社会人という暗黒の住民として生きていく中で、「仕事ができる人」と「仕事ができない人」という二つの種類の人間がいますよね。
この仕事が「できる」「できない」については、気になる方はたくさんいると思います。
「あの人は仕事ができない人だ。」とか、「自分は仕事ができる人間になりたい。」とか、すごく気にする課題だと思います。
ただ、仕事が「できる」「できない」というのは、何をもっていっているのか。
というかまず、「仕事ができる人」と「仕事ができない人」とはいったい何なのか。何が違うのか。その差は何なのか。
これについては私は、私の中で答えにたどり着きました。
個人の意見であり個人の着地点なので、これが絶対というわけではありません。
ですから、こういう考え方もあるんだな程度で見ていただけると幸いです。
仕事が「できる」「できない」
たった一つだけの違い
仕事ができる人と出来ない人に違いにいくつもありません。
10選とか5選とかそんなに多く違いはないのです。
じゃあ何が違うのか。私が思うにその違いは、
仕事を「振る」か「振らない」か。
もっと極端に言えば、
「自分でする」か「他人にやらせるか」
だと思うのです。
「自分は必死に仕事をしているのに、なぜやらないあいつが評価されるんだ」というのはこれなのです。
部下が頑張ったのに、上司の手柄にされるのもこれです。
仕事ができる人というのは、仕事を「自分でやらず」に「周りの人間に振りまくる」人のことを言うのです。
ひとりでやるより複数人でやった方が早いというのは当たり前ですし、他の人に振ってしまえばその人はもっと有益なことができる状況になります。あと、めちゃくちゃ余裕に見えます。
必死に一人で仕事をやって遅く終わらせるより、他人に振りまくってめちゃくちゃ余裕な顔して仕事を早く終わらせる方が「仕事のできる人だぁ・・・」って思われるのです。
所詮「成果」とは「結果」です。
それに方法や過程なんてものは、一番上の人やプロジェクト外の外部からしたら本当にどうでもいいんです。
(某奇妙な冒険ではないですが・・・)
上の人間や外部の人は「結果」だけを求めます。
下の人間は「過程」を大切にします。
そして、仕事ができると評価される人は、上や部外者の求める「結果」さえあればいいということに気づきます。それで、仕事を振りまくるようになるのです。
残酷ですが、これは団体社会の心理なのです。
そして、その仕事を振るか振らないかにはもう一つ厄介なものがあります、「仕事を振る勇気」です。
仕事を振る勇気
これって本当に、酷いもので。
中には、他人のことなんてどうでもいい、他人の気持ちなんて気にしない「かまわない人」っていますよね。
まさにそういう人ほど「仕事ができる」「評価される人」になってくるのです。
なぜなら、相手に仕事を振る、仕事を頼むことに何のためらいもないからです。
これによって、他人の事情なんて構わずに平気で仕事を振ることができるんです。
こういう人は、後輩や部下同僚からは嫌われることが多いですが、上の人や外部の人からはすごい評価されます。
しかし、逆に「他人を気遣う人」「他人の事情を考えてしまう人」という人は、仕事を振るという行為にためらいを持ってしまいます。
単純にコミュ障という人も仕事を振ることができません。
これに関しては克服するしかないとしか言えないでしょう・・・。
それが「もの凄い苦だ」という人もいると思います。
そういう人は、無理に「仕事のできる人」になる必要はないのではないかと思うのです。
人間に限らず、得意不得意なんてものは万物全てが持っているものです。
無理に自分の不得意な分野を克服しようなんて思わずに、そのくらいなら自分の得意なことに専念して極めた方が有意義だと思うのです。
だいたい、「仕事ができる人」になる必要はあるのでしょうか。
「仕事ができる人になりたい」と思うのは、「その会社で認められたい」つまり、「昇進したい」ということ?
「仕事ができる人」になりたい理由は
「仕事ができる人になりたい」と思うのは、「その会社で昇進したい」ということになるんではないでしょうか。
しかし、「昇進したい」と思っている現代人はどのくらいいるんでしょうか。
「別に昇進は目指していないけど・・・」
「この会社に一生いるつもりはないし・・・」
という人が現代は多いのではないでしょうか。
(勿論昇進したいと思っている人もたくさんいると思います。そういう方は、素晴らしい志だと思います。自分は昇進なんて目指してないので、それが目指せる方は本気で尊敬します。)
その会社内で昇進を目指していない人が、「昇進する人間」=「仕事ができる人間」になる必要はないと思います。
その会社内で昇進をしたところで、会社内だけの評価(成果)にはなるでしょうが、会社から出ればそんなものどうでもいいものです。(終身雇用目指してる方は別ですが・・・)
会社に尽くす、会社で生きると考えをはじめから持っていないならば、「仕事ができる人」を目指すのではなく、「何かを特化してできる人」を目指す方が絶対にいいのです。
会社に居続ける気持ちがないのに、「仕事ができる人」になるために「仕事を振る」事だけ覚えても、その後の役には立たないでしょう。無駄な時間です。
それでも大半の人は、一度は社会に出る、つまりは会社という組織に入ることになるでしょう。
日本は学校でそういう教育をしていますからね・・・。
そこで、立ちはだかる壁が「新人の壁」です。
新人の受難
新人って、絶対に責められます。
どう責められるかって、
「そんなこともできないのか」
「仕事のできないやつだ」
と責められるのです。
しかしですね、今までこの記事で語ってきたことを踏まえると、こんな心無い責めには全く動じる必要なんてないと思うのです。(建設で働いてた時、私は思いっきり落ち込んでいましたけどね)
「仕事ができない」というのはつまり、他人に仕事を振ることができない人です。
こう考えると、「新人」の人が仕事ができないのは当然のことです。世界の理なのです。
新人さんが入ったとき、よく聞くのが
「今年の新人は仕事ができない」
という言葉。
学校の部活動でもないですか?新しい一年生が入ってきてほんの数日経過したくらいの時に、
三年生が「今の一年より、おまえら(現二年生)が一年の時の方がマシだったわ。」
と言うやつ。
(もうこの泥沼社会は学校生活の時点で始まっていたのです・・・)
新人が仕事ができるはずないのです。
なぜなら仕事を振れる人がいないから。
そして後輩が入ってきたり、部下ができた時にやっと仕事を振ることができて、「仕事ができる人」になるチャンスがやってくるわけです。
そこで、仕事を「振れる人」と「振れない人」が分けられて、それに応じた評価がなされるわけです。
その組織で「上を目指そう」という人は、仕事を振れる人(仕事ができる人)になれるよう頑張らなくてはならないし、「一生いるわけじゃないから上は目指そうとは思わない」人は無理に仕事のできる人になろうと躍起にならなくても、自分の得意分野を特化して伸ばそう、自分でやって将来のためにこれを覚えようとすればいいのです。
例外(論外)の環境
最悪な環境もあります。
いくら仕事ができる人間だとしても、仕事のできる人間になりたい人でも、それができない、そういった人たちを潰していく環境もあります。
一人部署とか、いくら言っても何もしてくれない部下、上司。ひどい人たちばかりの環境。
求められる仕事に、求める環境がない場合。そんな環境でできることはただ一つ。
その環境から脱することです。
そんな組織で「仕事ができる人」「昇進する人」になる必要はないでしょう。
まとめ
というわけで、今回は仕事ができない人とできる人の違いと、その必要性について語りました。
あくまでも個人が行きついた結論ですが、悩んでいる人がいれば、「こんな考え方もあるのか…」くらいに参考にしていただければと思います。
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