福井県小浜市中名田下田字山左近に加茂神社があります。
いかにも由緒のありそうな加茂神社の歴史、御祭神由緒を見て行きます。坂上田村麻呂が加茂別雷命とであった地であるとされます。
御祭神・由緒
祭神:加茂別雷命(中名田村誌)
加えて貴船大神、片岡大神(御大典記念福井県神社誌)
創立不詳。由緒は次の項の伝説にて記す。
大正元年指定村社。
歴史は古いですが、この神社のほとんどの由緒が坂上田村麻呂と関係するものなので、詳しくは次の伝説の項に書いていきます。
伝説
本社の最旧殿は人皇四十二代文武天皇大賓の頃山前に鎮座ましませしが桓武天皇延暦五丙寅年坂上田村麻呂当地に下り給いし時、社前を通じけるに不思議や白髪の老翁巌穴に安座し給う、将軍怪みて問い給えば翁答えて曰「我は山城国葛野郡松尾に住む加茂別雷と号し当所を開発せんが為に汝を待つこと久し」と呼び俄に消え失せ給う。将軍大いに感じさてこそ加茂別雷の神に座するかとこれより開発に力め戸口大いに繁殖せしめられたり。依って延暦八己巳年別雷神の御鎮座殿を現地に創建し山前加茂別雷大明神と号し、祭日を定め且当谷を号して田村谷と称し給ヘり。
引用:『中名田村誌』
大宝年間(701~704)にはすでにこの地に神社があって、坂上田村麻呂が当地に入った延暦五年(786)の時にこの神社の前を通ったところ白髪の老翁と出会いその正体が加茂別雷であり、それに感じ入ってこの谷を開発し田村谷と名付けたということで、中名田の谷が田村という別名を持っているのもこの伝説から来ているということですね。
その後、加茂神社の守護には田村麻呂の臣某がなっていた。村上天皇天暦七年(953)山城国上賀茂神宮の祢宜、田村麻の臣、二十二代西池保皆の二男をこの社に下向させ下賜されたとされ以後西池氏七代が神社を守護した。(参考:『御大典記念福井県神社誌』)
坂上田村麻呂は教科書にも出てくるような人物ですが、そんな人物が由緒に深くかかわり、地名の由来ともなっているというのは素晴らしいことです。
境内
拝殿は『御大典記念福井県神社誌』には寛政年間に火災後同十年に再建、その後『中名田村誌』によると文政十一年に再建されているらしいですが、「明治四十年十二月当時の社殿は云々」と書かれているので今はそれよりも後の建物なのでしょう。
ちなみに本殿は文化九年の再建とされているそうです。今は不明。
立派な格子と木の香りが漂ってきます。
石玉垣は大正三年。
しかし階段の端には、「文政十丁亥年九月吉日」と書かれた柱が立っています。
境内社
境内社は壁の通路から外に出てあります。
- 塩竃社(文化三年三月再建)
- 床浦社(寛政三年四月再建)
- 妙見宮社(安政四年建立)
- 太田神社(天明四年三月再建)
- 金毘羅神社(天保三年九月建立)
- 稲荷神社
境内には郷土誌の記載にある通り、六社の境内社が祀られています。
長田寺と類似する伝説
さて、この加茂神社にある、坂上田村麻呂が出会ったという白髪の老翁ですが、これに類似する伝説が、同じ中名田地区内にあり、中名田を代表するお寺の長田寺にも白髪の老翁に出会う話が伝わっています。
長田寺のほうで白髪の老翁に出会ったのは、坂上田村麻呂ではなく、延鎮上人です。
延鎮上人は坂上田村麻呂と同じ時代であり、ともに清水寺を建てたかかわりの深い人物同士でもあります。
この二人がこの中名田の地で同じ体験をし、この地区を代表する社寺を建てたというのです。
この地はそれほど重要な土地だったのでしょう。歴史に名を残す、もっと福井県が前面に出していかないといけない重要で誇れる場所なのではないでしょうか。
歴史と伝説の神社
坂上田村麻呂の伝説を伝える神社である中名田の加茂神社。今この瞬間も少しずつの歴史を刻んでいます。地域の重要な神社としてこれからも新たな歴史や伝説を作り続けていくことでしょう。
参考文献
『中名田村誌』
『御大典記念福井県神社誌』
基本情報
自動車 | 小浜ICから17分 |
駐車場 | 神社前にスペースあり |
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