福井県鯖江市中河地区舟枝に親鸞聖人旧跡である三度栗という場所があります。
三栗島ともいい、石碑なども立っている。この地に伝わる伝承を掲載します。朝倉義景が落馬したという伝説もある場所です。
地理
鯖江の中心を縦に貫く市街地の東側。田園が目立つ土地にあります。
三度栗の史跡自体は田に囲われてはいるものの集落の中にあるといった史跡。
福井の古道といえば北陸街道が有名ですが、親鸞聖人や朝倉義景に関係する史跡であるということは昔はこの集落にも主要道が通っていたのでしょう。いまでは高速道路や整備された田園河川によってその面影はなくなっています。
三度栗の伝説
親鸞の伝説
昔、親鸞聖人が当地方を通過せられた時、舟枝のある家に小憩せられて、説法せられたが、唯も信ずる者がいなかった。その時に茶受けに出した栗を庭前に植えられ、若し此の實が発芽して年に三度實を結んだならば、私の説法に嘘はないというて立ち去られた。その後聖人の予言の通り、発芽成木して今に至るまで、年に三度結實すると言うので、三度栗(俗に三栗島又はメクラジマ)と称して評判である。近年福井県にて天然記念物に指定した。
引用:『福井県の伝説』
この伝説は『越前若狭の伝説』にも参照とされている話です。
『中河地区史』には『親鸞聖人御旧跡三度栗縁起』の内容が載せられており、それによると、立光寺が親鸞聖人旧跡であるといいます。親鸞聖人は承元元年二月念仏禁止により越後に流罪となり、三月十四日ごろに舟枝を通過したそうです。その時に伝説にあった通り、民家で休息した際に念仏往生について説き、民家の主人が出した番茶と焼き栗を召し上がり、その一つを畑に埋めたといいます。その三年後に花が咲きました。ここから少し伝説と違ってきます。なので引用します。
やがて聖人の予言通り焼き栗は発芽し三年後に見事な花が咲いた。しかし年に三度も花が咲き実がなるので、驚いた主人は国府の聖人を訪ねその様子を話すと、少しも驚かれた風もなく、年ごろに念仏の教えを説かれた。主人はありがたさのあまりに弟子となり、立光と法名を賜り帰国した。そしてすぐに我が家を道場に改め、戴いた名号を本尊として栗の木を守り近所の人たちとお念仏を喜び、生涯を終えられた。この立光坊が立光寺の開基である。
引用:『中河地区史』
その後寛政元年に大火で焼失したものの現在の地に移し今に至るということです。
現在は地区内の道路わきに垣に囲まれてその旧跡を伝えています。
多少伝説の内容が違うのはいつものことなので、それはそれとして楽しんでおきましょう。
親鸞聖人像は正面を向いています。
朝倉義景の伝説
三度栗の域内に奉安の白山大権現がある。朝倉義景が一乗谷の居城から、乗馬でこの地を通った時、三度栗の霊域で落馬し、驚いて不敬を奉謝し、将来通行の人に無礼の無い様にと、今まで東向きであったのを西向きに遷座したとの事である。
引用:『福井県の伝説』
この伝説も『越前若狭の伝説』にも参照とされている話です。
村の神社は白山神社ですが、三度栗とは違う場所にあります。その白山神社のことを言っているのか、それとも今はなくなっている祠のようなものがあったのかは不明です。
状態と石碑について
『中河地区史』によると、
管理は立光寺、石碑は凝灰岩。
碑文
末代往生之印爾 世呼日三度栗 来由其如別録
(前)親鸞聖人焼栗之御舊跡
(左)元禄十三庚辰夏三栗山立光寺釋知三代建之
碑石寄進 當所幸七
ただし現在、現地にそれらしい日は見当たらず。
ただしなぞの祠がありました。
その祠の横の一文に
昭和六年十一月改修ヲ思ヒタチ善男善女ノ浄財ノ懇志ト居村門徒ノ二百余口ノ労役ヲ得テ昭和七年六月工成ル
立光寺住職 栗山宏円
と書かれており、石碑のものとは違うようですが、その都市に改修が行われたという歴史を知る重要な石碑となっています。
霊域にて
時代は流れ、主要道路でなくなった舟枝ですが、その名残は霊域を残して今に歴史を伝えています。
その霊域も時の流れで周りの状況も変わる中で改修工事も行われ、姿を変えていますが、それでもなお残り続ける。
まさに霊域です。
参考文献
『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』
『中河地区史』
基本情報
最寄り駅 | 北鯖江駅から徒歩26分 |
自動車 | 鯖江ICから3分 |
駐車場 | なし |
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