福井県越前市武生内にいくつか天保飢饉餓死者供養墓があり、中には悲惨な伝承も伝えられている場所もあります。
飢饉救済の飛騨郡代大井帯刀永昌と本保の武生市本保町天保救荒碑、かつて餓死者を埋めたという称名寺裏や供養塔の立つ信越化学工場沿いの碑を見ていきます。
武生の「天保の飢饉」
『武生市史 概説編』によると、天保の大飢饉が起こったのは、七代府中領主本多副昌の時。天保七、八年が最もひどく、七年は土用になっても実らず、晩稲でも三分作、米は高くなり、十月頃から乞食が町内に来て門の口を去らず、仕方なくものを与えると大勢集まって来る。町方は藩の助成を受け陽願寺、引接寺、村国河原で焚き出しをしたが人が多すぎる。十二月ごろになると毎日のようにどこからか人が来て家の軒下や寺社の門前に毎日死人がいる。松の皮のいりこ、もみがらのいりこ、豆がらのいりこすらも食べつくした。死人の片づけは大山町の称名寺裏に二間四方の穴を掘って埋めたが三つ半も掘って、記録では病人・餓死人が府中でおよそ三、四千人と記されるという。天保元年にも飢饉があった。
また天明四年にも飢饉があり、その時は庶民は松の木の皮いりこ、藁いりこなどを食べ、府中本多領主も粥をたいて乞食に与えたという。毎日乞食は町で死ぬので、本興寺や光善寺で葬式をしていったが初めの頃遭ったお布施も無くなり死人を桶に入れて葬った。その上疫病が流行ったので薬も食べ物もないありさまだったという。
『武生市史 概説編』には『天保飢饉録』の内容がいくつか載っています。
- 府中はわけて疫病流行し、死人おびただしく、焼場に一日二十人位葬るも、余りの死人で三日か五日目でなければ葬ることができない。自分も五月中旬府中町へ行ったが、この時は河濯道へ廻ったのであるが、この辺は商するものは少なく表を締め、家の中には二、三人も病人がいるらしくうめいていた。中には老人と見え、殺してくれと呼ばっていた。表に寝ているものがそれに答えて「どうして親が殺されるか」もと申していた。
- 表通りを通ったところ、家々は死人で、その親類まで表に暖簾をかけてあるので祭礼のように見えた。乞食の泣声は家毎に響き、どうなることかと魂も消え入るばかりで、こうして秋になると凡そ家数七百軒ばかり空家となってしまった。
などの内容を見ることができます。
供養塔
称名寺裏の供養塔
(前略)
大山町の称名寺裏に飢饉供養塔があり、武生市の法中による供養が毎年、盆には行われるそうであるが、ここには餓死した父親の太ももの肉をその子が食ったという話が伝えられているそうである。『天保飢饉録』によると、ここには方二間ばかりの穴を掘って、一つ穴に三、四百人ばかりを埋めた穴が三つ半にも及んだというから、ここだけでも数千の幽魂が眠っていることになる。
『宮崎村誌』
大山町称名寺裏に餓死者を葬るため二間四方の大きな穴を掘って、三、四百人ばかりを埋めた。この穴は十二月から翌八年八月までに三つ半も掘られた。俗称「こじきざんまい」といっているところである。
『武生市史 概説編』
また、『たけふ今昔アラカルト』では、「大門河原の乞食三昧」と記されています。
写真右奥が称名寺。今は住宅が密集している地域です。供養塔も新しく建て替えられているようです。
信越化学工場沿いの巨大な供養塔
信越化学沿いの道を通っていると、大きな供養塔が立っています。
南無妙法蓮華経とかかれた大きな供養塔。
後ろには天保と書かれ、年季の入った卒塔婆も建てられています。
かすかに天保6年とも見えるので、天保元年の飢饉の物なのか。
飢饉救済「大井帯刀と天保救荒碑」
天保の飢饉の救済に身を投じた人がいます。それが飛騨郡代大井帯刀永昌。
天保七年の慣例で検見のために本保陣屋まで来ていました。そこで凶作を目にしたといいます。この人は「ここに良い田がございます」と進言された時、「拙者は悪い田を見に来たのだ、良い田は格別見る必要はない」といったとされ、農民はその本心に触れ嬉し涙を浮かべ後ろ姿を伏拝したという話も伝わっているそうです。
鋳物師の文書には御検見をお願いするのを遅れたが、御慈悲で六カ村とも御検見になり御手当米まで賜ったとされています。このように大井帯刀は備荒用の囲籾を売ってその金を村々へ貸し与えたとされます。資材も出し、金持ちからの寄付金も募り、それらも救済金として用いました。幕府直轄領の村々はこうして救われていきました。
その他、貯稗拝借として一軒に五升あて家並に渡し、困窮者には一人に八升ずつ渡したとも。
これもまだ一端であると記されています。郡代の権限を越え死罪でもおかしくないことをやってまで救済したとして本保領民は大井帯刀を生神様としてあがめたといいます。
同八年天保救荒碑が本保に建立されました。
天保救荒碑は今も残っており、目にすることができます。県道二十八号線の騒々しい場所に今はあります。
碑文は、『武生市史 概説編』によると、
丹生・南条・今立・大野など百七十五カ村を検見し、苦しい状況を見、聞き、これを書記して貢物をゆるし、殊に貧しい者には銭を与え、飛騨へも帰らず救済したため、妻子にいたるまで御仁恵を永く忘れぬため、ここに碑を建立したとしるされているといいます。
大井帯刀はその後幕府からの追及もなく、天保十年には江戸西の丸留守居役となったといいます。その後本保町では毎年一月十五日に大井祭を行っているといいます。
説明板も建てられており、さらに記念碑も立て加えられており、175年祭記念まで来ているようですね。郷土史にもあった通り、今でもその「大井祭」は伝わっているようです。
その他地域では余田では千手観音を祀りこれを「大井観音」といっているといいます。上真柄には「大井永昌君報恩碑」があります。
こうして救世主として、その功績をたたえられているのですね。
飢饉という苦しい記録と、それを救った人物の記録。
それらを語り継ぐ場所が今もこの武生には残り続けています。
基本情報
称名寺裏供養塔
最寄り駅 | 武生駅から徒歩14分 |
自動車 | 武生ICから10分。道幅が狭く自動車では行かない方がいいです |
駐車場 | なし |
天保救荒碑
最寄り駅 | 福武線スポーツ公園から徒歩15分 |
自動車 | 武生ICから11分 |
駐車場 | なし |
参考文献
『武生市史 概説編』
『宮崎村誌』
『たけふ今昔アラカルト』
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