墓制と県内の火葬土葬方法とその違い【福井県の葬送Ⅲ】

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墓制と各地サンマイ(火葬場・土葬地)【福井県の葬送Ⅲ】

福井県は様々な葬送文化があります。特に越前と若狭では葬送文化の違いが著しい。

さらに「墓制」という「墓の形態」も異なり、福井県には単墓制・両墓制の2種類の墓制がある
火葬方法土葬方法の違いなどを見ていく。

福井県(嶺南嶺北越前若狭)の葬送文化を調べた物を記録します。

4回に分けて記録します。

一回目
葬礼(儀式や道具)・墓制・火葬土葬用語集【福井県の葬送Ⅰ】
https://kofukuroman.com/sousou1-yougo/

二回目
越前若狭の葬礼儀式(伝承~野辺送りなど)【福井県の葬送Ⅱ】
https://kofukuroman.com/sousou2-sourei/

今回は3回目です。

福井県の葬送と宗教について

火葬について

現在、福井県は火葬が主流。中には条例で火葬に決められている地域もある。

福井県の火葬は、越前の特に嶺北地域ではかなり早い段階から火葬で葬っていた。というのも、承元年間に親鸞聖人が越後流罪となった際に越前を経由。その際にまだ真宗未開の地だったこの越前に浄土真宗を広めていった。

神道は土葬、仏教は基本火葬(ただし日本の仏教では土葬が主流)。そして浄土真宗では特に火葬の文化が強いです。理由としては宗教の話になるが、死後は肉体を必要としないからだろう。極楽往生は生前の肉体から魂を切り離すことが重要。でないと極楽へ行けない。なので肉体を焼く。という考えとされる。真宗は特に「念仏唱えれば誰でも極楽往生できる」という教えであるため、火葬は特に重要な儀式とされる。

ちなみに「荼毘に付す」という言葉を聞くが、これが仏教における火葬。つまり仏教以外の火葬には「荼毘に付す」は使わない。

福井県にさらに火葬を広めた、つまりは真宗を広めた人がもう一人、蓮如上人。特に福井県に真宗を広めた人物。1400年代の人物で福井県あわら市吉崎に滞在していた。後小浜へ。真宗の基盤は親鸞が作っていたため、更なる拡大がなされた。県内では様々な宗派から真宗に改宗した寺院が多くある。これは越前に限らず若狭でも多く、そのほとんどが蓮如の時代に改宗。

日本で火葬庶民に広まるのは1600年代、火葬が主流になるのは火葬場の整備がすすめられた大正時代です。今では99%以上が火葬。そうみると福井県嶺北はかなり前から火葬していた。といってもつい最近までは嶺北全土が火葬だったというわけではないのが実情。そのあたりはまた見ていく。

福井県の昔からの火葬分布は、嶺北ほぼ全域(今庄・福井殿下除く)、敦賀各所、三方・上中各所、小浜口名田村一部、知三村一部、佐分利村一部、青郷村一部

土葬について

福井県の嶺南地域では近年まで火葬ではなく土葬が主流。

若狭の場合は、真宗よりも曹洞宗がかなり多くを占める。曹洞宗は土葬の場合が多く、そこに影響があるのだろう。ちなみに越前の敦賀も土葬のところが多くあった。ただ全土ではない。敦賀は越前だが嶺南で曹洞宗も多い。敦賀は越前と若狭の文化が入り混じっている。葬送文化においてもいえることなのだろう。

ちなみに土葬は、嶺北にも近年まで土葬だった地域がある。今庄・大野の一部・今立の一部・福井市殿下地区。つまり福井平野とその近郊以外は土葬だったのかもしれない。

ちなみに曹洞宗だからと言ってすべてが土葬というわけでもない。曹洞宗の高僧の中には荼毘に付された僧もいる。

福井県の古くからの土葬の分布若狭ほぼ全域、敦賀各所、今庄、大野一部、今立一部、福井殿下

一部では火葬を忌み嫌う感情もあり、土葬地帯の人たちに火葬の話をするだけで顔をしかめる事さえある。嶺北一帯はほぼ火葬だが、敦賀もほとんど火葬で美浜も昭和40年に町営火葬場ができたことで、これまでの集落単位での火葬土葬から、宮代を除いて火葬に移行した。三方町も小浜市と契約を結び、昭和53年から一気に火葬に移行。しかし遺言により土葬にしたケースもある。

