福井県美浜町。敦賀からの金ヶ崎の退き口や若狭武田の粟屋勝久、朝倉の戦でも知られ、連郭曲輪群や無数の石仏、当時の戦の痕跡なども見ることができる山城です。
登山並みの道を行き、所要時間と現在の様子を見ていきます。
国吉城へ登る
福井県美浜町佐柿に国吉城があります。近年話題となっています。
今回、そこを登ります。
ただし、登らなければ山城を体験できないのかというとそうでもなく、ちゃんと麓に「若狭国吉城歴史資料館」があり、この資料館で充実した内容を見ることができます。むしろほとんどの人が登らずしてここで終わらせるのではないでしょうか。
なぜかというと、登るとしたら本当に登山並みの道だからです。普段着で登る人はごくわずかでしょう。
資料館・登り口には広い駐車場もあります。資料館と麓の史跡を見るだけでも十分ですので是非来てみてください。今回の記事では上まで登ります。2023年の様子をお届けします。あと、ちょっとした小話もします。
歴史などは他の方が詳しく書いていると思うので、そちらで確認してもらったほうがいいでしょう。
簡単な歴史
登る前に、やはり簡単にくらいは歴史をおさらいしておきたいので先に記しておきます。
参考は『三方郡誌』『山々のルーツ』からです。
城情報(他築城と城主)
名称:国吉城
別名:投げ石城
標高:197m
天文弘治の時代に若狭武田氏家臣粟屋越中守勝久が築き「国吉」と名付ける。
(往古ここに城がありそれを再興したと。「国吉」の名もその旧名。一説に往古の城を作ったのが「国吉」という名前の者だったとも)
元の城を活用して80日間で再興し造ったという。
戦
永禄六年以降、朝倉氏の侵攻に遭う。永禄九年には朝倉義景が武田氏への攻撃の第一撃として国吉城を攻撃。籠城戦。二百人の侍・六百人の百姓共に籠城し、各々大石大木弓矢を山上から落としてゆき、朝倉軍人馬谷底へ落ちる。
その後朝倉方は周辺徘徊・攻撃を継続。
永禄九年に再び国吉城攻撃。同じように大石大木弓矢鉄砲の上からの攻撃により堅守。
その後も徘徊攻撃は永禄十二年までの七年間続くも国吉城は落ちなかった。
金ヶ崎の退き口と2度の朝倉攻め
永禄十三年・元亀元年(1570)に織田徳川連合軍(信長・秀吉・家康他 明智光秀・松永久秀・池田勝正等)が1度目の朝倉攻めを決行(若狭の武藤氏が朝倉と内通したという理由で)。熊川から入り若狭を通って国吉城へ入った。その後越前へ進軍。朝倉の山城金ヶ崎は簡単に落ちた(南北朝時代の山城のままだったからとも。おかげで昔の古墳が残っていたとか)。途中近江浅井の裏切りにより朝倉と浅井の挟み撃ちの構図となる。織田徳川連合軍は若狭方面へ撤退(信長が真っ先に単独で逃げたらしい)。これが「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)」。途中黒浜(美浜の佐田)で交戦。その後連合軍は国吉城へ入り。朝倉の追撃をかわした。
2度目の朝倉攻めは天正元年(1573)。前年の仇討ちとばかり攻撃し、朝倉滅亡。
歴代城主と廃城へ
粟屋氏の後は、木村常隆介定光・堀尾茂助・江口三郎左衛門・浅野平右衛門・松平三左衛門・多賀越中守を城主になり、慶長十四年に廃城となる。
といった感じの経歴があります。
さて後は登る様子や上の見どころを見ていきます。
国吉城麓の様子
現地の登山をする必要がない集落部分をまず見て行こうと思います。
佐柿の丹後街道から国吉城までの道
丹後街道が佐柿内に通っており、クランクになっている部分から国吉城に続く道が伸びています。その分岐点には上のような案内板と道しるべがあります。
集落内にあるので、これを見つけるのも迷うかもしれません。
高札場跡
高札場とは、掟やその地域の決まり事などを掲げた場所です。国吉城への道にあります。
ここの道は集落の道らしく結構狭いです。
国吉城
では登ってゆきます。
国吉城の地形図
現地の資料館前には国吉城の地形図があります。特徴的な連郭曲輪群の様子も見られるので見ておく方がいいです。
石仏
これは、駐車場の少し上の方にあります。
説明板もあります。
