福井県福井市の中心、福井駅前に残る「福井城址」。
堀や石垣、天守台がわずかながら当時の面影を残し、春には桜の名所となり、多くの人々が行きかいます。
しかしそんな福井城址には、ある怖い伝説、藩政時代の「怪談話」が伝わっています。
今もその怪談の舞台となった場所が残っているので、今回訪れてみます。
福井城について
まず福井城とはどのようなものなのか、とても簡単に見てみましょう。
『福井市史』によると、慶長六年(1601)九月に徳川(松平、結城)秀康が、柴田勝家の築いた北庄城城下を改築する形で現在の福井城の工事を始め、六年間の歳月を経て慶長11年(1607)に落成。
本丸の郭廻の距離・・・五町二十八間(596m)
天守、小天守あり。
他、二の丸・三の丸があり、堀は3重4重に掘られ、一区間に百間堀という巨大な堀があり、さらに荒川(勝見川)や足羽川で天然の堀を備えた、かなり巨大な城だったようです。
さて、怪談伝説へ移ります。
福井城の怪談伝説「お角櫓(すみやぐら)の幽霊」
伝説「淀君の幽霊」
福井藩三代目の頃。戦のない時代だったが、殿は松平家秘蔵の銘刀は片時も放さなかった。 ある日、この刀が突然消えた。殿は心痛まれ大騒動、城中探したが見当たらなかった。その日は刻限が来て、殿はがっかりしながら寝床に着いた。その夜うなされた夢に、刀はお角櫓の一番上にあると告げられた。 翌朝早く家来を呼び、昨夜の夢を語り、誰かとって来る者はいないかと聞いたが、皆顔を見合わせ誰も行こうとしなかった。いつも自慢してる者も黙り込み、中には体が痛むと言って不調を言う者もいる。すると下座にいた者が、「その儀は某にお任せください」と、受け直に櫓へ出かけた。 櫓は大阪の役の跡は使用されず、仲は蜘蛛の巣や土の臭いが目立つ。それを物ともせず彼の勇士は提灯片手に階段を登り、階上に達してふと奥を見ると、暗い中に白いボーっとした一人の宮女が髪も振り乱し立っていた。刀を後ろにあちらを向いているのでそーっと刀を奪おうとした時、女はこちらを向いて薄気味悪い笑いをし勇士を睨みつけた。その姿に勇士は刀を抜いたまま気絶した。 城では待てども帰ってこないので、殿はもどかしく思えてもう一人行かせた。彼は静かに階段を登り、見ると幽霊が立っている。しかしこの人は肝が据わっていたようで、その傍に行き刀を取り、幽霊が振り返って睨み笑うのを見て、睨み返して戻ってきた。すぐに殿にお目通りして刀を返したが、その直後倒れてしまった。家中の者がいろいろ手を尽くしたが、亡くなってしまった。遺体は妻子に引き取られた。 大阪の役の時、一番に攻めた越前勢によって要害堅固の大阪城は落ちた。これを秀頼の母淀君が非常に恨んだ。それが妄念となって出たのだろうという。 参考:『福井県の伝説』 別の話では… |
まあ、なかなか昔の怪談らしい怪談じゃないでしょうか。
しかもこれが、大坂の陣と絡ませているという所が面白いですね。
伝説「一国女の幽霊」
お角櫓は草が茂りいつも閉ざされている。そこにはイッパク(一国女)の亡霊が隠れている。ここへ八誰も入ろうしなかったが、藩公は勇ましい男を送って、この暗い隅を夜間見張らせた。長く待った夜、夜中に美しい女が塔から現れ、草の茂って湿っている防畳の上を歩いた。彼女は自分がイッパクの魂であると言い、見たことを誰かに話せば直ちに死ぬといった。その時彼女の背中がネバネバした怪物の背中をしていたという。翌朝彼は、忠義心から見聞きしたことを公に話した。数週間後彼は死んだ。 参考:『越前若狭の伝説』 |
一国女って?
という事になると思います。その女性の元の姿は決して背中ネバネバの怪物ではなく、福井藩二代藩主松平忠直乱行事件に出てくる登場人物です。
内容は結構やばいです。グロいし、特定の方には見せられない内容です。
その黒幕が「一国女」という美女だったのです。そして今回の幽霊というのが、このお角櫓の怪談の1つになっているわけですね。
怪談伝説の舞台「おすみやぐら」
さあ、あくまで昔の怪談なので、楽しんで行きましょう!