白山付近では蚕養の時期にのみ土葬を行った。

火葬と土葬

火葬と土葬の違いについて、よく言われるのが労力や場所、材料を調達できるか。

もちろん宗教的な意味合いもあるだろうが、現実問題はここにあると思われる。

土地の問題

平野の場合、多くの土地が田園に開発され、その中に集落がある。そうすると葬る場所、つまり「サンマイ」の土地が限られてしまう。なので埋葬の範囲を広く取る土葬ではすぐに定員オーバーになってしまう。逆に山間部では山に葬れば大体のサンマイの土地は確保できる。なので、土葬でもやっていける(と言っても実際は同じところに埋めていたとも言う)。

人口の問題

さらに人口の問題では、人口が多ければ多いほど土葬地の場所の確保が難しくなる。火葬であれば燃やして骨にし、小さな範囲で埋葬すればいいから。土葬では範囲が広くなり、ただでさえ人口が密集している中で、多くの人を葬るので場所が無い。なので街中では火葬が主流。

材料調達の問題

火葬はサンマイの範囲を小さくできるメリットはあるが、デメリットもある。それは燃やすための材料が必要だということ。それを調達できるかが問題。小さな村ではそれが難しい。なので土葬でなければやっていけない場合がある。平安時代に位の高いものは火葬、庶民は土葬というのと同じことなのだろう。

労力と時間問題

今では火葬はビジネスとなり、さらに火葬の設備が整い2,3時間で火葬できてしまうが、昔は夜通し火葬して翌日に骨を拾いに来たという。つまり労力と時間がかなりかかる。
もちろん土葬の労力も半端ではない。土葬はそんな浅く掘ってはヨモノに荒らされる。なので2,3メートルくらい掘ると言う。かなりの労力だ。

これについてはどちらがいいというのは私には判断できないが、村ごとにそれぞれのデメリットの小さいと思う方を選んで行なっていたのだろう。

 

 

以上が現実的に見た火葬か土葬かの違いと思われる。
なので、一部民俗学の本を読んでいると、「古くからの伝統的土葬が簡単な火葬に置き換わっている」と嘆く学者の方もいるが、「手間がかからない」というような、そんな単純な問題ではないということだ。どちらにもデメリットとメリットがあり、様々な条件をみてデメリットの少ない方を取るというのは非常に合理的なもの。古くからの伝統はあるだろうが、火葬土葬のどちらが良い悪いというのを民俗学者が決め付けるのは浅はかすぎないだろうか。

火葬と土葬の死生観のとらえ方

先ほども言ったが、郷土史なんかにはよく「火葬は簡易的に葬儀を終わらせてしまう」ということが書かれている場合がよくある。それでいて「死生観を重んじる土葬文化」が無くなっているのを嘆く記載もある。

ただこれは現代の火葬に当てはまるというだけで、古くからの火葬には当てはまらない。

火葬であろうと土葬であろうと葬礼の重要性はさほど変わらない。火葬だからと言って死や葬儀を軽んじているわけではないし、土葬だからと言って死んだ人に執着しているわけでもない。形式が違うだけで元はかける時間も思いもさほど変わらないだろう。

かつての土葬方法

かつては土葬でも穴は浅く風葬に近かったという。知三村付近では浅穴の土葬のために寝棺を使っていたとも考えられる。

現在の土葬穴はきわめて深く、3m掘るところもある。さらに3m掘った後に横穴を掘って棺を納めるところもあったという。ヨモノが掘り起こすのを防ぐためだったと。埋葬する場所はサンマイというが、地域によってその呼び名は異なる。

阿久和の土葬
『福井県史15 民俗』参考

三方では、穴の深さは大人が立って片手をあげて、その先端が地面につくくらいの深さだった。掘り終わると穴の上に刃物を置いて魔除けとし、火を焚いて棺を迎える。穴埋めは喪主が一くわ埋め初めをし、次いで近親者、最後に穴掘りの人が埋める。土を盛り上げ、上に石を置き位牌を安置。周辺に旗ざおを立て、供物を飾って埋め、墓をつくる。墓は西向き。

