本勝寺の戦災慰霊碑。
昭和20年7月12日に敦賀大空襲で、市街地がB29のM47・M69焼夷弾によって焼き尽くされた。
昭和20年7月30日に戦闘機による機銃掃射と爆撃。機銃掃射は民間人をも狙い撃ちにした。
昭和20年8月8日には東洋紡へ模擬原爆(パンプキン爆弾)が落とされ、学生らが亡くなった。
当記事では、戦災誌に載っている体験談に書かれていた場所や供養碑へ赴く。
B29焼夷弾攻撃(敦賀大空襲)
概要
昭和20年7月12日。日本海側の最初の空襲。
弱い西北西の風が吹き、雨がしとしとと降っていた。午後九時十九分福井県警戒警報発令。今まで若狭湾への嫌い投下で何度も警報が出されていたため、市民は今回も同じだろうと思っていたという。
九時四十分頃、熊野灘より約百機が侵入し、その一部が敦賀へ襲来。
駄口通過→道ノ口通過→井川に第一弾投下(咸新小学校・新善行寺・高福寺・民家七軒炎上)→深山寺(民家四戸全焼)→高野(民家一戸全焼)→田尻(松岸寺全焼)→田結(民家五軒全焼)→赤崎(赤崎小学校・民家二戸全焼、一戸半焼)→五幡(二戸全焼、一戸半焼)→磐城セメント工場へ投下→天筒山上空より敦賀本市へ空襲。
十一時十二分頃、東郷村井川で轟音が起こるとともにパッと明るくなり、何かが燃え上がった。間もなく天筒山の上空が明るくなり、金ヶ崎、天筒山麓で火の手があがり、焼夷弾が雨のように降りだした。
松原・東洋紡の高射砲から火蓋が切られる。次に変電所が攻撃されたか全市停電。ラジオの聴取も不可。空襲は翌十三日午前二時頃まで、約三時間波状的に続けられた。
B29爆撃機によりM47・M69焼夷弾が投下され焼き尽くされた。
被害面積:訳215,000坪(当時の枢要地域の八割)
焼失家屋:4,119戸
罹災世帯:5,057世帯
罹災人数:19,300人
負傷者 :201名
死者 :109名
焼夷弾の音は、「ザサーッ、ザサーッと気味の悪い音」「ザザー、シャー」と表現されている。よく豪雨の音や花火の音に似ているとされる。
焼夷弾が投下される様子は、「花火を散らしたよう」などと表現されている。
戦災の写真は下記のサイトが載せている。
『敦賀の歴史』
http://historia.justhpbs.jp/sensai.html
『昭和館デジタルアーカイブ』
https://search.showakan.go.jp/search/photo/?search=1&tab=1&freeword=%E6%95%A6%E8%B3%80
ただし、福井空襲の写真に比べて写真の枚数が少ないことは仕方がないとして、一般的に公開されている写真がほとんどないのが残念でならない。歴史博物館ホームページでの一部写真の一般公開、せめて敦賀市立博物館での戦災常設展示をしてほしい。
天満神社
敦賀空襲の焼夷弾空襲の中心とされているのが、現在の栄新町にある天満神社。
先ほど載せたサイトの空襲後の町に写っている鳥居がこの天満神社の鳥居とされている。今ある鳥居は戦後のものという。
『敦賀空襲・戦災誌』には、この天満神社の灯籠の下に昭和五十七年に撮影されたという電柱らしき焼け跡が写されている。おそらく正面右側。上写真の向こう側。
以前は玉垣がもう少し後ろにあった。いま社標が建っているのと同じくらいの位置だ。その玉垣の手前にあったので、おそらくちょうど現在の玉垣がある場所に残っていたと思われる。
春には桜が参道を覆う美しい神社だ。
氣比神宮
氣比神宮は敦賀空襲で鳥居以外の全てが焼けた。
氣比神宮も避難先とされていたようだが、戦災誌では避難しようとした際には既に四方が火に囲まれ、本殿は焼け落ち、社務所も火に覆われていたという。
御手洗町も火の海。
『敦賀空襲・戦災誌』にはこんな一文がある。