先ほどの歴史を少し説明したときに、「百姓が共に戦った」ということを言いましたが、そうした百姓たちが戦の時城にこういった石仏を持って上がって、敵が来たら上から投げて攻撃したものだそうです。また石垣にも使われていたとか。国吉城にはこうした石仏がそこら中にあり、戦の当時を偲ばせる遺産となっています。
写真にあるのは、そういった石仏を一部回収して寺で供養し、かためて置いているのだそうです。
麓の屋敷跡
登り口付近には屋敷跡が多くあります。そして写真のような説明板や案内が乱立する場所があります。ここにも地形図がありますね。
観光地らしくていいと思います。
城主居館跡らしいです。
通常はここに住んでいたんですね。
国吉城獣除けゲート
屋敷跡の道を奥に進むと、木々が茂る中獣除けのゲートが出現し、おどろおどろしい注意書きが貼りめぐらされています。
熊が出ることでも有名な国吉城ですので、それなりの覚悟はしておかねばなりません。
できることなら二人以上できた方がいいです。また、人が多くなってから来た方がいいですね。
私は今回一人で誰もいない早朝に来ましたので死ぬ覚悟はできている。
ゲートをくぐった時間は7:05。
国吉城登山道中
てなわけで入ってきました。
テレビでも言っていましたが、国吉城までの道はきつく険しいものです。今でこそ登山道の階段が整備されていますが、昔はそんなものなかったでしょうしどれほどきつかったことか。
今の登山道でも斜面は急です。
何度も折り返しながら登っていきます。写真からでもわかると思いますこの急さ。
それでいて野生動物の警戒もしなければならないので、確かにそうお手軽に行ける場所ではないかもしれませんね。
その登山道中にも石は結構落ちています。大石もありますし、手で持てるくらいの石もたくさん落ちています。
こういった石は『山々のルーツ』で述べていることがあります。
猛攻してくる朝倉勢に向かって、弓矢・鉄砲・岩石、丸太などを投げ落として奇襲奮戦、このために朝倉方では多くの死傷者が続出し態勢が崩れ、退却を余儀なくされたという。この時に投げたとみられる岩石類が、城跡や付近の谷に転がっており、当時の戦況のすさまじかったことが想像される。
引用:『山々のルーツ』
今は佐柿側なので、その投石したものではないとは思いますが、それに使われる石だった可能性はあります。そう思うとロマンがありますね。
二の丸分岐と木の傷
しばらく登ると旗がなびく場所に来ました。そして道しるべがあります。どうやら登ってきた正面左が二の丸、右の道なりが本丸への道のようです。
ここまでで時間は7:15。そんなにかかってませんね。
いやそれよりも気になったのは…
近くの木にやたらと傷がついていることです。人間のいたずらの可能性もありますが、そうでないなら野生動物の痕ですね。
規則的に並んでいる傷はクマの爪とぎ。不規則に乱れた傷は鹿などの角とぎの傷らしいです。
まあそんな新しいものでもないので今はいいとしましょう。
二の丸
というわけでそんなに進まないくらいで二の丸を見ることができます。
土塁の表示があります。その先にこんもりした山がありますね。趣があって良いです。
さらに向こうへ。その先には少し広い平地があっただけなので振り返って先ほどの山を見ます。在りし日の面影、ですね。
本丸道中
さて先ほどの道に戻って本丸を目指すとします。
道中には先ほど言っていた石仏や石塔の形が彫られた信仰的な石が転がっています。
こういうのは触れてはいけません。そう書いてありました。
石垣
石垣が出てきました。説明板もあっていいですね。
本丸道中2
結構登って来ていたようで、もう尾根につきそうです。この辺りまで来ると、城の形が分かりやすくなってきます。
連郭曲輪群分岐
道しるべが現れました。左が連郭曲輪群、右が本丸のようです。
まずは連郭曲輪群を見ておきましょうか。
連郭曲輪群
広く見晴らしの良い場所です。ここは連郭曲輪群の頂上に位置する場所ですね。向こうには海が見えます。
ここまでで時間は7:25。
写真を撮りながらでも麓から20分くらいで連郭曲輪群につくのですね。少し早足だったかな?
