蕨生地区にも接している。中出登山口が蕨生地区。
- 阿羅志摩多気・・・延喜五年(905)の延喜式に書かれる名。
- 越の黒山・・・昔、三国港入港の目印となっており、この名が付いたとされる。
- 嵐山・・・物部荒山連公勲功が恩賞としてこの山を賜った。公が没した後、荒山大権現と祀った為、この名を「嵐山」と呼んだ。
- 嵐間ヶ嵩・・・貞享二年(1685)の絵図記にかかれる名。上の「嵐山」から来たものか。または荒島岳から吹き降ろす強風から「嵐」の名が付いたか。
- 大山・・・和名抄にかかれる名。大野を象徴する山のためか。
- 仙山・・・仙人の住家とされたため付けられた名。後に説明。
- そばつぼ山・・・ソバツボを伏せた形に似ているため。後に伝説説明。
このように多くの名前が付けられていました。
『山々のルーツ』によると、阿羅志摩多気(あらしまだけ)の読み方の初出がこの延喜の時代だとしています。
自然への畏れ
荒嶋の名前の「荒」や「嵐」という字が見受けられ、いかにも荒々しい存在に思えます。
『大野市史』に掲載される『荒島山大権現縁略記』には、嵐山から荒島になったとしていますが、もう一つ理由があると考えられます。
それは「荒島颪(あらしまおろし)」という強風です。
4月頃に荒島岳から乾燥した南東の強風が吹き下ろされ、これを「荒島おろし」というそうです。大火をもたらす風として畏れられていたといいます。6月7月には南東の風がウンカ(稲に着く虫)を運び、稲に被害をもたらすともいわれているそうです。
参考:『角川日本地名大辞典 18福井県』
また『大野郡誌』ではこの荒島颪についてこんな風にも書いてあります。
作物を害するのみならず、時々火災を起こさしむ、即ち、木本の二大火災大野町の二大火災は、皆この風の視融を援助せしものとす、之を荒島颪とて、最も人の嫌忌する所以なり
引用:『大野郡誌』
こういった自然の脅威という点でも、荒島岳の「荒」「嵐」という字が使われるようになった理由なのかなとも思います。
山岳信仰の始まり
この荒島岳の山岳信仰の始まりは色々説があるそうです。
- 泰澄が開山した。『山々のルーツ』
- 行基が聖観音菩薩を安置した。『大野市史』
偉い坊さん2人の説ですね。
泰澄や行基が山岳信仰によって荒島岳を開きはしましたが、普通の人登ることはありませんでした。
むしろ人を寄せ付けない山だったそうです。「登山による信仰」ではなく、「山自体を崇める信仰」だったそうです。
前項の自然の恐れからくる近寄りがたい何かがあったのかもしれませんね。
さらに垂迹として、この佐開・荒島の地が物部氏の居住地だったとされています。
物部氏
物部氏といえば日本のかなり有名な豪族です。その一部がここ佐開にいたそうです。
そして、今回取り上げている荒島神社・荒島信仰が物部氏ゆかりのものだということなのです。
『越前若狭の伝説』『帰雁記』では、この荒島岳が物部氏がいた山としており、『大野市史』では荒島権現の垂迹が物部連公朝臣だとしています。
さきほど、嵐山の由来として、「物部荒山連公勲功が恩賞としてこの山を賜った。公が没した後、荒山大権現と祀った為、この名を「嵐山」と呼んだ。」とされているのも、この物部の在山だったという点と同じ意味なのでしょう。
つまり、ほぼ間違いなく、この佐開・荒島の地は物部氏と深い関りがあったということです。
現在も佐開の荒島神社では、この物部氏を祀ってあります。
というわけで、ここから実際に現地の様子を交えながら見ていきましょう。
荒島神社
ご祭神と物部
佐開区、荒島岳の麓に位置する場所に現在荒島神社が鎮座しております。
祭神:物部大連ノ霊
合祀祭神:天津児屋根命
創立年不詳。延喜式に記載あり。