あくる日、昨日まで賑わいを見せていた「みなと街」も廃墟と化し、ほんとにウソのように感じられました。見る影もない荒れ果てた焦土となり果て、路傍には直撃弾でやられたらしい、頭蓋骨を割られて脳ミソがとび出ている人や、御手洗町では、川に飛び込んで死んだ人、尻を空に向いている人など何人も川での無残な死体を目にしました。また防火水槽に首を突っ込んで上だけ焼けている人もありました。
引用:『敦賀空襲・戦災誌』
『敦賀空襲・戦災誌』には、この場所↑を指さす人が写っており、写真の説明には、
気比神宮前。ここに2、30人ほどの死体が積まれていたという。
といった文が書かれている。
今では境内内外が美しく整備され、人も常に耐えない。戦災があったなどという名残すら感じない。
氣比神宮裏の碑
2,3年前くらいの新聞でも紹介されていた場所でもある。
氣比神宮の裏、車ではいる際の入口に「氣比神宮東参道」という石碑が建っている。
その裏面と側面
敦賀空襲戦災者の名前が刻まれている。
名前は154名であるといい、敦賀の3回の空襲全体の犠牲者。
貨物線
湯山火葬場付近から気比神宮の南東に進み、線路には何両も貨物列車が退避していた。停車中のその車両の下へもぐり、雨で全身濡れ恐怖と共に寒くて震えて母子で寄せ合っていた。波状の爆撃が再び来て、高射砲の砲声とともに耳をつんざく。車両の上に「ガラガラ、ガーン」という鼓膜が破れそうなほどの大きな音がして、付近一帯に落ちてきた。「花火が落ちるよう」と表現され、線路に落ちた焼夷弾の筒から火を吹いていた。客車は燃え、田んぼにいた人たちの頭上にも降り注いだ。爆音が去り、外に出ると気比の杜から向こうの西の町は炎に包まれていたという。
左の線路が港への線路。それよりさらに左へ山の方に行くと湯山火葬場跡地。右の道奥に見えるのが氣比神宮の杜。
列車の下に避難した場所は向こうに見える、線路の上にかかる陸橋付近ではないか。
金ヶ崎
愛宕神社前付近を駆け上ると、石段や金ヶ崎宮参道の石段のあちこちに焼夷弾が落ちていた。社務所は炎上していたという。
鳥居の横や御殿付近に大型焼夷弾や小型焼夷弾が無数に落ちていたのだ。
桜の名所となっている。
ランプ小屋
改修前の調査で屋根に焼夷弾が落ちて焼けた跡があったという。
今は屋根瓦が新しくなっている。
金ヶ崎トンネル
空襲の際に多くの人が隠れた金ヶ崎トンネル。
金前寺の前の道を上に上がっていく道。今は進入禁止になっており、トンネルまで行くことはできない。道には草が茂り廃道を極めつつある。
敦賀駅
戦災誌の当時五歳だったという人の記載では、敦賀駅の現在の小浜線付近にあったタンクに焼夷弾が落ちて真っ赤に燃え上がったと記載される。
タンクの名残は一切ない。
天筒山
第一弾が天筒山に投下された瞬間、真っ暗闇だった世界が新聞を読めるくらいの明るさになった。他の証言ではこれが照明弾であり、一目で敦賀の市街地が分かるほどだったといい、その直後に「シャーッ、シャーッ」と音と共に焼夷弾が天筒山の上から投下されていった。半鐘がけたたましく鳴り渡っていた。
向こうに見える山が天筒山。あの上空からB29爆撃機が襲来し、火のついた鉄の雨を降らせた。
あの山が燃えたのが、敦賀平野部の大空襲の合図だった。山の向こうから進行してくる巨大な飛行機、そこから落とされる火の雨をどのような気持ちで見たのだろうか。当時は雨だったから爆撃機が来る様子は見えなかったのだろうか。しかし証言では、雲の切れ目から銀翼がのぞいたともいわれている。
三島橋
多くの人が三島橋の下へ避難したという。橘通り・大内町から走って避難してきた人もいる。
現在は敦賀で一番車通りが多いのではないというほどの三島橋周辺。
ここに大勢の人が避難してきた。
もちろん今の橋は当時の物ではないが、今の元町付近から1kmも離れたこの場所まで必死で逃れてきた人もいる。
