武周ヶ池の大蛇伝説~神社と磐座のある池・約束を破り悲惨な結末【福井市】

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武州が池

福井県福井市殿下地区に武周ヶ池という大きな池があります。行き方は、自動車で山道をそれなりに登って行き到着できます。今はダムがつくられ、人為的に堰き止められている人工池のような形になっています。

ここには大蛇の伝説があります。蛇は雌であり、元々蛇であるという話から元は人間であったという話があり、総じて池の主となり、対する男の人間が約束を破り悲惨な結末を迎えるというものです。

現地の様子と共に伝説を見ていきます。

武周ヶ池伝説

武周が池
 昔ある人が、福井からの帰り道、漆ヶ淵に通りかかると若い女が立っていた。雨が降っているにもかかわらず紙つきぞうりを履いているので怪しんだ。娘は武周が池への道を教えてくれというので、男は「俺の在所は武周だから連れて行ってやろう」といった。
 この女は大滝周防守の娘で、わきの下に鱗が生えてきたので大蛇になるため漆ヶ淵に来たが、気に入らなかったので武周が池に行くことにしたのだ。武周に着くと娘は「私がここに来たことは誰にも言わないで。そうしたら毎日鯉一匹と銭二十文をかいどの岩の上に置くから。もしいえば七代祟る。」といった。
 それから男は毎日魚と金を得て、裕福になった。皆そのわけを知りたがり、女房がしつこく尋ねた。あまりにしつこいのでつい話してしまった。すると地面が落ちて彼の家の辺りは池になった。今でも武周が池の池の中にその時の岩がある。
 一代目はこうして死に、二代目は亀が流れてきたのを取りに行って逆に取られて死んだ。三代目は流木を拾いに行って死んだ。
 武周が池に発電所が出来たとき、堤防を作る石を舟で運んだ。ある五月十四日、村の人が人足にでた。すると突然大きな雹が降り、船がひっくり返り村の人は水に沈んだ。錨を付けて水底を引っ張ると、着ていたドミノだけが上がった。調べて見ると、その人は先の男の血統だった。
引用:『越前若狭の伝説』より『越前の民話』

 寛文のころ(1668ころ)武周に大石五平という人がいた。福井からの帰り道、漆ヶ淵の辺りでニ十歳前後の美しい女がいた。五平が怪しんでたずねると、「私は今立郡五箇のものですが、わけがあって家出してきました。」という。五平は気の毒に思い家に連れて帰り一晩泊めた。
 翌日武周が池を見たいというので案内すると、身の上を話し始めた。女は、五箇の大滝泉家長女でおせよという。土地の名望家三田村氏に嫁いだが、三年経っても夫婦の交わりをせずに一室に閉じこもり他人を遠ざけた。家の人がわけをt図んてもお暇をいただきたいといい、それを家の人が承知しなかったので、夜書置きをして家でした。
 おせよはこれを語った後五平に言った。「実は私は蛇体の者です。そのため夫に肌を許さなかったのです。今からこの武周が池に入って大蛇に帰ります。この事は誰にも言わないでください。そうすればこの村に旱の災害はかけません。また、あなたには毎朝金五十六もんめと生魚を届けます。明日朝から家の前の大きな石を見てください。」五平が約束すると女は池へ飛び込み、池中の大岩あたりに大蛇の姿で現れて礼をして潜った。
 それから毎朝届くようになったが、三ヶ月したとき、妻のおせきがあまりに尋ねるので、話してしまい、妻は里の母親に話し、世間に知れ渡ってしまった。
 寛文八年(1668)うるう五月大雨が降って、池があふれて洪水になった。村人は皆流木を集めるのに必死で、五平もそれに交じっていた。するとひときわ大きい流木が来て、それに飛び乗った。するとたちまち大蛇に変じ、五平をのせたまま川を遡り五平もろとも池へ沈んだ。五平は五十五歳だった。
 それから三十数年後、子の六太郎は四十九になった。猿が出て作物を荒らすので、越知山を中心とする三十か村が相談し、野猿狩をした。元禄十四年(1701)冬一月、猿を武周が池に追い詰め、厚さ二尺程に張りつめている氷の上で追い回しているうちに、池の真ん中で氷が割れ、六太郎は池へ落ち、死体さえ発見できなかった。
 六太郎には男の子がなかったので、武周村の紙屋の弟で源平という者を婿養子にした。源平は養父の仇を取りたいと、享保七年(1722)六月朝早く武周が池の東方の山で仕事にかかろうとした時、急に空が暗くなり、えぼし岩辺りに大蛇が現れ、源平をひとのみにしようとした。源平は一貫四百匁(五キロ)もある大鎌を振りかざし、大蛇にとびかかり、格闘の末、大蛇の首を切り落とした。しかし源平も大蛇の毒に当てられその夜絶命した。その谷を源平谷という。
 それ以来五平の家は途絶えたが、天保のころ(1840ごろ)一族の者が再興し、石田伊三郎と称したが、これも続かず、娘のおせいを残し、福井に立ち退いた。残ったおせいも発狂して死に、廃家になった。
 大正五年武周電気会社が電気工事を起こし、五月三日石材運搬のため舟を池に浮かべた。するとたちまち荒天になり、舟は覆り、乗っていた三人が池に沈んだ。そのうち一人は五平の縁に繋がる者で死体さえ上がらなかった。その後工事者である武生の木原文右衛門が池のほとりに小社を建て、武周が池神社と名づけて竜神を祀った。
 池の中ほどに大きな岩があり、これを大蛇岩という。武周が池の水は越知山から発し、池の南の帛が滝の所で落ちる。滝の中の岩屋に不動尊がある。泰澄大師が苦行したところで、ここを大蛇のおなんどという。二匹の白蛇を見たという人もいる。
 池に鉄類を投ずれば、たちまち風雨になるといって恐れた。魚を取るために網を入れると災いが来て病気になるといい、昔は誰も魚を取らなかった。干天の時は土地の者が雨乞いに来る。特に五箇庄(おせよの里)から雨乞いに来ると大雨になる。
参考:『越前若狭の伝説』