若狭ではヤマド、ジホリ、ジトリ、オンボという近親者や地域で当番を決める無常講という組の人たちが穴を掘る。単墓制では自分の穴を掘る。両墓制では共有地が多く、以前埋葬したところでなるべく年数が経っている場所を掘る。

敦賀沓見では土葬の上に菊の花などを供えた。においがきついので虫よけとされていたという。消臭の効果もあったのだろうか。

美浜では、
坂尻は僧が経をあげる中で埋葬した。笠を棺にかぶせ、幡も一緒に埋めた。親族は少しずつ手で土をかける。杖とオオダイマツの頭が土に出る様にホリカタが土を入れた。オオダイマツの前に膳や蝋燭、花などを置いた。芝や石は置かず、幡の竿の竹を二尺五寸くらいに切った物を周囲にさし、縄をかけて魔除けとした。それらは2,3年残り、それがなくなると石を置いた。月日が経ち地面がへこむと砂を入れてならす。
松原は埋め終わると四隅に杭を打ち、割竹を回し、ユミを周囲にさして垣をつくる。囲いの中に芝を貼り付け石は置かない。塔婆を立て、ユミの前に膳、位牌、鍬の模型など置く。垣を崩した後に石を置くことがある。ハカナオシは3年目にやる。埋葬した場所や少し離れた場所に石塔を立てる。
日向は故人の子供が棺を穴に下ろす。血の濃いものから後ろ向きに土をかける。埋め終わると人足の女が塚を覆うように石を敷き詰め、中心に石を立てる。隙間に砂を入れ、鎌を吊った。花籠の竹をX形に組んで周囲に垣根のように挿す。
宮代は施主が少し土を入れ、後は手伝いが土をかける。穴掘りの時に出た骨や幡なども一緒に埋めた。その上に大きな石を3つ置く。一個は平らな石を供物台にする。周囲に幡などの竹を挿して上に括りオドシをつくった。鎌を吊るす人もいた。
宮代・安江は町内で最も遅くまで土葬をしていた。家ごとの埋葬地は決まっておらず、手伝いの人がマクラトウバの無くなった古い所に穴を掘った。故人が生前に決めて置く場合もある。その時は予定地に棒を立てておく。穴を掘ると既に埋葬された古い遺体が出ることもあるが、掘る人も何とも思わなかったという。午前中の葬儀であれば前日に穴を掘り、埋葬までは穴に魔物が入らないようにと鎌を吊るした。

普通、地区のはずれから2,300m離れた山麓や畑の中にある。小浜竜前では2㎞離れた場所にある。例外として三方町伊良積・成出では個人の所有地で、大抵参り墓の後ろに埋葬する。

穴掘りは近隣家の者が3,4人で掘る。喪家が掘る場所を示してそこを掘る。道具は地区の備え付け。これをヤマノヒトという。ヤマノヒトは昼食でも家には帰れず、食事の用具にも触れられないので他の者に食べさせてもらう。

葬儀が終わると、コシかき・天蓋持ちが少し土を入れ、棺が穴に納まると、血の濃い者から順に土を入れていく。後はヤマノヒトが土を盛り上げる。

高浜日引や三方黒田では必ず西向きに埋葬する。三方神子では浜から拾ってきた一抱えある石を上にかぶせる。名田庄井上では枕石を三つ、小浜近郊では自然石1~3つ、三方小川では石を無数に積み上げる。小浜平野から大飯本郷まではタマヤなどという家型を石の上に置き、幡の竹などで円錐状に取り囲む。家型がないところでは、竹で弓状に交差したり、篭状のものをかぶせたり、四隅に杭を打ち、18本の竹を立て垣を結いカマを吊るす。これをオニガキなどという。いずれもヨモノを防ぐため。美浜宮代ではヨモノに荒らされると、生前よほど罪深いことをしたのだと言われた。上中鳥羽谷では竹で策を作り、穴掘りで使ったモッコをかぶせることもある。小浜市街地近くの和久里・木崎ではシネギを使い、ヨモノ防止並びに次の埋葬にあたってシネギを動かし、古いか新しいかを見分けたという。埋葬一週間後は夕方に火を焚いて魔除けをした。