この怪談の舞台となったお角櫓の痕跡が今でも残っているといいます。
行ってみましょう。
どこにあるのか
『越前若狭の伝説』にはこう書かれています。
福井神社裏手に城壁の一画が残存している。昔はあのあたりは堀であった。今の繊協ビルの所から裁判所前まで南北に延びていた堀が、ここで東西に方向を変え、順化小学校から放送局前を通り、さらに東に向かっていた。その曲がり角が福井神社裏の城壁である。藩政時代にはここにやぐらが立っていた。角にあるのでおすみやぐらと称した。 引用:『越前若狭の伝説』 |
そう古くない、1970年に発刊された『越前若狭の伝説』に杉原丈夫(すぎはらたけお)氏によって記された内容です。
なので、今の姿を変わりない情景を記しているものと考えます。
これを参考に見ていきます。
お角櫓跡の「福井神社裏」に残る石碑
まず福井神社です。
一旦手を合わせに行きます。ついでに社殿裏に何か残ってないか見に行きます。
で、いろいろ見て回ったのですが、何かありました。
最近モダニズム名建築で話題となった社殿の向かって右の横道、この奥にありました。
ちゃんと道も敷いてあります。
もう見えますね。
明らかに古すぎる石碑です。
いつのでしょうか。お角櫓と関係しているのか。
いやしかし、全く読めない。風化して確かに文字が彫られていたようですが、もうわからないです。
上に「東」と見えるだけです。
では、裏側を見てみます。
めちゃくちゃ書いてあります。そして、ちゃんと読めます。
さあ、このなかに「お角櫓」の文字はあるのか。
ありました。書かれています。
二重櫓跡ニシテ〇稱御角櫓ト
間違いなくここがお角櫓のあった場所のようです。
で、この石碑はいったいなんだ。という事になりますが、これはお角櫓そのものについて書かれた石碑ではなく、どうやら天皇行幸について書かれたもののようです。
明治四十二年に大正天皇が東宮に来たとき、北陸行啓の際、松平侯爵邸に来たとか、市民の熱誠奉祝を受けたとか書かれています。
そして、昭和13年福井城址解放の際に記念として建てられたのがこの石碑のようです。
というのが、素人の私の見た感じです。
表の風化も気になるので、福井市立郷土歴史博物館さんに問い合わせました。
以下回答の要点です。
- 碑名は石碑表面は現在では剥離が進んで大半が判読できないうえ、この石碑についての古い記録も見つからないので、正確にはわからない。
- ただ最上部は「東」、最下部は「碑」と読めることと、裏面を参照すると、石碑の建つ場所が江戸時代には「御角櫓」と呼ばれた二重櫓のあった所であり、明治42年、当時東宮(皇太子)であった大正天皇が北陸行啓の際に松平侯爵邸(現在の中央公園)に仮泊。その際に「熱誠ナル市民ノ奉祝」を受け、これに応えた「御展望所」が此処である、というような解説がある。
- 以上の事から碑名(表面)の「東」は「東宮」のことであると思われ、その「御展望所」となったことを記念する意味の碑名が刻まれていたのではないか。
- 碑文によれば、この石碑が建てられたのは昭和13年のよう。
つまり、ここは大正天皇が皇太子時代に立って、民衆に応えた地ということですか。
それはそれですごい。
そして、江戸時代にここにお角櫓が立っていたということも確かに書かれているのです。
怪談伝説の地でもあり、大正天皇が立った地でもある。
ここは、凄い場所なのですね。
お角櫓の痕跡
『越前若狭の伝説』によると、そのお隅櫓の痕跡が残っているのは「福井神社の裏手に城壁の一角が残存している。」とあるので、その場所に行ってみます。
先の神社鳥居前の通りを左に、神社沿いに道を行きます。
すると、途中で石垣の積み方が変わっている所がありました。
向こうが神社裏になります。
左が神社裏へ続く石垣、右が神社前へ続く石垣です。
明らかに違います。昔の積み方は・・・、左の積み方が普通ですよね。
やはり神社裏に、お角櫓の石垣が残っているのでしょうか。
神社裏の石垣です。
これは、明らかに最近のものではないですよね。時代はわかりませんが、昔の石垣が積まれていることは確かと見えます。
ここが堀の境界かどうか、それは道の向かいにある復元ポイントから見ればわかります。
振り向くと、最近発掘工事が終わった後公園として整備された復元石垣があります。
この石垣は昔の堀と石垣の位置を現わしているのだそうです。
そして、これと先の神社裏の石垣を一緒に見てみると、
ちょうど、この復元ポイントの延長線上が神社裏の石垣に続いているのです。
これで、明らかです。