年代まで書かれている、ここまで詳細にあるのは、その年に実際何かが起きたということなのでしょうか。

武周が池の伝説
 丹生の山中にある蒼然とした武周が池には年を経た大蛇が棲んでいました。
 元禄十四年の一月、近在の大石六太郎は畑を荒らす猿を退治しようとして猿の群れを武周が池へ追い詰めていきました。ところがそのとき、うっかり足を滑らせして六太郎は池へ落ちて死んでしまいました。
 六太郎の息子源平は、さてはこの災難も池の大蛇に引きずられたものと思い、今度は大蛇退治に出かけました。源平は大きな鎌を振りかざして池のはたへ躍りこむと、さあ大変!!今まで上天気だった大空が俄かに曇って大嵐となり、荒波さかまく池の中から大蛇が現れ、赤い眼をむいて源平にとびかかってきました。
 腕自慢の源平は、時こそ今ぞと勇を振るって大蛇と格闘を演じ、とうとう大蛇の首を切り落としてしまいました。
 めでたく目的を果たして意気高らかに家に帰った源平は、さても不思議!!彼が門口に着いたとたん、ばったり倒れて絶命してしまいました。この気味の悪い恐ろしい話が、あとあとまで伝えられ武周が池を怖れるようになりました。

 この伝説は、神秘境武周が池に蛇婿婚姻譚を結び付けたものだが、この話のスケールは越美国境の夜叉が池の伝説にも通ずる構想を持つ。
 この大蛇の正体は、ある城主の娘おとよであるといい、一度は嫁いだが蛇体を恥じ、ひそかに逃れて武周が池にたどりつき、身を投じて池の主となった。その仔細を武周が池への道連れにおとよから聞かされていた大石五平(六太郎の父)は、彼女との密約をやむなく妻に明かしてしまったという。おとよの執念は恐い。これが大石家への祟りとなった所以である。
引用:『福井県の伝説 第2集』

この伝説の、蛇体の女の人は何だか哀れにも思います。最後には討ち取られてしまいましたし。しかし普通に人間なのですかね。女の人が蛇になるという伝説の一種なのか、それとも蛇の血が流れていたのか。色々と謎が多いです。名前も若干違いますし。

『福井県の伝説 第2集』には、蛇婿婚姻譚と結び付けているのですが、何だかいろいろなタイプの伝説が混ざっている感じもします。

主にこの伝説は、武周の伝説として、五平の家を中心に書かれていることが多いですが、この蛇の女の人を中心に書かれている話もあります。

昔、今立郡五箇の庄に三田村という家があった。ある時山中温泉に行った折、摂津のある城主と同じ宿になり、親しくなり、城主から娘を嫁にもらってくれと言われ承知した。やがて嫁に来た娘は部屋に閉じこもり人を退けた。そのうち頭に角が生え、わきの下にうろこができたので、隠しきれなくなり家を出て、上池田の志津原へ行き、おむろが池にはいった。そのときおじいさんに道を教えてもらったので、お礼に着物の片袖を与え「これを振ると米と金を得られる。しかし誰にも言うな」といった。おじいさんはこれを隠していたが、おばあさんに見つかりつめられて話してしまった。なので女は人に知られてしまい、夜叉が池へ行くことにした。途中の茶店で道を聞くと、「夜叉が池にはおんじゃとめんじゃがいるからお前が行くと仲が悪くなる。武周が池へ行きなさい。」と教えられ、漆ヶ淵まで来て道がわからずしょんぼりしていた。そこへ大石五平が来て
引用:『越前若狭の伝説』より『福井県の伝説』
(以下ほぼ同文なので略)