小浜の土葬
『福井県史15 民俗』参考

越前ではほとんど土葬は無いが、旧殿下村は完全な単墓制。南条牧谷・越前町梅浦でも土葬があった。大野でも土葬が少しあり、埋めた印に大石を置き、それを囲むように青ダケ三本を組み合わせてたて、中央に小石を吊るした。場所は不明だが、飯降によく似た事例がある。同じく上中杉山や大飯大島でも竹で小石を吊るすところがあった。

1471年蓮如が福井に真宗を布教してから、越前が土葬から一気に火葬に変わり始めた。美浜の某家(天台宗)や永平寺の志比(曹洞宗)では近年まで土葬だったとも。志比では昭和27年まで土葬。朝日大谷でも昭和40年代まで天台宗徒は土葬。武生でも同じ。大野飯降は大正期まで土葬。大野打波は養蚕期だけ土葬。剣岳村・鯖江上戸ノ口・福井上一光・武生周辺から海岸まではすべて子供は土葬。勝山小原ではかつてのライ病の死者には頭にナベをかぶせて埋葬した。

小浜の共同墓地では一度埋葬したところを掘るので、遺骨が出てくることがあると、「この世に一度出たかったのであろう」と丁寧に別の場所へ埋め直した。上中上野木や小浜加茂ではサンマイが段になっており、一番上は禰宜を務めた者しか埋葬できない決まりがあった。

はいていたワラジはサンマイに脱ぎ捨てる。火葬も同じ。

おおい町以西では「ミハカ」と呼び、霊屋という小さな屋根付きが建てられた。そこには「身は茲に 心は信濃の善光寺 みちびき給へ 弥陀の浄土に」と書かれていた。「身は茲にあり魂は浄土へ行く」という土葬文化の極みであったのだろう。

かつての火葬方法

山村では、タモ(タブ)の木などの火回りの良い生木を適当に割り、それを7~10段くらいに算木積みにして、よく乾いたソダ(切り取った木の枝)を置き、木炭を敷き詰めて棺を乗せ火をつける。その囲りでオンボが番をし、マタブリというふたまたの棒で遺体をつついて焼く。まことに原始的な方法だったが、やがて石積みのカマドになり、さらにその上に土蔵状の建物が建てられるようになった。

美浜ではソウレン後に男が残り、供物などを整理し、火葬する場所へ運ぶ。佐田では火葬場が離れており、棺は嫁婿が背負っていく。菅浜では途中で休んだり交代すると死者の霊がそこにとどまってしまうという。
棺は前の板を割って、頭を北、うつ伏せにして薪の上へ置かれ、その上にシバや木炭が置かれ、藁で蒸し焼きにしたところでは水で濡らした藁をかぶせる。新庄では葬家のいろりの線香の火を藁で家宅米で運んできたものを火種に。久々子では藁の口を開けておき親族の男が火を付けた。オンボウ役は地域によって違う。喪家の人や班の人、親戚や親しい中の人、専属の人など。
動いた遺体を日の中に戻したり崩れた燃料を治す作業が必要で、手伝いの若い人が逃げ出すこともあったり、近親者は見るに堪えないこともあったりした。ノミマイをし、火葬後に風呂に入ってもらうこともあったという。

美浜の火葬
『福井県史15 民俗』参考

農村では、ワラ焼きにするところが多く、地表に通風のための十字の溝を掘り、そこへ乾いた稲ワラ三十把あまりを五か所くらい固く縛り、それを2つ並べてその上に木炭一俵を乗せ、その上に遺体がうつ伏せになるように棺を置く。さらに水を含ませたワラ束を一把ずつ丁寧に棺にもたせかけ、素早く棺を覆う。稲ワラは計180把使う。火をつけてから9時間余りで完全に燃えた。

美浜の佐田・新庄では火葬後の灰や骨の処分はすぐそばの穴に納めた。丹生では澄と一緒に放っておく。興道寺ではオンボウの人にシイの木の根元に埋めてもらった。昭和初期は近くの草の生えている所に埋めた。

丸岡舟寄ではオンボはいないが、木炭一俵と稲ワラで火葬し、ノドボトケが綺麗に取れると言い、出入りの者が一人番をし、翌日骨拾いをする。武生周辺では、火葬場が山にある時、オンボをすることを「山をする」、畑や田にある場合は「野をする」という。火葬の番をするのは、それを職業とするオンボウや同行仲間や村の回りを番で務める事も行われたが、オンボウは葬儀の帳場に次ぐ大役として年忌などには招待された。木炭一俵を他の燃料と抱き合わせることから、人の死んだことを「六貫俵をかずく」といった。福井市近郊ではハンの木が多く植えられており、かそうするときにはこれをつかう。