祭神がまさに「物部の祖霊」なのですね。
『山々のルーツ』によると、継体・安閑・宣化・欽明・敏達の天皇に仕えていた物部氏を祀っているそうです。
『福井県史』には、
「大野郡 物部万呂 大山郷」
参考:https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T1/2a3-01-04-03-04.htm
と書かれています。つまり、大野郡の「大山荘」に物部氏がいたという事なのです。
「大山郷」というのは「小山荘」の事だとされると『福井県史』ではいっており、その範囲は見た感じ大野市のほぼ全域のような書き方でした。大野郡内の物部氏の配置はこの「大山荘」だけしか書かれていません。
おそらく佐開もこの大山郷(小山荘)の中に入っていたのでしょう。
大野に物部氏がいたことはこれで間違いないのではないかと思います。
ただ『福井県史』のニュアンスだと、「物部氏所管の部民」と考えられらしく、要はこの地に元々住んでいる一部の人々が物部氏の管轄下にいる人々という意味のようで、その物部一派みたいな感じということらしいです。
実は以前越前町の「竜典長者」という伝説の記事を取り上げました。ここに継体天皇の治水伝説が関係してくるのですが、この竜典長者伝説に登場するのが「物部佐昌(すけまさ)」。物部氏なのです。
継体天皇に仕えた物部氏という事は、荒島神社の祭神の一人でもあるという事。
継体天皇と物部氏の影響がこの福井県の少なくとも嶺北広域に及んでいたという証拠であり、話のつながりがあるのです。
ちなみに、現在は白山信仰とも結びつけられているようで、白山三山を祀っているとも。さらに武内宿禰を祀っているともいわれています。
歴史
境内は大木が多く、石垣が積まれています。
荒島岳の山岳信仰の始まりは、先ほども言った通り2つ説があり、泰澄説と行基説です。
いずれも同じ年代で西暦600年代後半からの人物です。なので、山岳信仰の始まりはその辺りの年代だと思います。
しかし、先ほどの物部の話を見るに、敏達天皇まで仕えた物部を祀るという事は、敏達天皇西暦580年代までで、それ以降に祀り始めたという事でしょうか。結構近い年代ではありますが、それでも大体泰澄行基までは100年ほどあります。
里人が物部を祀り始めたのが始まりともされるので、泰澄行基の前から物部氏を祀っていたという事なのかもしれません。
『大野市史』掲載の『神社明細書』や『大野郡誌』によると、元々は山頂付近にご神体となる像を安置して祀っていたといいます。この山頂にあった神社が延喜式に書かれていた荒島神社なのだそうです。
しかし、昔にあった山崩れで神社は倒壊してしまいました。
これが鬼谷の山崩れです。後に伝説の項目で記しますが、頭と胴がわかれてしまい、真名川へ流れてしまいました。頭だけが佐開に残り、胴が堂本まで流れていったそうです。
その経緯があって荒島神社は、明治元年八月に麓の今の土地へ移ったという事です。
少々急な階段を上がります。苔むした境内。古くからの聖域の雰囲気です。
ただ、荒島神社がここへ移ったという内容の中に少し気になる文言があります。
『大野市史』の『神社明細書』に、
延喜式に見ゆる古社にして昔時は荒島岳頂に在りしを、中古山崩れの際倒壊し、因って明治元年村人相議り、嶽麓の今の春日神社に鎮座せり
引用:『大野市史』の『神社明細書』
「春日神社」の文字が見えます。
つまりこの時は、麓の神社は元々「春日神社」だったということでしょうか。
ここで、現地の様子を見ます。
先ほどの現地の階段を登った先にあるのがおそらく拝殿と思われ、扁額には「荒島神社」とかかれています。
しかしながら、その裏をまわってみます。