自動車の騒がしい音が響き渡っている。
港町・倉庫
空襲によって元町一帯が火の手がのび、皆安全な避難場所を求めていた時、港近くの倉庫付近で女性がたった一人でしょんぼりと徘徊していたという。戦災誌の証言者は恐怖の夜に起こったその光景が脳裏に焼き付いていると証言されている。
戦災により、建材不足で形がバラバラになった倉庫。今でも倉庫群は健在である。
敦賀市立博物館(銀行跡)
敦賀空襲を耐え、今もその姿をとどめる貴重な遺産。
敦賀空襲の当時の様子の写真と比べても構造は同じで残っていることが分かる。↓
敦賀市立博物館ホームページ 重要文化財・旧大和田銀行本店本館について
https://tsuruga-municipal-museum.jp/introduction/tsuruga/
何とも凝ったデザイン。写真ではここも焦げていた。まさに空襲を受けたその場所が残っているのだ。
敦賀の方からとある話を聞いた。
この銀行の建物の西側には今も戦前の木造の建物が残っている。しかしこの辺りはほとんど焼け野原となった。なぜ木造の当時の建物が残っているのかというと、この石の銀行が爆風や火の手の壁となって、空襲中心地からの延焼を防いだのではないかという話があるらしい。
また、この銀行は当時、集中攻撃をされないためにコールタールで黒く塗っていたという話もあるという。
防空壕としてつかられた横穴
敦賀平野の北西に位置する原地区。
以前ここで、横穴の調査をしたときにお話をお聞きした。
↑の記事でも書いたが、その方曰く、敦賀空襲の時は横穴に避難したのだという。
横穴から外を見ると目の前は焼野原だったという。
その方の横穴の話は、中の様子などを語ってくださった。細かい説明などを受けたわけではないが、何ともリアルでそれを経験したからこそできる説明が生々しかった。
やはり実際に見た人の話は、何かが違う。非常に重い。
その他
ページトップの戦災慰霊碑のある本勝寺。
B29は重い爆音だった。
戦災誌には、捕虜の米兵が大湊町の民家から老人を助け出していたという話も見受けられる。
松原からの高射砲は全くの無意味だったといい、米軍機は無反応だった。
北津内付近の火の手だけがピンクを濃くした火災だった。
敦賀駅から松原が見えるほど焼け野原になっていた。
M47焼夷弾は大型焼夷弾。爆裂する。
対してM69焼夷弾は、筒状の焼夷弾。六角形の形状。当時子供だった人は、その六角形の焼夷弾を「不思議な思いで見つめていた」としている。
病院前の畑にはこのM69が何本も突き刺さって、鬼火のように燃えていたという。M69は他地域空襲では、直撃弾を受け肩から突き刺さり貫通して燃えていた人もいた。
その他、空襲後無数に落ちていた焼夷弾は、ちょっとしたはずみで暴発した。
女の人と子供が「助けて、助けて」と叫び声を張り上げて駆け込んできた。手や顔がぬるぬるしていた。黄リン焼夷弾にやられたのだという。
『敦賀空襲・戦災誌』によると、六月ころに既に、敦賀空襲予告ビラが散布されていた。日本軍は、そのようなものは拾うな、万一拾ったら届け出よ、そんな物は信じるな!デマであると市民の口を封じ、目を閉ざし、耳を押さえつけ、市外へ疎開する物には敵前逃亡であるぞ!と決めつけていた。ただし応援の手配は進めていたのだそう。
さらにビラについてはこのようなことが書かれている。
空襲する予定都市の名が書かれ「アメリカは、あなた方には、何のウラミもないから、速く、その都市から疎開するように」との意味のことが書かれ、その中には敦賀、福井という名も見られた。
さらに当時敦賀署幹部だった福井市出身の人が、敦賀空襲下で命からがら避難し、県庁警察部に全市全滅の電話を入れたが、「県庁都市より先にやられるなんて」と笑い飛ばされて冗談話としか受け止めてくれなかったという。
艦載機爆撃・機銃掃射空襲