宮崎村では、葬儀の後身近の男が火葬の穴の中に薪や木炭と共に棺を入れ火を付ける。あとはノウニンに任せる。

若狭上中上吉田では、サンマイ火葬の頃はハンの木を使ったという。生木である方が良く燃えたという。

坂井高椋の場合は、炭一俵で焼くが、中には喉仏がきれいに取れるからと藁焼きにする人もいたという。オンボウはいない。晩までに焼き、翌日骨拾いに来た。

現坂井市内の木部村では火葬。オンボが火葬をする。点火は最近親者がする。

現あわら市内剣岳村では、二、三才児も火葬。昔は乳児は土葬だったか。火葬は藁焼きで、近代に入ってからは野焼き人もなくなった。収骨は翌朝早朝に遺族が火葬場に行き行う。昔は一人一人に墓石を設けた。

現福井市の越廼村では、石枠の底に生木や炭・茅等を敷き棺を乗せ隠亡が焼いた。火葬の途中に酒肴を持って行き労をねぎらった。(ヤミマイ)

鯖江では式が終わり火葬場へ送り土葬や火葬にした。火葬の場合は火葬の中間で火屋見舞に赴き、翌朝お骨拾いを行う。

現坂井市の竹田では火葬する。どの区にも火葬場は二つある。いつもは冬三昧を使う。養蚕期に夏三昧という民家から離れた山の中の火葬場を使う。臭気が蚕には毒だからという理由だという。

竹田では棺桶に火を入れ、後は野人に任せた。翌朝早くに遺族近親者で骨上げをする。

今立では、土葬と火葬が行われた。火葬の際には三回最近親者が火屋見舞いに行き、翌日骨拾いを行って寺参りをする。

大野では夜6時に火をかける。オンボウと身内の人が残って世話をする。焼けると身内の者は帰る。翌日拾いに来る。大抵ハツコツ(歯)とシャリボトケ(喉骨)と外の骨を少しだけ持って帰るのみ。

大野穴馬では、葬式の日には部落中が休みになり、親類は葬式をし、それ以外の人総出で火葬に当たる。火葬場に酒一升を持って行く。茶碗を用いないで、オカサで飲む。普通は火葬だが、伝染病で亡くなると埋葬もした。埋葬場所は墓地ではなく、自分の土地の場所で石などを墓標としたが、後に参ることはしなかった。火葬場に建物は無く、露店でレンガ積に鉄板があるだけである。準備や後始末は親類がする。火葬場の管理は区長がする。火葬には木炭一俵ないし一俵半くらいを要する。火は一番血の近い者がつける。骨拾いは翌朝。
木地屋から火葬を依頼されると人夫を出さねばならないが、火葬は二、三人で夜露天で死体をつつかねばならないので嫌がられた。木地屋は自分では火葬をしなかった。

勝山小原では火葬は川の縁で行い、灰は川へ捨てた。三日目に骨を拾い、自分の山か畑の肥料にかからないところに埋め、墓印の石を置いた。墓印の石はいつか自然に帰った。冬は林か畑で火葬したという。勝山小原は豪雪地帯であるため。昭和20年代まで行った。ノドボトケ以外はサンマイの裏へ捨てた。他の骨は持ち帰らないのが作法だったという。

鯖江では、石積のカマドに生まのクヌギの割木を×状に組み合わせて詰め、その上によく燃えるソダをのせ、さらに木炭一俵を敷き詰め棺を置き、棺を覆うように古いムシロなどに十分水を含ませてかぶせ、ソダに点火して焼却する。

鯖江の火葬
『福井県史15 民俗』『鯖江市史 民俗』参考

マキによる火葬は最初から最後まで人手がいる。美浜町新庄では棺のコシかきの介添などもふくめて十人の人手がいり、昔から決まっているオンボウ組が全員出役する。そのため喪家ではダビに付してしばらくすると酒食をもって火葬場へ出向き労をねぎらった。これを「野見舞い」、越前では「火屋見舞い」「サントミマイ」といった。今立では三回にわたって出向く。旧大野町では跡継ぎの息子は火葬場に残るので、オンボウとその人に「火屋見舞い」を行なった。