位置関係的に本殿にありますね。
拝殿の真後ろにある社です。
この社を見てみると、
そう、「春日宮」と書かれているのです。
まさに『大野市史』の記述通り、いまも拝殿の真後ろにある中心の社は「春日神社」なのです。
でもおかしいですね。拝殿や鳥居横の社標には確かに「荒島神社」の文字が書かれていました。
ではどこに荒島神社があるのか。
この荒島神社はの境内は、3段構造になっています。
1段目は広場、2段目は拝殿、3段目は本殿並びに境内社。
その2段目の拝殿の正面むかって左側に、もう一つ社があるのです。
雪囲いの中を覗くと、「荒嶋神社」の文字があります。
ここが荒島神社なのでした。
扁額には「嵐嶌宮」の文字が。
まさに先ほど別名の項目で行っていた、「物部荒山連公勲功が恩賞としてこの山を賜った。公が没した後、荒山大権現と祀った」という話の「荒山」→「嵐山」の「嵐」なのかと思います。
ここで物部の祖霊信仰の形を見ることができるというわけですね。
『御大典記念福井県神社誌』によると、しばらくは木像「釈迦如来仏頭」は山頂にあったようですが、明治四十三年八月に神宝すべて今の神庫に保存を始めたようです。この「釈迦如来仏頭」は後に市の文化財に指定されました。
境内社
荒島神社内には境内社が多くあります。
三段目にずらりと並びます。
それぞれ見ていきましょう。
八幡神社
祭神:誉田別尊
神明神社
祭神:天照皇大神
村上神社(権現さん)
祭神:少名彦命
白山神社(北堂さん)
祭神:伊邪那美命
天満神社(天神さん)
祭神:菅原大神
愛称みたいなのが付いている社もありますね。
白山神社もあり、白山信仰もあるという先ほどの歴史の話にもつながる部分があるように思えます。
全部で
- 八幡神社
- 神明神社
- 村上神社
- 白山神社
- 天満神社
とにかくこれが現在の境内社です。
ただ、またしても『大野市史』の方に、気になる記載が・・・
『大野領諸宗寺方寺領記』というものに、「荒嶋大権現社」の題名で
一、神明大神宮
一、春日大明神社
一、白山大権現社
一、八幡大菩薩社
一、天満宮社
一、行基菩薩堂
と書かれており、「村上神社」がなく、代わりに「行基菩薩堂」なるものが書かれているのです。
荒島岳をはじめに開いたという説の1つ、行基のお堂があるというのです。
ただ、『御大典記念福井県神社誌』には行基菩薩堂については一切の記述が無いため、現在は存在しないのかもしれません。
いずれにしても、いろいろな説や話が錯綜し、それらが現地や書物でも証明されるという状態です。
荒島岳
さてここからは、先ほどの荒島神社と昔の信仰の会話からは少し離れて、現在の荒島岳山頂にある信仰の形を紹介しましょう。
山頂祠と元治の石仏
荒島岳山頂に祠があります。
かつては山頂祠は奥宮とされた時期もあったそうです。ただ現在もそういう感覚でいいとは思います。
結構立派な祠です。
今でも山頂の信仰は厚いように思えます。ただ、お参りする人はそんなに多くはありませんでした。
歴史を見ると土砂崩れで山頂の信仰物はことごとく流されたというイメージがありますが、この祠を覗くと、
石仏群が祀られているではありませんか。
まだ山頂にもしっかりと信仰の形が残っていたのです。
しかもよく見ると、
元治元年(1864)の石仏まであります。
これは意外。明治時代に麓の荒島神社にすべて持って行ったと思っていましたが、こういう石仏に関しては、山頂に残していったのですね。それかまた後の時代に再び持ってきたかですね。
いずれにしてもそんな昔の石仏を荒島岳山頂で拝めるのは素晴らしいことです。
南無阿弥陀仏の石碑
石仏の祠の後ろに、石の山積みと共に「南無阿弥陀仏」の石が置いてありました。
