福井県敦賀市大蔵に大椋神社という神社があります。
読み方は「おおくら」神社。敦賀でもかなり重要な神社であり、敦賀郡四方鎮護の社でもあります。
地域に伝わるムカデの伝説もあり、神の使いとされています。この地域でいかに大切にされているかわかります。また境内には防空壕が存在します。
今回はそんな大椋神社を取り上げます。
地理

大椋神社は国道476号線沿いにあり、北陸本線現ハピライン線沿いでもあります。
山のふもとにあり、大蔵集落の入り口にあたる位置でもあります。
敦賀の町からははずれにあり、東方に鎮座する神社となっています。ただし敦賀駅からは徒歩でこれなくはない距離にあるので、訪問も難しくはありません。
由緒・御祭神
祭神:天手力雄命
別名:天(雨)宮・岩戸別宮と尊称。(雨の宮・岩戸別の宮)
『特選神名牒』では祭神を天岩戸別命とする。
『延喜神名式』に記載され官社に比定される。
『日本三代実録』元慶四年(880)九月十七日条に、神階(正四位下)昇叙のことが見える。
『気比宮社記』には敦賀郡四方鎮護の社とある。
明治十一年八月二日に村社となる。
参考:『御大典記念福井県神社誌』
往時より夙に國史に載せられ、皇室の御崇敬も厚き、名社なりと伝ふ。
引用:『福井県神社誌』
『敦賀郡誌』には、別名に関して、
もとは雨の宮、又は岩戸別神社と称す。
引用:『敦賀郡誌』
としています。
- 尊称
- 元の名前
以上の二つのパターンで語られています。
『敦賀郡神社誌』によると、気比宮社記には「東方鎮守社」として「天磐開神社」と載っているといい、敦賀郡四方鎮護のうちの東方社であるということが書かれています。
『日本三代実録』に関しては、『敦賀市通史』によると、「元慶四年九月十七日授越前国従四位上大椋神社正四位下」というのが書かれていると言います。
ただし『敦賀志』には、
大椋神社(大蔵村に坐す。文徳天皇貞観四年(862)九月十七日戊辰、越前国従四位上大椋神に正四位下を授く)
引用:『敦賀志一』
三代実録に曰く、「陽成天皇、元慶四年(880)秋九月十七日、越前国従四位上大椋神ニ正四位下ヲ授け奉る」(是、当郡東方鎮護の御社也)。
引用:『敦賀志三』
と書かれており、
- 元慶四年(880)九月十七日
- 貞観四年(862)九月十七日
と郷土史で年の違いがありました。ただ、月日は同じ。年が間違っているようです。
「貞観四年」と書かれているのは、『敦賀志一』のみ。その他の郷土誌はすべて「元慶四年」です。そして『敦賀志三』には、上記で見た通り「元慶四年」と書かれていました。おそらくは「元慶四年」が正しいのだと思います。

標石を越えると、橋が架かって石段があります。

拝殿。

本殿。ブロックで仕切られており、神域となっています。
「御神燈」がよく目立ちます。
特殊神事あり。
百度詣りの習慣があった。起点は鳥居前。
宮講があるようで、陰暦正月・五月・九月の二十四日。各家が神社に参拝し、みそ汁に豆腐を入れた汁物を用いて、飯と膳は各自が持参するといいます。
樹木、社叢のことについても『敦賀郡神社誌』内で多く取り上げられており、いかに荘厳とする神域かが伺えます。

式内大椋神社の標石が、車窓より拝せられ
引用:『敦賀郡神社誌』
とあるように、北陸本線(現在のハピライン線)からもお互いに見ることが出来る距離にあります。
伝説
青いムカデ
青色の百足は、当社祭神の神使なりとして、決して殺さないことになっている。
引用:『敦賀郡神社誌』
青足の百足
大蔵の大椋神社の祭神は天手力雄命で、この区では青足の百足はこの祭神の神使であるとて決して殺さないことにしている。
引用:『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』にも同じ記述があり、『敦賀郡神社誌』を参考にしています。
ただし敦賀郡神社誌が「青色の百足」に対し伝説集の文献では「青足の百足」になっているのが気になりました。とても細かいですけど。
相撲の行事
陰暦九月十七日は昔時より秋祭と称え、近時は贈位祭とも称えて、御祭神の神徳を讃え奉り、区民は角力を行うこと毎年の行事であったが、近来は警察の手続面倒なりとて、角力は中絶している。然し区内にはいつも好角家が多いとのことである。
引用:『敦賀郡神社誌』
相撲も開かれていたようです。
現在は行われていないとされていますが、神社での相撲は良くあることですね。
防空壕
大椋神社の見どころの一つに、防空壕があります。

社殿の右手にあります。

妙に凝ったデザインの防空壕だなぁと思いました。人のための防空壕ではなく、御神体を守るための防空壕なのだと思っていましたが、どうやら以前福井のテレビ番組で取材がなされていたようです。
どうもこれは気比神宮の神の防空壕だそうです。東方鎮護の社であるという重要な神社に作られたということで納得がいきます。
ただ、私はてっきり大椋神社の御神体だと思っていました。

古墳と経塚

大椋神社の東側には「大椋神社経塚」2基、北側には「大椋古墳群」2基があるようです。
旧東郷村方面には平安期ごろからの経塚に関係があるが、式内大椋神社の背後の大獅子ヶ谷に一基の古墳があるが、壁土採取で破壊されて、刀の残片と土器破のみで、形式などはすべてつまびらかになしがたい現状になっている。
引用:『敦賀市通史』
歴史深き神社と言い伝え
古い文献に残るほどの神社でありながら、集落に根付く地区の神社。
ただその威厳は、郷土誌にも残されており、さらに防空壕という形でも残されています。
神の使いであるムカデは、この神社が普通の存在ではないという一つの言い伝えかもしれません。
現代の敦賀の名社たちに隠れているとも言えますが、この神社は確かにここに名社としてその歴史を刻み鎮座しています。
参考文献
『御大典記念福井県神社誌』著者福井県神社庁 出版1994.9
『福井県神社誌』著者島津盛太郎 出版昭11
『敦賀郡神社誌』著者石井左近 出版昭和8
『敦賀郡誌』著者福井県敦賀郡 出版大正4
『敦賀市通史』著者敦賀市教育委員会 出版1974
『敦賀志』著者石塚資元他 出版1977.8
『福井県の伝説』著者河合千秋 出版昭11
『越前若狭の伝説』著者杉原丈夫 出版1970
WEBサイト『福井の文化財』福井県教育庁生涯学習・文化財課
基本情報(アクセス)
最寄り駅 | 敦賀駅から徒歩25分 |
自動車 | 敦賀ICから3分 |
駐車場 | 無し |
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