昭和20年7月19日。福井市中心地がB29の投下した焼夷弾M47・M69によって焼き尽くされた。時間は午後11時24分から81分間。福井大空襲と呼ばれ、福井城お堀や足羽川、郵便局跡、各地に供養塔や石碑が建っている。
当記事では、体験談や空襲史などに書かれている体験談に出てくる場所、供養碑などを見ていく。
福井大空襲
概要
昭和20年7月19日快晴。午後十時五十五分。空襲警報発令。
警報発令とほぼ同時に、神明神社付近に火の手があがった。時間は午後十一時二十四分から午前零時四十五分までの八十一分間。
空襲目的は「鉄道センターとその周辺の工業製品、機械製品工場の機能衰弱」といわれるが、実際の爆撃地は明らかな市街地の中心地だった。
B29爆撃機127機によってM47焼夷弾、M69焼夷弾とそれを束ねたE46、953.4トンが投下された。当時の市街地、足羽川の北「橋北」は壊滅。足羽川の南「橋南」は一部難を逃れた。
罹災面積:180万坪
罹災人口:85,603名 93.2%(全国2位)
死亡者 :1,576名
重傷者 :1,210名
軽傷者 :5,209名
重傷後死亡者:108名
罹災世帯:21,992戸
写真など
『福井空襲史』にはさらに以下の写真が載っている。遺体の写真もあるので苦手な方は見る際に注意。
『福井大空襲体験画集(第三集)』にも一部載っている。
- 火をふく大和百貨店
- 夜空に全姿を現すB29
- 火の海となって燃える駅前電車通り
- ぼう然と立ち尽くす自警団員
- 電話局で殉職された方々
- お濠に浮かぶ婦人の死体
- 自宅の防空壕で孫を抱いて死ぬ
- 肉親の遺体を確認する老婆
- 収束されたままの焼夷弾
- 馬車で薪のように焼夷弾の殻を運ぶ
- 燃え落ちた福井神社の鳥居とホースを繋ぐ間もなく焼けた消防車
その他画集も掲載されている。
- 濠に浮かんでいる子どもたち
- 草むらの中にも折り重なる焼死体
- 石垣にへばりついたかたちで焼け死んだ
その他、ネット上でも見られるところがある。ただしネット上ではさすがに遺体の写真は掲載されていない。
以下いずれも『福井市郷土歴史博物館』公式ホームページ内の資料
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/gakko/for_students/air_raid_and_earthquake/airraid_damages.htm
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/koho/image/E06.pdf
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/kindai/PDF/S20.pdf
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/archives/koho/image/A03.pdf
福井城堀
壕に人がいると「そんなところにいると死んでしまう」と引っ張り出して指定の場所へ逃げた。そのうち自分が危険となり途中防空壕に避難しながら専売局そばの濠に飛び込んだ。首まで水につかった。証言者は魚釣りが好きで、お濠での釣り経験もあったので石垣の構造も知っていた。石垣は一尺ほどの石段にになっている。それを知らずに飛び込んで水死した人が何人もいたという。目の前でも2人水死した。濠には焼夷弾は落ちるし、酸素がなくなって息ができないときもあった。石垣の際にずーっと草が密集していた。それも熱気で枯れていた。喉が渇くもので、はいていた軍手を口に当てて、その濡れていた軍手の水を口で吸っていた。パーッと一帯に火の海で酸素がなくなる。息苦しいので、草の根を石垣の間から引き抜いて、その石垣の穴の中の酸素を吸って、かろうじて息をした。皆がそうしていた。それをしない人は死んだ人もいた。濠のフナがみんな死に、ヘビも何十匹か何百匹か死んでいた。太い蛇で、石垣の中にいた蛇が苦しくて出てきたか、水面もそんな状態だからすべて死んだ。お濠の水はお湯みたいで、それに火勢で二尺くらいの波を打った。