後ろの形式と併せると何とも良い光景ですが、この「南無阿弥陀仏」の石碑の後ろ側にも文字が書かれていたのです。
こんなにたくさんびっしりと
「首題五萬」という文字が見えます。
その他はいったい何なのか。何のための石碑なのか。
郷土史にも書かれていなかったので、ここは大野市教育委員会事務局さんの手を借りることにしました。
とても親切にご回答くださいました。
この「首題五萬」にはその下に「部」という文字が書かれていると思われる。
「首題」は「経典の冒頭部分」の意味。
「五萬部」とは「5万巻(冊)」の意味。
つまり、「経典5万巻分の供養する(神仏に奉げます)」という意味になる。
さらに表に「南無阿弥陀仏」と彫られていることから、
「南無阿弥陀仏という名号を5万回(=たくさん)唱えて、阿弥陀仏に奉げます」
という意味を読み取ることができる。
『大野市教育委員会事務局 生涯学習・文化財保護課 文化財保護グループ』のご回答を参考に編集
ということでした。
荒島岳の神社の話をずっとしていたので、ここで仏教色が一気に強くなった感じがありますね。物部氏を祀る荒島岳で仏教が色濃いとは。
ただ、大野市教育委員会事務局さんの見解によると、この石の彫られている文字がほとんど風化していない点から、そんなに古い物ではないと思われるとのご回答もいただきました。
周りの文字も、名号などとの位置関係から経文ではないと思われるとのことです。
ここからは私の想像ですが、後ろの積み石も見るに、もしかしたらつい最近になってここで命を落とした登山者の弔いの為につくられたものなのかもしれないと、勝手に想像しました。
謎の建造物
謎の建造物があります。
ロープの向こう側の小竹の中にあり、登山者は立ち入ることができません。
よく見ると、蝋燭を立てられそうなものが付いています。というか蝋燭が立っているようにも見えます。
ちょうど祠の前辺りに位置していますので、何かの祭壇かと思いました。
ただ近寄れず、どうも気になるので、先ほどの石碑と併せて大野市教育委員会事務局さんにこれも聞いていました。
無断立入かと思われ、山火事の心配もあり、違った形で信仰を示して欲しいと願うばかり。
画像を拝見した限りでは、伝統的な祭祀跡等ではございません。
とのことでした。
独自の信仰をされている方がいらっしゃるのでしょうか・・・。
伝統的な祭壇ではないという事ですっきりはしましたが、謎は深まるばかりでした・・・。
鬼谷
さてここからはまた歴史の話に戻ってきます。
鬼谷の由来
「鬼谷」の読み方は「おんたに」と読みます。
『山々のルーツ』によると、
「鬼谷」は、昔は鬼が棲むと言って怖がられ、別名で「蛇谷」ともいわれて毒蛇も多かったと伝われ、そのために登らなかったのかもしれない。
参考:『山々のルーツ』
としています。蛇と鬼とは、なかなか昔の人からしたら恐ろしいものだったでしょうね。
個人的には、この「鬼谷」というのは、それこそ荒島岳の恐れから来ていると思います。
それが先ほどから書いている「山崩れ」です。この荒々しい自然現象が「鬼」と結びついて、「鬼谷」となったんじゃないか。鬼が暴れているとか、鬼のように恐ろしいとか、そういう意味での「鬼谷」なのではないかと思うのです。
ある意味、荒島岳に登らなかった理由は「言い伝え」と「実際の自然災害」が相互作用して「荒島岳恐ろしい」となったのかもしれません。
そんな鬼谷(佐開コース)を行く私の下山記録があります。
切り立った岩壁があり、いかにも山崩れを起こしって来たのだなぁという感じの風景でした。
鬼谷と今は亡き佐開の宗教施設
『越前若狭の伝説』の中にこのような文があります。