概要
昭和20年7月30日。戦闘機による機銃掃射と爆撃。
午前十時十五分頃、真夏の炎天下に突如、戦闘機P47(後にP47ではなく、F6F・F4Uと判明)六機が襲来。低空飛行にて敦賀駅付近・東洋紡工場付近・松原川崎付近・停泊中の船舶に機銃掃射を浴びせ、小型爆弾を投下して、約三十分後に南方へ去った。
死者:15名
東洋紡正面入り口
東洋紡の正面入り口にて、機銃掃射が行われた。
下記のツイートのツリーを参考にしていただきたい。
東洋紡の門というのはおそらく正面門のことだろうと思われる。
二人が逃げ込んだ橋というのは、門から270m北の木の芽橋のことだろうか。
もちろん今の橋と当時の橋の幅は違うだろう。
近くには橋の欄干の親柱の後らしきものが残されている。
詳細は分からないが、当時の物だとすれば機銃掃射を近くで見ていたかもしれない。
今の東洋紡の北側、正面玄関よりも北の辺りは米兵やオランダ兵の捕虜を収容していた場所だったという。
空から機銃掃射で狙い撃ちされるというのはどんな気持ちなのか。操縦士の顔も見えるほどの低空飛行で狙い撃ちにされる。想像するだけでも恐ろしい。
専安寺
最初、敦賀の南の空に黒いような銀色のような点が見えたという。
急降下の際は「グワーン」という音や「バリバリバリ」という音を立てていたようで、地響きのするほど不気味な轟音だった。
以下専安寺さんに許可済み。戦災誌の内容引用。
(前略)
敦賀の上空を我が物顔で飛び回り、今度は急に西部地区にきて、またもドドドッドドッ……、ダダダッダダッと辺り一面に地響きをさせて、機銃砲弾を掃射してきたのです。
その時、妻は玄関先にいたのですが、突然飛来してきたが、危ないので屋外へは出ずに、近くにあった机の下へ潜り込んだのですが、もう身も凍り付くようなゾーッとする恐ろしい音で、付近に落下してきたのです。何とも言いようのない、異様な、異常な音で専安寺境内内外に砲弾をぶち込んで来たのです。
寺の付近に人影が発見されたか、何かだろうか、もうしやにむに急降下してバリバリと狙撃し、妻の潜んでいた机の近くに大きな膳棚の中へも壁を通して窓をぶち抜き、斜めに入り、醤油壜などが割れました。辺り一面ガラスのバリバリ、ガチャンと割れる音や戸障子の倒れる音、壊れる音で、本堂には凄く沢山ぶち込まれていたのです。仏像にも、勿体なくも砲弾が叩き込まれていました。
本堂の天井、屋根は大穴だらけで、惨たんたる光景でした。畳は破れ穴が開き境内の松の木の下の方、約二メートルくらいに砲弾が二十五発も撃ち込まれ、風呂場の中にも壁に斜めに打たれ、気持ち悪く刺さっていました。
本堂や住宅などの窓ガラスが、300枚程が爆風で割れていまして、どこもかしこも機銃砲弾とロケット爆弾の雨あられと降った模様で、本当に余りの恐ろしさで生きた心地はしませんでした。(血の気のスーッと引いた姿で、震いながら長時間も机の下に妻がおりました)お寺は星空の見える屋根と床だけの残骸でした。
ことに寺の裏の松林は2、30本というものは、一本一本に砲弾が撃ち込まれてあって松島町内の海浜地帯の一部の人々はみんな海岸や松林などにガタガタ震いながらかくれていたそうです。松島の砂浜に海軍の上陸用舟艇が何そうも置いてあったので、この付近がしつこく狙われたのでしょうか。町内の浜側の民家が13、4軒も機銃砲弾をめちゃくちゃに叩き込まれて見るも無残なぼろ家と化しておりました。それでも家は焼けませんが罹災証明書を発行してもらいました。
この酷い無差別砲撃の跡、私は寺がやられたと聞いたので、一人トボトボと、ネコの子一匹通らぬ文字通りの死の街の、川崎町や松栄町通りを体をすくめて飛んで帰り、おそるおそる弾痕生々しい惨状を目にしたのでした。
恐ろしい凶弾の生痕が、あちこちに見え、あまりにもすさまじい砲弾掃射の跡だと、体中の血が一応に引き、逆流するのを覚えました。