空襲がおさまってから人を探した。防空壕に5人、8人と重なって死んでいる。上から下まで白骨になっているのもあり、男女の区別がつかないものもある。身内がいるのではないかと動かしたりして見て歩いた。3日目に川に浮いているのが妻らではないかという知らせがありとんでいった。観音町のドブ川にはまっていた。娘は頬に小指のあとのような火ぶくれ、もう一人の娘も髪の毛の付け根が燃えていた。二人を抱きかかえるように妻も死んでいた。
ここでも大勢の人が死んだ。
昔は外堀もあったので、そちらの証言である可能性もある。
少なくとも今ある濠でも大勢死んだ。
石垣に張り付いたまま死んでいる様子を描いた絵もある。
まさに空気を求めたその状態のまま死んだのだろう。
石垣は当時のままだ。
県庁裏の坂道
県庁裏門の土の傾斜道に直径70センチの穴が所々あって、その中に焚火でもしたように火が燃えている。人が一人もいないのにどうしてこんなものがあるのかとその人は怪しんだが、それは焼夷弾の直撃によるものだった。
いまでも県庁裏の堀には土橋のように坂になっている所がある。
証言はここと思われる。焼夷弾で空いた穴がここに開いていたのだ。といっても空襲地一帯がそんな感じになっていたのだろう。
郵便局
二十三時五十分に初弾が命中、宿直員34名死傷なし。電話分室女子職員20名警防団員3名殉職。鉄筋コンクリート建物への過信と「通信業務死守」の命令の為。
被弾
100キロ焼夷弾1個、50キロ焼夷弾1個、大型焼夷弾14個、小型焼夷弾54個
初弾は交換室屋上に命中し、油が交換室内に流れ込んだ。救援に来た課長は直ちに交換手を退避させた。直後大型焼夷弾が屋根を貫通して落下し火の海となる。退避者は機械室、電力質、工手室で避難し、工手室避難の23名は隣の民家の炎上による煙で窒息死した。他避難者は救助された。『福井空襲史』には殉職者の役職と名前年齢が書かれている。
参考『福井空襲史』
電話局関係の話もいくつか載っている。ここにはすべては書けない。一つだけ紹介する。
血の海の土間に
当夜は娘の初子が泊まり勤務で、朝八時までの仕事でした。初子は出がけに、あしたは加賀屋座に何とかという芝居が来るので、いっしょに観に行こう、それまでに掃除をしておいてね、って言って家を出た。
空襲のあと夜があけても帰ってこない。それで私は何はおいてもと、局へかけつけた。局へ入ると土間にうつぶせになって、おりかさなって死んでいて、それを一列に並べかえているところで、十人ほど並べて、ちょうど私の娘を運んでいるところだった。土間には水と血がいっしょになってたまっており、足のくるぶしまでつかった。血の海のようだった。
死骸をもらえるやろうかと聞くと、そこにいた人があげられんという。もらえないのなら、いまのうちに家族にもいちど会わせたいと思い、家へ帰った。あとで死骸がもらえることになって、おじさんが知らせてくれた。灯明寺の実家の親が荷車をもってきて、運んでくれた。そして実家まで運んだ。私の母が間接リューマチで床についていた。初子の顔を見たいので枕元までもって来てくれと言った。とてもかなしかった。
主人は大阪へ働きに言っていたので不在だし、家には年老いた両親がいたので、私はおろおろになってしまった。