火葬後の骨拾いでは、血の濃い者が灰の中から竹と木一本ずつの箸で遺骨を拾い上げると、別の一人が同じく箸でそれを受け取り半紙に包む。これを「ハサミバシ」という。それを持ち帰り、位牌と共において忌明きの時に墓へ埋める。日常での竹と木一本ずつの箸や「ハサミバシ」は禁止されている。

人によっては近年まで骨がみを行っていたものもいるという。

土葬と同じく、はいていたワラジはサンマイに脱ぎ捨てる。

墓制

単墓制

埋葬において、遺体を埋めたその場所に墓標を立てて、そこを墓として祀る墓制。お参りもそこに行く。

呼び名 サンマイ・ハカ・ハカショ・ハカバ。

福井市殿下国山ではハカンドといい、各家の持ち分が決まり、五輪塔が建てられる。

大野では埋めた上に大石を置き、それを囲うように青竹を三本組み合わせ、中央に小さな石をぶら下げる。塔婆はまわりに立てる。

単墓制の場合、埋葬したところに直接墓標(墓石)などを立てる為、2,3年で傾くことがある。これを「成仏なされた」といって安心したというところもある。逆にそれを想定して傾くことのないように7,10年後に墓石を立てるところもある。ちなみに火葬においては遺骨を埋葬して石塔を建てても単墓制とはいわない。

両墓制

遺体を埋葬する一次墓地と、祀り(参り)を行なう二次墓地の2つがあるのを両墓制・複墓制という。埋める場所と参る場所が全く別である。大飯大島では埋葬した翌日に参った後は一切寄り付かない。他でも一週間はお参りするがその後は参らないところが多い。中にはどこに埋めたかわからないような場所にお参りする敦賀常宮や美浜宮代などの例もある。ただ、共有地なのでいずれ同じところに他の遺体を埋葬することになる。その後二次墓地(ヒキバカ・ラントウバ)に石塔を建てそこにお参りする。

一次墓地は自然に任せて荒れ放題になっている場合が多い。盛土をしたり、石を置いたりするだけ。サンマイが森になっている所が多いのは、その昔枝などを置いた場所だからともいわれている。(マクラトウバやミドリトウバ)

自然石や樹木に神霊が宿るされていた日本古来の信仰の形が影響しているという。

両墓制の一部では死者の髪や爪、埋葬地の土や石などを二次墓地に持って行き埋めるところもある。

嶺北地域では両墓制はないと言われてきたが、近年の調査により、南条町阿久和・東谷・上別所・奥野々・今庄町帰(現南今庄)・橋立が両墓制であることがわかったという。
阿久和のサンマイは3カ所ある。そのうちの一つ中村のサンマイは杣山神社の後ろあたりにあった。区画が決まっており、そこに埋葬したが、天台宗・日蓮宗は村に寺があり、そこに二次墓地を設けた。しかし真宗の信徒の寺は武生や鯖江にあり、村に無いために直接墓石を立てた。つまり両墓制単墓制が合わさったサンマイとなっている。今も「先祖埋葬地」と彫った石柱が建てられている。今庄町橋立では、明治末期に火葬になった。村の入り口付近にあった火葬場を使用していたという。しかし日蓮宗の寺の後ろの山の斜面に埋葬地を残し、寺の後ろに石塔墓があることから両墓制を伝える。帰のサンマイは集落北外れにあり、約20年前まで土葬をした。(1984年出版なのでその20年前)。その他今立大滝も昔土葬で、埋葬地を大滝サンマイといい、参り墓は集落南の山すそにあった。武生上文宝や池田水海も同様。

小浜の埋葬地は集落からかなり離れ、上中中野木では村中央の一言主神社の前を葬列が通れないため東西二カ所サンマイを設けてある。大飯鹿野の埋葬地では盆の13日午後には丁寧な掃除と盆花を飾り果物、生のサンショウの実を供える。ここは石塔や板塔婆が立っており、一見参り墓にも見えるが、本当の参り墓は境内や集落外れにある。敦賀池河内・三方伊良積・成出・相田は参り墓が埋葬地のすぐ後ろか前にある。