完全に神社裏石垣の位置は、堀との境界の位置になっています。
つまり、「お角櫓の石垣の位置」になるわけです。
で、この石垣についても先ほどの福井市立郷土歴史博物館さんの問い合わせのご回答の中に言及されていました。
以下内容の要点です。
- 先の石碑のある福井神社境内西端部は、他に比べて南北に高く盛り上がっており、西隣の建物群とは数mの高低差がある。
- 中央公園側から石垣を見ると、新しそうな谷積みであるのに比べ、西端部分のみ比較的大きな石材を布積み状に積んであり、ある程度の高さで北に向かって延びている。
- 中央公園で再現している昔の石垣のラインと、ほぼ矛盾なく合致している。
- 江戸時代そのままの石積みではないと思われるが、ここの石垣に使用されている石材は、江戸時代の西三の丸外側の石垣に使用されていたものを再利用している可能性が高い。
- 現在の高低差は、石垣があった当時の地形の名残とみてよいのではないかと思われる。
- ただし「御角櫓」そのものの遺構の位置は、江戸時代の絵図と現代の地図を重ね合わせると、大部分が現在の順化小学校グラウンド内になるのではないかと思われ、現在石碑が建っている場所そのものではないのではないか。
重要なのは、「江戸時代のままの石垣ではない可能性が大」であることと、「櫓そのものの位置はいまの順化小学校グラウンド辺り」という部分です。
なるほど、ここでない可能性が大きいという事ですね。
まあ、仕方ないですよね・・・。
福井空襲に福井地震、いろいろありましたから・・・。
位置を考える
一応、空撮や絵などで位置も見ていきたいと思います。
まず、上の絵です。昭和2年の絵らしいのですが、「柳御門内より御隅櫓」という題でこんな感じで奥にお角櫓が描かれています。
道の先に見えるようになっているのですね。
これを参考に、空撮です。
1948年なので、まだ外堀まである状態です。
この空撮を参考に見てみると、上記画像のような配置になっています。堀も残っているのでわかりやすいです。絵図の道をまっすぐ行った先がお隅櫓なので、推定上画像の位置かと思います。
ちなみに町が悲惨な状態なのは、空撮が1948年6月29日撮影、福井地震(1948年6月28日)直後だからです。よくそんな時に撮ってくれたと思います。
そして現在↓
良く復興したなと。
で、外堀が無くなってしまっていますが、道の名残や復元、内堀の位置などを参考に考えると、黄色い位置が御隅櫓かなと思います。(ちょっと画像では大きくし過ぎた気がします・・・。)
たしかに、順化小学校のグラウンドにはみ出ている印象です。
しかし、この辺りであったことは間違いないです。
歴史博物館の方が仰っていた通り、大部分は小学校のグラウンドにかかっているかもしれません。しかし、すべてではなく、櫓の一部はこの福井神社にかかっているはずです。
今、その怪談伝説の地に立つことができているはずです!
という希望論です・・・。
いや、しかし現地でお角櫓の文字が見れたこと、歴史博物館の方からもその名残であると確認できたことはとても素晴らしいことではないでしょうか。
人々が行きかう街にこそ怪談
大坂の陣の時代から松平忠直の時代の話が、福井城の使われなくなった櫓に充てられ、怪談話へと構築されて行き、現代にも現地でその文字や痕跡を見ることができる「おすみやぐらの怪談伝説」。
歴史や現地と併せて見ることができ、現代でもその舞台となった位置の考察として楽しむことができる。
これは、ただの昔話の怪談ではなく、いつの時代も幅広い人が楽しめる怪談伝説なのだと思います。
石碑は日々風化して行き、隣接する建物も古く、今後の再開発で石垣もどうなるか心配なところですが、どうにか今の福井神社内の状態を保ち続けて、このおもしろい怪談伝説を次の時代へ繋いでいってほしいものです。
情報提供:福井市立郷土歴史博物館
参考資料
『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』
国土地理院 空撮
デジタルアーカイブ福井
動画も上げました。
https://youtu.be/rt88NhP8Iew
基本情報(アクセス、最寄り駅、駐車場)
最寄り駅は、北陸本線福井駅から徒歩8分。
福井鉄道福井城址大名町駅からだと徒歩5分。
駐車場は、福井市大手駐車場から徒歩3分。
自動車で来るなら、福井ICから車で10分。
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