何日目かに初子を夢に見た。はかまをはいていて、「お母さんおとろしかったね。」って、言った。
人に聞いた話だが、空襲の最中に、電話局の前を通った人が、中から「キャーッ。」という悲鳴を聞いたという。とても肉親の人に聞かせられない声だったという。
引用:『福井空襲史』
供養塔
福井神社近くの堀の角あたりに順化万霊供養塔がある。福井空襲、福井地震の慰霊のためである。何度か移転しているらしい。以前は足羽山にあったとか。ただしその前は今と同じような場所にあったらしく、現在は戻ってきたことになる。
濠では多くの人が亡くなった。ここにあるのが正しいだろう。
福井神社の木
福井神社前に立つ。
説明板も設置されており、その由緒が書かれている。
空襲に遭いながらも今も生きている木である。
その近くにももう一つ木がある。
濠の石垣に立っている木。これもまた戦時、地震を乗り越えた木であるという。
銀行
福井鉄道通りにある銀行。戦災震災を乗り越えた建物である。
足羽川と足羽山
焼夷弾の炎で川は火の川となった。
足羽山も火に包まれた。
火のついた流木が流れ、焼夷弾の油で川の表面には火が付く。上に遮るものもなく焼夷弾が直撃する。川に逃げた人たちは死んでいく。
堤防には多くの防空壕が掘られていたという。
外記様町
左の大通りと足羽川との間に位置する建物が密集する地区。ここが外記様町。
冒頭の戦災慰霊碑の立っている場所である。
この外記様町が福井空襲で最も犠牲者を出した地区とされている。
ある証言者
兄弟は外記様町(現在の中央2丁目)付近から家を出る準備や腹ごしらえをした後、母らは後から出るということで先に逃げた。柴田神社前の通りから家々へ焼夷弾が落下し始めた。大きな布団をかぶって逃げたが重く自由が効かないので家から20mほどで放り出し、まだ火に包まれていない南へ折れて足羽川鉄橋へ走った。5,60m行ったところの用水(外記様町から幸橋袂へ通じる今は見えない用水)に木の橋が架かっており、その橋を渡った瞬間一帯に焼夷弾が落下し、橋も家々も一瞬で火に包まれた。その町での最後の脱出者となった。まだ残っている人たちは唯一の脱出経路を失い、用水には入ざるを得なくなりおびただしい犠牲者を出す結果となった。
必死に逃げ、製氷会社の横を抜け、足羽川鉄橋まで来て線路の土手へ登って脱出した方向を見ると、市全体が火の海と化し、福井駅ホームは炎の中に鉄骨のみを浮き上がらせていた。誰かが「鉄橋は爆撃目標で危ないぞ!」と言ったので、皆慌てて離れた。2人は荒川水門の橋を渡り、木田橋の袂から足羽川河原へ降りた。河原は避難してきた人で溢れ、川にも多くの人が入っていた。空を見上げるとB29が3,4機ずつの編隊を組み、焼夷弾を投下させている。あたかも空中で炸裂した大きな花火が、赤い筋を引きながら雨のように降り注ぐといった光景であった。彼も一度は川に入ったが、避難した人で身動きが取れず、その中で直撃を受けて声もなく沈んでいく人を間近で見て、このままではかえって危ないと川を出て再び北の堤防へ上がった。突然頭上にキーンという耳をつんざく金属音が聞こえ、反射的に堤防わきの大きな桜の木の幹のたもとに身を伏せた瞬間、焼夷弾が真横に落下し、私は気を失った。どれほどたったか、意識を回復したとき、耳から頭の隅々までジーンと鳴り続け、しばらく音が聞こえなかった。辺りは半径20メートル四方にわたり草原のあちこちが鬼火のように小さな炎を上げて燃えている。堤防の河原に転げ落ちていた。防空頭巾には焦げ跡とおびただしい油がこびりついていた。弟の声で我に返り、堤防や畑に避難しながら上流へ必死に逃げた。途中、直撃を受けて倒れてる人、負傷しうめいている人、発狂したのか視点の定まらない眼をしながら何かぶつぶつ言いつつ踊っている人など、地獄の光景だった。