大飯町以西の二次墓地には土葬した場所に霊屋が置かれていた。その板には
「身は茲に心は信濃の善光寺みちびき給へ弥陀の浄土に」
という文字が書かれていた。

両墓制の参り墓には、埋め墓から物的な遺物などを引いてくる場合がある。例えば、埋葬地の土、埋葬地の石、爪、髪、持ち物など。何も引いてこない場合もある。

墓標

庶民の墓石に文字を刻み始めたのは16世紀後半からとされる。それ以前は海辺や川から拾ってきた自然石を埋葬地の土盛の上に置いた(枕石)。

火葬地帯では境内や火葬場敷地内、家のそばの畠、屋敷内に墓を作る。墓の法名には「釈」の文字が初めに着く切り石の夫婦墓が多かったが、最近は「先祖代々之墓」という石塔が増えた。福井市では空襲と地震後の都市開発の為、各寺院の墓を一カ所に集め、足羽山に西墓地公園をつくり、その後空きがなくなり東山墓地公園ができた。若狭では戦前まで居土・大姉・信士・信女の夫婦墓が多かったが、こちらも「先祖代々之墓」が増えている。また株墓という同族団、株、イッケという同姓の一団が本家を中心にしてそれぞれの家の墓が山すそなどに並んでいる。若狭の西部地域には石のカラト(唐戸=家形)の中に、五輪塔を祀った墓が各所に見られる。かつての天台宗の墓と思われるが、沖縄の「ジーシガーミ(厨子ガメ)」に酷似する。高浜町日引・宮尾・上瀬が顕著である。

若狭や越前平野部と違い、大野盆地は忠魂碑と見間違うほど大きな墓石で祀られている。九頭竜川・真名川産と思われる高さ2m幅1m厚みも同じくらいの自然石に「先祖代々之墓」を刻み、玉石の台の上に立てられている。反対に勝山の小原は墓のある家は2,3件ほどしかなく、美山町では墓のない家がほとんどである。三方町佐古・田名も墓を持たない家がある。美浜興道寺の真宗は墓は持っているが盆の13日以外は墓参りはしない。毎日の仏壇礼拝で足りるという。戦争で没した人の墓はどこででも見かける。

古い墓石には五輪塔であったり石仏が彫ってあったりする。現代は大方頭部をとがらした石柱で、古いほど頭部が鋭角で薄く、時代がさがるほど鈍角や丸くなり、平たくなってくる。越前では角柱の上に笠石をのせたものもある。墓石の材料はコゴメ石という花崗岩で作ることが多いが、特産の石を用いることもある。大野の自然石や福井の笏谷石、美山の小和清水石、高浜の日引石が使われた。最近ではブラジル産の御影石も多くなった。

白山麓付近では蚕養の時期には土葬にしたが、参り墓などはなく、埋葬地に川や山の石を印代わりに置くだけだった。

勝山の北谷では、小原は墓がなかった。拝む時は仏壇の位牌を拝んだ。しかし、本当に墓がない場合もあれば、墓はあるが石塔を建てない場合もある。集落のはずれに川石を並べただけの墓や平たい石を三つぐらい積み、前に供物用の平たい石を置いた墓もあったという。
勝山谷には谷教会前に惣墓があり、共同納骨所となっている。
近年は○○家之墓が多くなってきている。

時代の流れ

平成25年以降は福井県内では土葬は報告されていない。

『ノヤキの伝承と変遷』によると大正2年の統計は火葬が10,969人、土葬が4,882人で火葬は69.2%。大正13年は75.1%。昭和10年は81%。昭和34年は90.8%。
大正2年時点での火葬場数は1604ヶ所だったという。

