長田寺~延鎮上人と坂上田村麻呂ゆかりの地・伝説と由緒【小浜市】

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長田寺

福井県小浜市中名田地区にある長田寺。田村薬師として有名な薬師如来が祀られています。

開基は清水寺開基としても有名な延鎮上人であり、清水寺を建てた坂上田村麻呂は田村治めた人物でもあります。そんな長田寺の伝説と由緒を見て行きます。

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由緒

長田寺

曹洞宗
本尊:薬師如来(立像六尺二分)
脇立:日光仏、月光仏(各三尺五分)
脇檀:十二将神(神将)
其他:延鎮上人、撫で仏、弘法大師

清水寺開基で有名な延鎮上人が開基で堂宇を坂上田村麻呂の家臣高階大膳太夫行宗の縁によって将軍の計画により延暦十二年八月八日に起工、同十五年十月十八日上棟式を挙げ金堂が造営される。應永三年八月堂宇再建。享保十六年に興禅寺末に列する。天保十年に假堂(仮のお堂)を建築、嘉永七年に草堂を建築し今に至る。

『中名田村誌』によると、宝物には延鎮上人御真筆の大般若経や豊公焼印の大柄があるといいます。

伴信友によると、かつては七堂伽藍があったとのことです。

長田寺

現在もいくつかの建物があります。ただ、七堂伽藍を誇っていた面影はほぼなくなっています。

それでも趣のある本堂はその荘厳さを物語っています。

長田寺
長田寺

鐘楼もまた古いものです。

縁起・伝説

田村薬師の伝説は二部構成のような感じになっています。

まず初めは、延鎮上人がメインの開山の話。延鎮上人が薬師如来と出会う話です。

 延鎮上人は大和国高市郡子島寺に住しており、若い頃から生涯生身の薬師如来を拝したいという願をかけていた。そしてある夜、「大和の国を出て北へ行き、山中に入って霊地を求めれば薬師如来は拝することができる」というお告げがあった。延鎮上人は喜び、京都近江を経て若狭名田荘に入り険しい道をたどって田村谷に来た。そこで元(竹の本)にたたずんで四方を眺めていると南の山中に金色の光があった。行ってみると草のいおりがあり白髪の老翁が安座しダラニ(呪文)をとなえている。延鎮上人が「汝は誰此処は何処」と問うと翁は「予は行容と号し此の地は多古木と謂い医王善誓の霊地なり我此の地に住すること二百年余歳汝を待つこと久し」と答えて姿を消そうとした。延鎮上人は急いで持っていた杖で老人の背を計るに杖の長さと同じだった。そしてその杖の長さと同じ背丈の薬師如来を刻んだ。延鎮上人は「さては霊夢の如く正しく生身の薬師如来にましませしか」と参拝九拝して歓喜した。それから十六年の歳月をこのいおりで送った。
参考:『越前若狭の伝説』『中名田村誌』

その次が坂上田村麻呂に縁のある話になります。

この地は当時坂上田村麻呂の領地で、その家臣高階(たかはし)大膳太夫行宗という人がここで支配していた。延暦十二年(793)行宗は眼病にかかった。あらゆる薬を使っても治らないので薬師如来に祈願した。七日目の夜老翁が現れ「此を去る南三里に霊地あり、堂宇を建立し薬師如来を造安せしめば当病平癒ならん」と告げた。翌日弘次、恒沢というふたりを使いに出し霊所を尋ねさせた。ふたりは延鎮上人のもとに至り目的を話した。延鎮上人は「我が願既に成就す然れども無物にして一宇を建立し難し」と答えた。使者は帰り行宗に伝え、急いで田村麻に上聞した。将軍は感激し寺院造営を計画した。飯盛山にあやすぎの大木があった。一本の木材であやくら作りの金堂を完成した。延鎮上人自刻の薬師仏および日光仏、月光仏を安置している。
参考:『越前若狭の伝説』『中名田村誌』