出作町付近で至近距離の落下などに見舞われながら、午前二時少し前に稲津橋袂にたどり着いた。赤々と燃える福井市を見ながら母と妹の無事を祈りつつ農家の軒先で夜明けを迎えた。
東の空が白見かけたころ、母や妹を探そうと白煙を上げる福井市へ引き返した。中心部ではまだ火を噴いている鉄筋のビルなどの他は燃え尽くされ、市の端から端まで見通せる焼け野原となった。足羽川の堤防や河原、道路のあちこちに全部または一部黒焦げとなった遺体が転がり、肉親を求める人たちが右往左往しなかなか進めない。足羽川鉄橋付近までたどり着いたが、町全体の物凄い余熱で足を踏み入れられる状態ではなかった。
彼が我が家に着いたのは空襲の翌々日、21日午前。母が脱出前に漬けてあった台所用品が残っていた。焼け跡に母が消息を書き記していないか探したが見当たらない。兄弟がたたずんでいるところに伯父が来て母と妹の遺体が見つかったことを知らせてくれた。
母は家から100メートルばかり離れた外記様町を流れる用水の小さなコンクリートの橋の下に、妹の(名)を背中に負って、傷一つなく、ほんとうに眠っているのではないかと思える姿で横たわっていた。非常袋の他、貯金通帳や、わずかの株券印鑑など、我が家にとって重要と言える全て身に着けていた。きっと父の留守中家庭を守る責任感がそうさせたのに違いない。用水に5センチから深いところで20センチ程度の水があった。母の無くなった場所から幸橋詰め上流の水門に至る約50メートルの間は、足の踏み場もないほど死体が一面に横たわり、その上に用水をはさんだ両側の家から焼け落ちた黒焦げの木材などが積み重なって遺体はいずれも傷つき、目を覆いたくなるような惨状を呈していた。また、母が亡くなった場所にかかっていた小さなコンクリート橋の上には、三人の男女が直撃を受けていた。
証言の中にある用水は今はないが、おそらく暗渠となって地下を通っているものと思われる。その証拠に証言にあった通り幸橋近くに今も排水のための穴が開いている。(写真右側)
ちょうど戦災慰霊碑の下あたりに通っているらしい。多くの犠牲者を出した外記様町の用水跡の上に慰霊碑が立っているというのはなんとも感慨深いものだ。
町の中は多くの住宅や会社が軒を連ねており、保育園幼稚園などもある。
豊島公園という公園は、昔の用水があった位置にあると思われる。公園内には二つのマンホールがあった。今でもこの下に流れているようだ。先ほどの排水口へ続いているのだろうか。
空襲史の話ではこの用水に橋がいくつもあったとしている。実は国土地理院の空撮にこの橋も写っている。どれがコンクリートの橋で木の橋かまでの判別はできないが、確かにいくつか橋が架かっている。
実はビブレ中央という、柴田神社近くのマンションの近くに当時の用水の跡を思わせる地形が残っている。
この塀と、向こうのガードレール。これを境に少しだけ斜めに土地が配置されている。
そして若干の高低差もある。
この境界が用水との境界と思われる。
鉄橋もある。当時も同じようにあったのだろう。
荒川水門。
今のメインの荒川水門は、橋の向こうに見える大きな水門だが、むかしはあちら側には排水しておらず、手前の水門の経路しかなかった。こちらは今も荒川水門である。しかしほとんど水は流れていない。
荒川沿い(旭小学校・グラウンド)
女児を含む三人が片町から旭小学校前へ疎開した三日目の夜。夕飯も済み寝ようと蚊帳の中に入った直後、サイレンが鳴った。「どかん……」と大きなものが台地にたたきつけるような音で「空襲だあ!」と子供を抱えて外へ飛び出た。「ぶうーん」と何とも言えぬ不気味な爆音と「パチ、パチ、パチ」とはじけるような音と一緒に目の前が一瞬明るくなる。驚いて壕を飛び出ると真っ赤な炎をあげて燃える家。頭上すれすれに飛び交うB29の群れ。