押し入れの壁を斜めに貫通し、柳行季に入っていた弾の口はちいさくて、中の衣類は30センチもの穴が開いていて粉々になっていました。
今でも、本堂内の天井や柱、床板などに生々しい弾痕が当時そのままに残されていることは、まぎれもない唯一の「あかし」であろうかと思います。
引用:『敦賀空襲・戦災誌』
今回、専安寺さんへお話を聞きに行かせていただいた。
ありがとうございます。
現在の専安寺さんを管理している方は、上の体験談の中に出てきた奥さんを晩年お世話していた方で、血縁ではないとのこと。体験談を書いていた元住職は、今のお寺の方が来た時には既に亡くなっており、あったことはないそう。
曰く、
奥さんは戦災の話は一切しなかった
ということだった。戦災誌に載っていた話は思い出したくない体験を振り絞って出したものなのかもしれない。
ただし、お寺には先ほどの体験談の載った戦災誌や戦時の専安寺さんの話などは伝わっていた。
現在の本堂はすでに改修したものになる。
お寺の方曰く、
五六豪雪のときに改修したのではないか
とのことだ。なので、今は砲弾の跡は一切なく、写真なども残されていないという。
2023年6月の時点で専安寺さん境内の松はすべて伐採された。
松の木の虫食いにやられたのだそうだ。
ちなみに↑が2022年の夏に撮影した専安寺さん。大きな松の木が境内にあるのが見える。
お寺の方曰く、
自分が来たときには、戦災誌にあった通り、松の木が境内に2,30本あった。
とのこと。ただし、
機銃掃射痕は見たことがない。最後の松を伐採した時も砲弾の跡は無かったと思う。
ということ。私が去年見に行った時も、特に砲弾の跡などは見受けられなかった。
敦賀の戦災誌には、焼夷弾の殻を巻き込んだまま木が成長した写真もある。あの時代からもうすぐ78年。気に出来たような弾痕は既になくなっているものと思われる。松原の松にも多くの機銃掃射が撃ち込まれたと思われるが、その痕跡も見ることはできないだろう。
長沢
東洋紡が機銃掃射をされていると同時に、長沢の民家には1t爆弾が投下された。7月30日は機銃掃射だけでなく、小型爆弾も投下されている。
艦載機の操縦士の顔がはっきりと見えるほどの物だったという。
長沢には大きなタモの木があったといい、そこを避難所としていた。しかしその裏の田んぼに爆弾が投下され、木々は爆風で吹き飛んだ。近くの宅の人は爆風でやられ、一人は内臓破裂によって亡くなった。
長沢の犠牲者の遺体は墓地にて土葬された。火葬するための燃料も棺もなかったという。大昔に戻ったようなみじめなものだったと。
長沢は現在、東洋紡の拡張や商業施設の参入によってほとんど田んぼがなくなったが、その一角に田んぼと、おそらく昔からあるであろう墓地がある。
当時の風景がここにだけ存在するようである。
金ヶ崎
機銃掃射は敦賀駅・港駅周辺でも行われた。
戦災誌によれば、港駅付近では貨車の横に逃げた人の心臓を打ち抜いていた。急降下して機銃掃射し、金ヶ崎の山に追突せずに反転させ急上昇させる技術には驚いたという。
敦賀商業学校
敦賀商業学校(現在の福井県立敦賀高等学校)に東京精密株式会社が疎開しており、そこで小学校二年生がダイス、ドリルの製造を行っていた。
ズドンと地響きがして、校舎の壁が落ち、教室は砂ぼこりが立ち、地震かと思い皆一斉にグラウンドに出た。その時、校舎すれすれに爆音がして、グラウンドに集まった少年たちの頭上を艦載機が飛んでいった。腹の星マーク、操縦者の顔が見えたという。「敵機襲来」と誰かが叫び、蜘蛛の子を散らすように皆松原の茂みに逃げ込んだ。その時にようやく空襲警報が鳴った。松原の高射砲は全く命中しなかった。その音を聞いて、最初の地震のような地響きは、高射砲の音だと分かったという。グラウンドに機銃掃射は行われなかったのが幸いだった。