元々は摂津の殿様の娘であるということです。ということは人間の子供であるということは間違いないのでしょうか。それとも、越前の堀江の伝説のように、人間と蛇の子孫であるということでもあるのでしょうか。

蛇が人間に化けているという感じではなさそうですが。どうなのか、いまいちわかりません。

そんな少し可哀想な蛇の伝説とでも言いましょうか、その聖地を見に行きます。

池の様子

武州が池

池と言うよりダムです。昔は天然の池だったのでしょう。

鯉・鮒がおり釣を楽しむ者が絶えない。
引用:『福井県丹生郡誌』

という風に書かれていることから、いつしか池を怖れる伝説も廃れてきたようです。もしかしたら釣りに来るのは集落外の人だけで、集落の人はこの池にはめったに来ないのかもしれません。

そしてここは紅葉の名所でもあります。名所としての一面も持ち合わせています。

福井県の紅葉名所 有名処から隠れた穴場スポットまで
福井県内紅葉名所一覧を2023年も更新。刈込池や九頭竜湖などの紅葉の名所が多くあるが、有名所以外にも隠れた名所、細かな穴場スポットまで紹介。訪問した時期も記すが、見頃や色付き始めが年によって違う。もみじや銀杏(イチョウ)など紅葉の種類が違いも、隔てなく掲載。
               

武周ヶ池神社

武州が池

車を駐車場に置いて、熊に怯えながらしばらく奥へ進むと、神社が現れます。

神社の説明板にも由緒が書かれており、この地の伝説や歴史を偲ばせます。

それにしても発電所が建設される時まで伝わっているというので、なかなか根深い伝説なのだなということがわかります。

武州が池
武州が池

神社内は荘厳な雰囲気です。神社としては比較的新しい時代の物でしょうけど、もはや自然に溶け込み、神秘的な雰囲気を醸し出しています。

武州が池

池に沈んだ村

 昔、奥武周に戸数三十四戸、寺一か寺があった。天正十八年(1590)十二月十四日、山崩れが起き、村の大部分が潰され、その時に武周が池が出来た。その数日前から水が枯れて、山が鳴動していたので、村人は恐れて今の武周へ避難していた。
参考:『越前若狭の伝説』より『越前国名蹟考』

武周池
 越知山の北麓に一大明鑑輝き四峯の翠色影を蘸して相映する処魚鱗隊を成し水禽波に洛して恰も水彩画を睹るか如き光景あり是れ即ち武周ノ池なり此邑元と二ツ屋武周と称す故に此の池名を得たり東西一町、南北十四町、周廻二十四町
 往年遊観せし時村民の高年なる者に伝聞の趣を尋しに答て云いけるは太閤検地の三年以前十二月四日一説には十二日、川下の村々より川に水なき由を次第に告上るにより村々にて試る所奥武周村の地下水湛へたるに付居民残らず武周村へ引移るの所程なく地抜陥て池と成り翌年五月雨の比より水口開流れて川となれりとなん今考ふるに三河記に慶長二年越前国縄入とあれは其三年以前は文禄三年甲午なり(越前国名蹟考)
 此の山嶽崩落して奥武周全部を一夜の中に埋没したる時の家什器具等は今尚池底より流出することありと伝ふ
引用:『丹生郡誌 (福井県郷土誌叢刊)』

といったような歴史があります。

武周が池大蛇伝説の前の話です。この池ができた時のお話。

これに関しては私が訪れた当時、現地にも説明の看板が立てられており、地蔵も置かれていました。

武州が池

ただし現地説明版には、「村の被害状況は全く不明である。生存者も何人かいたが」と書かれているので、あらかじめ避難していたという説は諸説あるというもののようです。

武州が池

山の斜面にある石垣。

大蛇伝説に破約伝説

武州が池

少し可哀想な大蛇の娘の伝説という印象のこの伝説。
現地にはその娘を祀ったともいえるであろう神社もあり、この伝説を偲ばせています。
元も蛇なのか、それとも人間として生まれ生きてきたのに蛇体になってしまったという設定なのか。わかりませんが、あまり幸せともいえない人生を歩み、しまいには約束を破られ、それを祟ればその子孫に討ち取られ。
そんな大蛇の娘を思いながら、この地を訪れたいものです。

参考文献
『越前若狭の伝説』著者杉原丈夫 出版1970
『福井県の伝説 第2集』著者橋川禿 出版1972
『福井県丹生郡誌』著者丹生郡誌編集委員会 出版1979.11
『丹生郡誌 (福井県郷土誌叢刊)』著者丹生郡教育会 出版1986.1
現地説明版

基本情報(アクセス)

自動車福井ICから53分
駐車場あり

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福井市
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