隣の奥さんが「早く、早く、逃げないと危ない」。越してきた者は逃げ道もわからず「どこへ?」「河原へ。早く、早く」と急き立てられ言われるまま駆け出そうとした時奥さんが「布団かぶって」と。一面は昼のように明るく、屋根を貫いた火柱が真っ赤な炎をあげている。ただ人の流れに沿って走った。五か月の身重だった証言者は子どもは主人に任せ、頭から布団をかぶり逃げるだけで精いっぱいだった。
逃げる道すがら、すでに頭を直撃弾により真っ二つに割られて死んでいる人を五人、六人と見ながら走り続けた。
河原(当時の公開グラウンド)は避難民でいっぱいで、三日前から降り続いた雨で泥田のよう。履いていた靴もいつか抜けてしまった。頭上の敵機の群れは鳥の大群のよう。二十、三十個と花火のように束になって落ちてくる弾を、上を向いてあちらに避けこちらに避け逃げなくてはならない。頭上すれすれに飛ぶ飛行機の上では、あざ笑っている飛行士の眼鏡までも見えた。三十センチくらいの赤い布を弾の先につけた焼夷弾はひらひらと花火のよう。雨でぬれた草も火気で乾き燃え始める。「目標になるぞ。早く消せ」と口々に言いながら防空袋で叩いて消すのに懸命だった。それでも次から次へと落ちてくる火を消す術もない。
やがて誰からともなく次々と川へ入っていった。主人も子供を背に川へ入った。証言者も入ろうと思ったが、このままは入ったら命は助かってもお腹の子はどうなる?運を天に任せ「私はここにこうしている」とそう決意し、布団の上から川水をかけてもらい火の粉を防いだ。もう上を見る気力もない。「南無阿弥陀仏」の称名がひとりでに口を出て一心に祈った。
「助けてえー、子供が、子供が死んでしまうー」と川の中から泣き叫ぶ母と子の声。誰一人助けてあげることはできない。自分の身を守るのに精いっぱい。阿鼻叫喚、地獄とはこの事。直撃弾を受けて倒れる人の姿があちこちに。
対岸の油槽タンクに命中し、天まで届くかと思うほど高い火柱が上がる。流木は真っ赤な炎をつけてあとからあとから流れてくる。川の中も危険になり人々は岸に這い上がる。天も地も流れる水も火、火、火の海。
夜が明けるころ敵機の影は見えなくなった。ああ生きていた。息をつき辺りを見渡した。見渡す限りの焼け野原、堤防の木はすっかり焼けて、幹のみがポツンと杭のように立っている。地面からはもうもうと煙が立ち込めている。
子供を着替えさせ、実家の安否を確かめに足を運ぶ。焼けただれた地面を素足では到底歩くことはできず、主人の長靴を交代で履いて歩いた。五十メートルも歩くと耐えられない。せめて片足でもと探して見つけた草履で熱さを避けた。
(↓引用↓)
昨夜の空襲のものすごさは、想像以上のものでした。ただ一つの避難所として掘った防空壕は、何の役にも立たなかった事を、いやというほど思い知らされました。それに少しでも頼った人は、無残な焼死体となるばかりです。途みち、防空壕から逃げようとして死んだでしょう、壕の入口付近で、焼けぼっくいになった人をあちこちで見ました。
土手づたいに、被災者の群れは、続きます。口をきく人もなく、ただぼうぜんと歩いているばかりです。頭に直撃弾を受けたのでしょう、ざくろのようにまっぷたつに割れた幼児を両手に抱いて放心したように歩く母親の姿。背にぐったりと死んだわが子を背負って、オイオイ泣きながら歩く母親、親を求めて泣く幼な子。
足羽川には、焼けた木が、くすぶりながら流れていきます。空には、真夏の太陽が、昨夜の跡もとどめずギラギラと、覆うものもない被災者の頭上を照りつけます。偵察の飛行機の音にもひやりとさせられ、恐怖を覚えます。
(↑引用↑)