現在、敦賀商業学校跡は敦賀市営野球場一帯になっている。校舎があったのは、今のツルガ薬局や信用金庫の辺り。
グラウンドはまさに市営野球場の場所。
以前はこの辺り一帯も松原だった。すぐそこに松原があり、周辺の神社などにも今も松の木が点在する。当時の名残を今も少しだけ見ることができる。
松原の高射砲
松原の一角に、かつて高射砲を備えた場所があったという。
一般的には東宮御成年式記念運動場と駐車場の付近であったと言われている。
ただし遺構や高射砲についての説明などは一切ない。
いずれ忘れ去られていくのだろう。
その他
民家の屋根に白い布が干してあれば、そこ目がけて撃って来て竹竿が真っ二つや割られた。
艦載機襲来の際、防空壕などに隠れ、様子見の為に顔を出すと、そこめがけて撃ってきた。岩に当たると「バシッ」という異様な音がしていた。
機銃掃射の音は、「バリバリ」「ガリガリ」という音をしていた。
櫛川の娘さん二十人ほどが勤労奉仕で田んぼの稲干しをしていた時に艦載機襲撃がおこった。皆100mほど走り2つあった便所へ逃げ込み、十人ほどが小さく固まり震えながら「南無阿弥陀仏」と唱えながら、「お母ちゃん助けてー、助けてー」と叫んでいた。屋根は瓦でガラガラバラバラと音を立てて機銃掃射に遭い、「もう死ぬ、もう死ぬ」と悲鳴をあげていた。
田んぼの水中に入った銃弾は「ちゅん」「ぶちゅん」と、熱した鉄が焼き入れするような音がしていた。
専安寺さんで聞いた話によると、日本の民間人からは機銃掃射の操縦士の顔が見えるほどであったが、アメリカの操縦士からも民間人の顔ははっきりと見えていたのだということらしい。だからアメリカ軍の操縦士は民間人、女、老人、子供であるということを分かって機銃掃射をしていたという。戦時国際法ではそれは違法ではあるが、アメリカ軍がそれを考えなかったのは「一億玉砕」の日本の方針だった。だから日本人はたとえ女であろうが老人であろうが子供であろうが、機銃掃射という「狙い撃ち」で殺したのだと。
また、機銃掃射は川崎、松原、松島、敦賀駅付近、長沢(東洋紡周辺)で行われていたということだが、東浦でも機銃掃射があったという証言もあるという。
B29単機模擬原爆空襲
概要
昭和20年8月8日、東洋紡へ模擬原爆(パンプキン爆弾)が投下される。
午前八時半過ぎに警戒警報発令。午前九時頃空襲警報発令。B29単機が旋回し低空したと同時に東洋紡工場へ爆弾を投下。地響きするほどの大音響と黒煙が立った。B29は南方へ去った。
爆弾は捲糸室に命中。
死者
工員15名
学徒16名(男5名、女11名)
教員2名
東洋紡
朝からずいぶん暑かったという8月8日。
本町からの証言では、空襲警報後、野坂山辺りに銀翼が見え、次の瞬間何か黒い点が落ちてきたのが見えた。その方は爆弾だと直感し、とっさに地面に伏せた。それは、大爆音と共に黒煙が天高く立ち上り爆発した。
旅地蔵か。この場所にたたずむ石仏に戦災の弔いを感じずにはいられない。
東洋紡のこの形の壁は戦前からの物と言われており、機銃掃射や模擬原爆投下の時もここにあったのだろう。
戦災の展示にて「模擬原爆の実寸」
7月15日に行われた戦災の展示では、図で書いた模擬原爆の実寸が展示されていた。
周りの人や椅子机と比べるとよくわかる。
敦賀に落とされた模擬原爆は、翌日8月9日に長崎へ落とされた「ファットマン」の模擬原爆である。
模擬という。練習のために人を殺すか。
不発弾
戦災誌掲載分。
昭和20年11月 常宮 手榴弾 1名即死
昭和20年11月 松島 手榴弾 1名軽傷
昭和20年12月 松島 小銃弾 1名負傷
昭和21年7月 駅前 大型焼夷弾 1名死亡 2名重傷 3名軽傷
昭和22年5月 赤崎海岸 手榴弾 2名死亡 4名軽傷