荒島岳の六合目に寺坊があり、多くの神仏が祭ってあった。ある年、大水が出て荒島岳が崩れ、寺坊は奥(おん)谷に押し流され、すっかりうづまってしまった。
引用:『越前若狭の伝説』
流れた後、佐開の人が首から上だけ出ているのを見つけて、それを佐開内に祀ったのだそうです。
今、荒島岳の六合目というものは存在しないので、場所の特定はできませんが、奥谷つまり鬼谷に流れてきたという事は、鬼谷のどこかにその寺坊があったのでしょう。
このように、荒島岳佐開側鬼谷には宗教施設があったという記述が、他の多くの郷土史にも書かれています。
- 荒島岳半腹より上に白山三社を祀る。昔はそれより上へは登らなかった。社というほどの物は無く、石祠が半ば埋もれていたという。
万延元年八月(1860)「嵐山紀行」著者、横田莠によると、佐開から山頂までの三分の一くらい登ったところに一反歩(1000平方メートル)ほどの平地があって、周囲十五メートル、樹幹七株に分かれた古杉が直列し、杉の前に小祠があって頭だけの木像が安置されていたという。『山々のルーツ』 - 荒島大権現現在所の宮は、この山の半腹にして、登り口の村は佐開村という。『越前若狭地誌叢書』『帰雁記』
- 半腹より上に白山三社を祭る。それより上は草木繁茂して登るべからずと。『新訂越前国名蹟考』
- 文明の雪崩によって堂が谷底へ落ち、神像の頭だけ見つけた。そのあと、元の宮より半町ばかり下って社を建て、仏頭と末社の神々を祀ったとされる。『大野市史』
いずれも今の荒島神社ではなく、鬼谷のどこかに神社や祠、寺坊があったとされています。
ただ、前回下山で下ってきた佐開コース(鬼谷)にはもはや何も残っていませんでした。
荒島岳元祖登山口
下山ですが、↑前回その鬼谷を通ってきました。
このルートは記事を見てもらえばわかりますが、ほとんどが林道となっています。
今は宗教施設などは無く、登山道・林道ともに道沿いには祠や社はおろか、地蔵すらもなく、本当にただの道となっています。
平地と呼べそうな場所は確かにいくつかはありました。
大岩が転がったりもしていました。
されども、杉の木はいかにも近年植えられたような植林。祠などは見当たらず。
荒島岳元祖登山口の名残はもはやこの道には残っていません。ここからの登山者は誰一人いず、人とは全く会いませんでした。
唯一佐開集落内の荒島神社だけがその歴史を物語っているように思えます。
鬼谷の事業
そんな鬼谷ですが、結構事業が盛んな場所でもあります。
『大野郡誌』によると、佐開区の鬼谷支奥屋多部という場所に、荒島風穴蚕種貯蔵庫があったといいます。
明治39年9月20日測定で室温41度。隣村蕨生の帰山氏の風穴発見により、この事業が開始されたのだそうです。経営もその人が行っていたといいます。この場所は今どこなのか不明です。
現在この鬼谷には「荒島養魚」という釣り堀経営の建物もあります。
土砂崩れが多い「鬼谷」というイメージでしたが、意外とこういった経営の地でもあるのかもしれません。
伝承伝説
ここからは伝説を見ていきます。
餐霧(残夢)仙人
荒島岳の特に注目すべき伝説がこの「仙人伝説」です。
今まで見てきたとおり、荒島岳は人々から畏れられ、信仰はあれども登山はせず、山を崇める信仰でした。
つまり荒島岳は、古くは人々にとって異界の地のような存在だったのかもしれません。そこから生まれたと思われる仙人伝説。郷土史ごとに見ていきましょう。
荒島嶽にはざんむ(餐霧)という仙人の住居ける山といへり。是は常陸坊(ひたちぼう)か事なりという者あり。
引用:『帰雁記』『新訂越前国名蹟考』
荒しまヶ嶽といへる仙山なり。昔残夢という仙人の住けるかや。是は元暦の古常陸坊といへる者也とぞ申伝る。
引用:『越前若狭地誌叢書』
『帰雁記』を引用したうえで…