若狭大島では大幅改修が行われた。多くの地区で墓の移転改修が行われる。
宮留地区においては、現在の袖ヶ浜海水浴場は元土葬地で、1992年ごろに浜の開設工事と共にサンマイが掘り起こされ火葬し、遺骨を納骨堂に納めた。もちろん土葬を掘り起こすということで当時は反対意見が多かったという。火葬の際は一体ずつべき矢板の木箱に納めて火葬し、海岸寺の納骨堂に納めた。三昧はある程度家ごとに場所が決まっていたためどの家の者かは大方判断できたというが、サンマイを掘り起こす際の立ち合いを依頼してもほとんどの人は来なかったという。中には棺だけの物や、野犬が掘り起こした者もでてきたという。砂地で腐らずに残っている遺体もあったという。掘り起こした後は石灰を撒いて消毒した。
他地区でも改宗される所はおおいが残っている所もある。しかし、改葬された後もサンマイを利用することがあるという。火葬後の遺骨を埋める場所や葬具・茶碗を遺棄する場所、葬礼を行う場所として使用されることがある。現在は小浜の若狭霊場を使用。

旧三方町では、元々原始的な集落火葬場が9ヶ所、埋葬地が27ヶ所あった。後に敦賀火葬場へ依頼、その後昭和50年に敦賀市から使用打ち切り通知の為小浜市の火葬場を使用。後に昭和53年、三方町独自の火葬場を開設。

おおい町などの火葬場が集落にある場合でも、そこは使わず以後公営火葬場を使用する。

鯖江は昭和44年4月30日に葬祭場ができ、鯖江市・今立町・朝日町・宮崎村の組合によってつくられ以降ここを使用。祭壇は4組、1級2級にわかれる。火葬場は無煙無臭で重油バーナー式。約50分で火葬できるという。

若狭上中の上吉田のサンマイは、ふれあい公園となった。葬儀は農協のJA葬祭東部やすらぎホール。無くなると正覚寺へ連絡する。

大野上舌部落でも昔は様々な場所で火葬していたが、明治時代から取り締まりが厳しくなり、明治40年ごろに集落共同火葬場が作られた。

敦賀和久野の東和久野では明治時代に火葬ができるまで集落で火葬した。その後はずっと湯山の火葬場。今は敦賀斎苑。

南条では、西大道の方への取材によると2,30年前まで集落火葬場での火葬だったという。今は越前市斎場を使用しているという。郷土史によると昭和48年6月から越前市斎場と利用契約を結んだというので、その後徐々にそちらを使うようになったとすれば大体そのくらいの年と思われる。

墓の形態も夫婦墓から先祖代々の墓へと移行している。


現在は公営火葬場が使われている。

おおい町には火葬場がなく、小浜市の若狭霊場や高浜町の高浜斎苑で火葬しているが、火葬が重なった際の問題が1984年からあがっている。ただし今現在もおおい町には火葬場は無い。今現在も広域火葬場の協議が進められているという。

現在の火葬場は以下の施設が稼働している。県内でここ数年は以下14施設のみが稼働。

  • 池田町葬祭場
  • 高浜斎苑
  • 美浜斎苑
  • 今庄斎場
  • 鯖江葬祭場
  • 大野市営葬祭場
  • 越前市斎場
  • 代官山斎苑
  • 赤坂聖苑
  • 福井市聖苑
  • 若狭霊場
  • 三方斎場
  • 勝山和みの杜
  • 敦賀斎苑

参考文献

『福井県史15 民俗』
『あどうがたり』
『ノヤキの伝承と変遷』
『三方町史』
『若狭がたり2 民俗』
『若狭の民俗』
『小浜、遠敷の両墓制について』
『新考坂井郡誌』
『土に還る』
『郷土誌大飯』
『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
『大飯町誌』
『浄法寺村誌』
『宮崎村誌』
『総合民俗調査報告書(第17号) 宮崎村の民俗』
『郷土誌青郷』
『南越民俗』
『鯖江市史 民俗』
『上吉田集落誌』
『北谷物語』
『国富郷土史』
『小浜市史紀要 第3集』
『上舌部落誌』
『真名川流域の民俗』
『敦賀志』
『南条町誌』
『わかさ美浜町誌』
『若狭における葬送墓制の転換』
『木部村誌』
『剣岳村誌』
『越廼村誌 本編』
『鯖江郷土誌』
『越前国今立郡誌 (福井県郷土誌叢刊)』
『丸岡町史』
『生きている民俗探訪福井』
『穴馬の民俗』

取材

敦賀沓見の方
福井美山小和清水の方
南条西大道の方

次シリーズ

四回目
県内各地サンマイ写真(火葬場・土葬地)【福井県の葬送Ⅳ】
https://kofukuroman.com/sousou4-sanmai/

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