以降も被害は増え続けた。
伝え続けなければいけない事
こういう戦災について語ると、いかにも「被害者をアピールしている」というような目で見られ、ひょっとするとアメリカから見れば「Pearl Harbor」といわれ、中国や朝鮮からすると「自業自得」とも思われているのかもしれない。
しかし、日本が「戦災」を伝えるのは、「被害者面」するためでもなければ「同情」が欲しいからというわけでもなく「賠償を出せ」というわけでもない。他の国や一部の人たちはそこを勘違いしている。
よく「戦争の悲惨さ」という言葉が使われる。
「日本の被害の悲惨さ」ではなく「戦争の悲惨さ」。
こうして戦災やその記録、口伝を残していくのは、「戦争とはこういう物だ」ということを日本を含めた全世界に向けて示すためなのだ。
「私たちは被害者だ」ということを示すためでも、訴えるためでもない。
「戦争をすればこうなる」という見せつけるため。
そこを見誤ってはならない。
伝え続ける難しさ
専安寺さんへ話を聞きに行った時、やはり直接話を聞くことは難しいということをおっしゃっていた。現在の専安寺さんのお寺の方も、空襲の経験者からお話を聞こうという時があったようだが、
「思い出すのも怖い」
と言われたことも多くあり、ほとんどの方がそういわれるのだそうだ。
戦災誌を読んでいるだけでもかなりつらい気分になる戦争体験談。それを口にして話すというのは更につらいものであると思う。それこそ自分の子や孫くらいにしか話さない人も多いのではないかと。
私も小さいころよく聞かされていたが、その時は「またこの話か」と思いながら聞いていた。しかしその体験を言葉にするというのがどれほどしんどいものだったか。もう直接話を聞ける機会なんてほとんどない。でももし今からそういう場面に出会ったら、心して聞かなければいけないと思うのだった。
専安寺に残る話
専安寺さんに許可をもらい撮影掲載。
専安寺の当時の住職岸本さんが、アメリカ捕虜の世話係をやっており、捕虜を手厚く世話していたという。その扱いに対し不満を持った憲兵にぶたれることもあったと。また、専安寺さんの話では、アメリカ兵が日本兵にぶたれているとき、岸本さんがそれをとめた。そういうことがあり、上の新聞である。戦後アメリカ兵から感謝されたという。1945年10月12日新聞の掲載の最後にはこのようなことが書かれている。
「岸本さんは若狭湾の空襲の処理で不眠不休の対応を続け、ついに8月24日の夜に倒れ安静にしていた。アメリカ兵数人がそのことを聞き、翌朝に見舞いに行き、『肉スープを飲め、チキンを食え、コンビーフ食えるか、チョコレートは好きか、チューインガム噛むか』と気を遣っていたと。また菓子などを持ち込んで『日本敦賀ナンバーワンのお友達岸本さんの病気を見舞いに来た』と親切に診断し、米国製の薬を送り、九月十日敦賀退去時には岸本さんの体調を気に掛ける手紙を送った。」
さらに1946年10月11日の新聞には以下のようなことが書かれている。
「戦後に氏の誠実さが米軍の間でも話題になり、収容されていた有志の人が日本を去る時、軍曹・大尉・海兵隊員他十名署名した感謝状と紹介依頼状が、ハイランド中佐から岸本氏に贈られた。その影響で米軍の残していった米38俵を岸本氏に贈るという相談を受けた際、岸本氏はこれを断り「気の毒な人々に施米してはどうか」とした。」紹介状には感謝と併せて「彼は体が弱いから苦しい仕事をさせないようお願いする」という内容を載せている。」
備考
参考文献
『敦賀空襲・戦災誌』
『敦賀市戦災復興史』
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
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