影響録はいつ頃の作か知らないが、帰雁記は正徳二年(1712)、松波伝蔵によって、越前国遠近の名所を紹介したものである。荒島嶽には餐霧(さんむ)という仙人がいた山と、里人の畏敬している様子を書いている。「餐霧」の餐は、晩餐と書かれる時の餐で食事をすることをいい「餐霧」は霧や霞を食うということになり、仙人の生活を標榜したものである。これ等のことから察するに、大野郡内の秀峰でありながら、飯降山ほど親しみは持たれず、ただ畏敬されて登られもせず神体山として遥拝されてきたのではあるまいか。
引用:『山々のルーツ』
どうもこれらの仙人伝説は『帰雁記』を元にして語られているようです。帰雁記が初出という事なのでしょうかね。
「餐霧」の「餐」の説明がありましたが、『越前若狭地誌叢書』では「残夢」と表記され、そっちはどうなんだという感じです。
読み方は同じです。残された夢・・・。ある意味霧とか霞みたいのものなのでしょうか。
常陸坊というのも気になりますね。常陸坊海尊とは関係があったりするのでしょうか。
この仙人について、語られている話があります。
残夢は、会津実相寺の第二十二世。天文年中(1532)にここへきて住んだ。同じとき無々という者がいた。残夢は「曽我の夜討ちの翌日別れて以来だ。」というと、無々は頷いた。また「僧一休とは友人で、その禅要を得た」という。
時折人に源平時代のことを語り、義経や弁慶の行動をみずから見ていたように話した。人が怪しんでなじると、「忘れた。」と答えた。その年を問えば「百五六十才だ。」といった。
会津に鏡を磨く者がいた。その名を福仙という。頼めば賃金に関わらず終日磨いた。残夢は福仙を見て、「彼は義経の旗持であった。」といった。福仙は人に、「残夢は義経の家来の常陸坊である。」と語った。
天正四年(1576)二月二十九日に死んだ。文禄年中(1592頃)墓を開けたところ、棺桶の中は空だった。その後ある商人が越後で残夢の姿を見た。また保科靭負は、三穂の松原で残夢に会い、源平の事を尋ねた。残夢が言うに、「今は私の他には源平のことを見た者はおらない。だから私のいう事に証拠がない。たとえば義経は醜い男で、弁慶は美僧であった。しかし今は逆に言っている。こういうことが多いから語らないのだ。」
参考:『越前若狭の伝説』内の『会津風土記』
こういう伝説があるようで、その常陸坊だったみたいです。
ただ、会津地方の文献には、残夢について越前に関する内容が一切ないと言います。
つまり、「荒島岳の餐霧」と「会津常陸坊の残夢」とでは別人の可能性もあるとみていいと思います。
一応他に越前大野の方でも、「荒島岳の仙人」に関する話が民話的に伝わっているものもあります。
木落村の大畠清左衛門が芋掘りに荒島岳へ登った時仙人とあった。すると、唐鎌の金物がさびるまで動けなくなり、金物がさび落ちてやっと村に帰れた。すると誰一人知る者がいなくなっていた。後に光明寺へ移り、四十人余りの嫁を迎えた。
参考:『越前若狭の伝説』
帰ったら何百年も経っていたというパターンですね。
まさか・・・、そんな仙人がいるとはね。
そんなことを思いながら、荒島岳に登ってみるのもいいかもしれませんね。
鳥類禁制の怪異
荒島岳は古く、殺生禁断の制札を掲げて一般の立ち入りを禁じていたといいます。登るのは鬼谷からだけでした。
これに関係して気になる内容が郷土史に書かれています。
『山々のルーツ』によると『影響録』という書に
この山、鳥類制禁の地なるに、大野の人、推して持登りて怪異あり
引用:『山々のルーツ』内の『影響録』
素良按るに、影響録に、此山魚類制禁の地なるに、大野の人推して持登りて怪異ありし事を載たり。
引用:『新訂越前国名蹟考』
という内容が書かれています。