つまり本尊薬師如来を刻みこの地を開いたのが延鎮上人で第一部とし、堂宇を建立したのが坂上田村麻呂サイドで第二部であるという話のようです。

後に、山号を多古木山、名を長田寺に定め、四方に寺領として四至を賜いました。
東は野川を限る。西は武見の峰を限る。南は多古木の嶺を限る。北は飯盛山を限る。と記されています。

長田寺

現地説明版は2つあります。田村薬師の説明版と坂上田村麻呂の説明版です。

坂上田村麻呂の話について、現地説明版では、

蝦夷征伐の東征の際に、都から小浜を経て蝦夷地へ往来したとされ、その道中の長田寺で戦没者の冥福を祈ってここに薬師如来を安置したといわれる。
参考:『現地説明版』

といった内容が書かれており、伝説とは違う言い伝えになっていますが、これもまた一つの説ということなのでしょう。こちらのほうが歴史上で見たときには有力なのかもしれませんね。

私は歴史学者じゃなく、ただの伝承伝説好きなので、どちらの説もあってよいと思います。

多くの石碑の中に、

長田寺

田村という文字があります。

加茂神社と坂上田村麻呂の伝説と酷似している

このサイトで取り上げた、同じ中名田の加茂神社の伝説があります。

実はこの伝説も「白髪の老翁」がでてきます。その正体は加茂神社の神様だったわけです。

さてこの白髪の老翁に出会うという類似した伝説、その時代に大きな力を持っていたであろう、清水寺を建てた坂上田村麻呂延鎮上人若狭の地で同じような体験をしているという伝説なのです。

いったいどれほどまでに神聖な霊地だったということなのでしょうか。ここまで神聖視される土地もなかなか珍しいのではないでしょうか。

それに、加茂神社と薬師という組み合わせを想像すると名田庄納田終の土御門家と縁のある土地を思い出してしまいます。あの場所にも加茂神社と薬師堂があります。安倍晴明の師である加茂と安倍家の守護である薬師如来。この関係も何か関わりがあるのでしょうか。

謎も多くロマンも多い土地です。

その後

長田寺のその後は冒頭の由緒でも簡単に書いた通りです。

應永元年に堂宇再建の議があり、三年八月に現在の地に七堂の大伽藍を建築し、本堂は七間に九間四方各一間の回椽付の壮大なもので参詣の老若男女絶え間なく、田村薬師は有名になる。天正の頃豊臣秀吉天下統一の際、その臣某をして長田寺領を奪取し且つ所属建築物を悉く焦土に帰した。後二百四十年余りを経て天保元年冬に再び池魚の殃に罹る。天保十年に假堂(仮のお堂)を建築し、嘉永七年に郷民共同一致となり草堂を建築し今に至る。
参考:『中名田村誌』

このような沿革を持っています。
「應永元年に堂宇再建の議があり、同三年八月に現在の地に七堂の大伽藍を建築し」とのことで、それまでは伝説でもあった通り、本当の山中にあったのでしょう。

現地説明版にも天保元年に一度消失しているとかかれています。ただ説明版には、天保十三年に仮堂を建て尊像を祀って、嘉永七年に再建とのことが書かれています。

歴史と景観と伝説のつまった長田寺

かつてこの長田寺には桜の大木があったとのこと。それを「薬師の櫻」といい、『中名田村誌』に載っています。今でもその名残を思わせるように桜が咲き誇っていました。

長田寺

今もこの長田寺はこのような美しい景観と、多くの歴史と、ロマンあふれる伝説で多くの人を魅了しながら立ち続けているのです。

参考文献
『中名田村誌』
『越前若狭の伝説』
『遠敷郡誌』
現地説明版

基本情報

最寄り駅小浜駅からバスに乗り換え中名田小学校前バス停下車徒歩4分
自動車小浜ICから18分
駐車場前にスペースあり

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