とにかく、この広場の先端に行ってみましょう。
わかるでしょうか。段になっています。杭の刺さっている所で斜面になって一段下がり、更に一番奥に見える木の幹でまた一段下がっています。頂上をあわせると3段分の連郭曲輪を体感することができるのですね。
ちなみにこの連郭曲輪群。草木が少ない時期だと麓からも見ることができました。
集落から見た連郭曲輪群です。段になっているのがわかりますね。夏だと葉が茂って見えないかもしれませんが、冬から春先だとしたからでもわかるかもしれません。
古戦場
この連郭曲輪群頂上からの眺めは、戦国時代当時の様子に思いを馳せることができます。
手前の水田地帯はかつて機織り池と呼ばれた大きな池があった場所のようです。国吉城現役時代にもあったとされ、近年の土地改良まではあったらしいですが今はその面影は水田のみとなっています。この機織り池も守りの要だったのかもしれませんね。
一つ小山を越えて向こうに見える平地が佐田の浜。つまり黒浜です。金ヶ崎の退き口の際に、秀吉と家康が共に朝倉勢と戦った場所です。家康が援軍したらしいです。
そんな戦国時代に想い馳せ先に進みましょう。
分岐点の堀切と石仏
先ほどの連郭曲輪群分岐点に堀切がありました。そこには石仏もあります。
こういったものが多くなってきていよいよ見ごたえが出てきます。
石積み
これは…、なんですかね。謎の石積みです。
当時の石垣ではないでしょうし、誰かが積んだのかな?
本丸北西虎口跡
いよいよ本丸です。
虎口という場所がここのようです。
道中石仏や石塔が多く転がっていました。
五輪塔を刻んだ石というのはおもしろいなぁと思いました。今でも集落にあるにはあります。
こういうのも全部戦の為に持ってきたのですね。
国吉城頂上本丸
というわけで本丸につきました。かなり広い場所となっています。
時間は7:30過ぎ。
所要時間は、史跡を簡単に見ていくだけだと、麓から30分前後で山頂本丸まで来ることができるようです。
『山々のルーツ』によると、本丸は上下二段に分かれ、広さ300㎡あるといいます。
ここにも説明板と地形図があります。地形図推しですね。
国吉城の石碑とまたもや石仏群。もはや国吉城の名物です。石碑は見えにくいですが、「国吉城跡」と刻まれているようです。
三角点があります。好きな人は好きなやつです。
眺めは最高ですね。
美浜の中心地側(西側)です。美浜駅が見えます。見えると言っても大体あそこかな程度ですが。
丹後街道を見渡せるこの場所は、良いところですね。いまでも国道27号線と小浜線を望むので、交通を監視するにも良い場所だなぁと思いました。
向こうには土井山があります。土井山砦ですね。
御岳山…。そう。わたしは今から御岳山に行くのです(唐突)
元々そのつもりでした。ここから行くのですね。続きます。
とりあえず一旦しめます。
戦国の城を体感
まさに戦国時代絶頂期の山城、難攻不落の国吉城。
当時を偲ばせるものが多く残っているこの城は、城好きにも、戦国時代好きにもたまらない城跡なのではないかと思います。
立派な石垣が残っているわけではないですが、当時の雰囲気や景色に思いを巡らせながら浸りたい方はおすすめです。三英傑もそろった場所ですから。
参考資料
『三方郡誌』
『山々のルーツ』
基本情報
※情報は麓駐車場まで
最寄り駅 | JR小浜線美浜駅から徒歩35分 |
自動車 | 若狭美浜ICから5分 |
駐車場 | 少なくとも20台以上は可能 |
トイレ | 不明。資料館内にあるか。開館前では見つからず。 |
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