いずれも『影響録』。一体何なのか・・・。
殺生禁制の地という事で、こういった「神の怒り」や「祟り」を「怪異」に結び付いているのだと思いますが、怪異の内容に関しては詳細な起債はありませんでした。
なににしてもこの荒島岳で殺生は厳禁なのですね。
これも先の仙人伝説に結び付いてくるのかもしれません。
今は釣り堀ありますが・・・。
「鬼谷の山崩れ」と「流れた御神体」
荒島権現は首だけの神体とされる。昔(約650年前)起きた山崩れ(又は雪崩)で神像が地獄谷へ落ちて流れた。氏子は探したが見つからず、一年ほど経ったある時、頭だけ埋もれているのが見つかった。周りは古木や仏像が並んでいたという(又は岩間に埋もれていたとも)。なので、荒島の神像は頭だけである。胴の部分は、昔あった山崩れで流されてしまった。真名川を流れ、堂本でとまり祀られたという。故に胴元→堂本となったとも。
参考:『越前若狭の伝説』『山々のルーツ』『越前若狭地誌叢書』『帰雁記』『大野市史』
鬼谷の土砂崩れからつながる話です。
先ほどの[鬼谷と今は亡き佐開の宗教施設]の項目の中の話ですね。
堂本は大野IC近くの集落です。つまり、荒島信仰が大野盆地全域に及んでいたという証拠なのでしょう。
九頭竜黄金流出伝説
むかし荒島岳に九つの頭を持つ竜が住んでいて、通行人を食べたり田畑を荒らしたりした。それで荒島の神様が「一年に三匁の金を山の下の川へ流してやるから、此の山から川を下れ。」と命じた。それで龍が川に住みついた。それからは九頭竜川にいるアユには黄金色の紋模様があるようになった。それは荒島岳から金を流したからであるという。
引用:『越前若狭の伝説』 参考:『福井県の伝説』
何とも民話的な話です。
金流出伝説という事になるのでしょうか。
しかも、九頭竜川の由来の一説がここにあるということでした。
荒島の神とは物部の事かな。その物部の神が九頭竜に対して命じたと。
竜典長者の伝説も物部と龍でしたが、もしかして物部と龍は何か深い関係でもあるのでしょうか。
そばつぼ山
ソバツボを伏せた形に見えることからそう呼ばれるようになったという。大野盆地が干ばつによって人々の食べるものがなくなった時、荒島大権現がソバツボ山をひっくり返して、地下の金を与えて助けたという。
参考:『越前若狭の伝説』
金は与えたとは、まさに先ほどの「黄金流出伝説」につながる話ではないでしょうか。
畏れられる山でも、このような恩恵を与えてくれる言い伝えも存在するという事です。
畏れる信仰
かなり長くなりました。
荒島岳は今でこそ百名山と言われ、勝原・中出コースが整備されて、景色の良い人気の登山道ができ、多くの人が登山を楽しみます。
しかし、むかしは荒島岳自体を畏敬し近寄らず、鬼・蛇・龍・仙人などの話が伝わるような、異界の地だったのでした。
人気になり山へ登る人も多くなった今もなお、神社では物部氏を祀り続けており、山頂にも仏像や石碑などが置いてあり、信仰の山としての役割が続いています。
多くの歴史、伝説に思いを馳せながら登山をしてみるのも良いかもしれません。
協力
『大野市教育委員会事務局 生涯学習・文化財保護課 文化財保護グループ』
参考文献
『山々のルーツ』
『新訂越前国名蹟考』
『越前若狭の伝説』
『福井県の伝説』
『大野市史』
『大野郡誌』
『越前若狭地誌叢書』
『角川日本地名大辞典 18福井県』
『帰雁記』
『福井県史 通史編1』
基本情報(アクセス)
荒島神社の情報です。
最寄り駅 | JR越美北線徒歩1時間 |
自動車 | 大野ICから15分 |
駐車場 | 無し |
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