ようやく橋の所へ出た。道路は焼け落ちた電線で歩く道もない。仕方なく焼け木を拾ってかき分けて進んだ。実家の焼け跡についた。焼けたミシンが一台、ポツンと立っていた。近くにいた人に安否を尋ねてもわからない。生きているのか死んだのか。焼死体が出なかったのをせめてものなぐさめに、またトボトボと引き返した。
肉親にあえなかった淋しさを紛らわしようもなく、母が作っていた野菜畑に行った。つくも橋の下のその畑も被害を受けていた。きゅうりやなすの木もへし折れ、畑のあちこちに焼夷弾の残骸が転がっている。長さ七、八十センチ、直径八センチくらいの六角形の筒。
『福井空襲史』
旭小学校。今も荒川沿いに位置する。
荒川を下っていくと、足羽川への水門が見える。しかしあの水門は最近できたもの。もう一つ右手に水門があり、それが昔からの水門である。
水門近くに東公園という名の公園がある。かつてここには師範校があった。
向こうは河原で桜の木が生えている。昔も堤防の木があったのだろうか。空襲誌にあった「公開グラウンド」というのはどこか不明。師範学校があった近くだろうか。この付近の河原かも知れない。
御幸の慰霊碑
御幸の荒川沿い城勝公園内に慰霊碑がある。明治からの殉職者、空襲犠牲者、震災犠牲者のための慰霊碑。
旭小学校は目と鼻の先。この辺りも空襲を激しく受けた地区になる。
この日の地下安置室には、忠魂碑の遺体と名号が安置されていると書かれている。
神明神社
神明神社境内で消防員らしき人がフォークスコップで黄色く焼けただれた頭巾にモンペ姿の女性の遺体など多数をトラックに載せていた。
別の証言
神明神社付近には人が大勢死んでおり、足の踏み場がなかった。なので後ろから回って境内に入ろうとした。そこに巾二メートルほどの浅い川がある。普段は浅いがこの時は水が増えていた。それは死んだ人が流れて行って堰き止めていたからだった。神社の大木の下には人間の死骸でいっぱいだった。木も燃えていた。人間は黒焦げではなく、シャツが半分燃えて、頭の毛は燃えている。米を背負っている人は米がずーっとこぼれていた。木が何本もあるが、このように全部死骸で埋まっていた。それで通れないので「ごめんなさい、ごめんなさい」といいながら死体の上をまたいで通った。神社の前にも川があるがそこも水があふれていた。
この方の家はその近くにあったという。家族のいる防空壕は川が近かったので水がいっぱいだった。その中に大人の頭だけが浮き上がっていて妻だとわかった。中には行って確かめると12歳の娘がいなかった。あちこち探しても見つからない。もう一度探すと、母親のあわさへ頭を突っ込んで死んでいた。一番下になっていた。
いまでも神明社の後ろのすぐそばに川が流れている。ここが死体で川の水をせき止められていた場所だ。
神明神社のそばの川は、思わず顔を背けるほど死骸でいっぱいだった。髪はオドオドにさんばらになり、腹はブクブクでゴムまりのようにふくれていた。
神明神社表通りへ出ると、参道前の川にも境内にも心洗いの御手洗い所にも、また本殿東側も焼死体が折り重なっていた。死体はいずれも男か女か、大人か子供かも判別できない裸身の焼死だった。
神明神社の前の川というのはこれのことだろうか。橋がちゃんとかけられているので、昔からあったということには間違いなさそうだ。
昔はもう少し大きかったのか。それともたったこれだけの川に逃げ込んだのか。どこにも逃げる場所がなく、たったこれほどの川に命を託したのか。
神明神社の東口で大きな焼夷弾が落ち、鳥居は破裂。夫人は逃げ遅れて狂いそうになる。幾度かご主人に避難を訴えられたが、忠道にたたずんで空を見つめっぱなしで応じようとせず無言だった。境内は老樹が異常な音を立てて、絵馬堂は燃えさかり、キャーという悲鳴が聞こえる。
三人の子とおばあちゃんの合計4人を連れてお神明さんの防空壕へ入った。近所の人もいて皆で9人となった。爆弾がひどく煙で息もできず、あまり息苦しいので「いま死ぬ、いま死ぬ」とみんなが叫んだ。子供らは少しでも楽にしてやろうと小さい順に下にうずくませて布団を一枚かぶせた。子どもは苦しい苦しいと泣き叫んだ。背中におぶった子はおろせず、「あちーっ、あちーっ」と言ったが、体を動かせない。夜明けまで皆そうして「いま死ぐ、いま死ぐ」と呼び通していた。その時はおばあちゃんは中にいなかった。壕に入る前に別れ別れになっていた。
防空壕から出る時、あまりに口がからからなので壕の中の少しあった泥水を飲んだ。この壕では6,70歳の花屋のおじさんと、自分の背中の子が死んだ。花屋のおじさんは壕の入り口にいて煙と熱とでやられた。背中の子はおろす間がなかった。子どもの心臓が「ときん、ときん、ときん」と背中にこたえるのがわかった。それが明るくなった時分りに感じなくなった。それで降ろしたら死んでいた。
その後警察か誰かが回ってきて「死んだ者は全部そこへ置くように」とのことで、みんな名前や住所を紙に書いて、死んだ者の体の分かりやすいところへはさんでおくようにとのおふれだった。死んだ子を泥だらけの所に寝かすのもかわいそうで、肥えたぴちぴちの顔のまま死んでいるので、膝を立てて死んでいた花屋のおじさんにだっこしてもらっているように置いた。
その後おばあちゃんと会った。川の中の橋の下にいたと言う。
娘の婿の親の家のある丸岡に5歳の子と一緒に行っていた。19日には列車が混みあって福井に帰れず、20日の晩に帰った。その時には誰とも会えず、また3日ほど後に帰った。お神明さんの灯篭に主人がよしかかって、巻き脚絆をしたまま死んでいた。中娘は腸も何もかも飛び出したまま死んでいた。あと2里の娘はわからずじまいとなった。
大木もない。今は公園にもなっている。
奥に社殿がある。
西別院
西別院の前の川で死んだ人があった。わずか三尺くらいの小さい川で水量も少ないが、折り重なって真っ黒こげのやけぼっくりの死体がどうみても4,50人はあった。川へ入れば助かると思ったのだろう。
西別院正面。正面に川はないが、暗渠になっているのか。近くまで川が流れているのでそうかもしれない。
江戸下町の証言者
おばあちゃんが長男と次男をつれて西別院へ逃げ、その後に証言者と弟、妹、母と誕生前の子で西別院の方へ逃げた。西別院の前で大きな爆音がしたので伏せていると焼夷弾が降ってきて妹に直撃した。母も顔にやけどを負った。びっくりして西別院の前の家に入った。全然知らない家だがそこにいたおばあちゃんが布団を出してそれをくれた。母は「もうこんなに逃げたってしようがない。もう行かん。ここにいる。」というので説得して布団をかぶって逃げた。妹は火だるまになっていた。西別院の裏へ出ると暗い。逃げられてよかったと感じた。後に父と会った。最後に逃げたが地理を知っていたので逃げてこられたという。
西別院の前の川の中にいっぱい人が死んでいる。その中におばあちゃんがだいぶん水ぶくれになって死んでいた。その二、三間離れたところに次男が死んでいた。長男は西別院内の大きい立派な防空壕の中で窒息死していた。
西別院が奥に見える。その横に小学校があり。その間にも暗渠ではあるが川が流れている。同やら昔からある川のようだ。ここにも多くの人が飛び込んだのか。
暗渠の川は西別院裏へ折れて流れており、そこまで歩いてくると姿を見せる。
しかもほんの少しだけ下の方に石垣が見える。写真で白っぽくなっている部分だ。当時の物だろうか。
その他
空襲後、森田まで汽車が動いていましたが細呂木から森田まで汽車に乗り森田から線路上を歩いて行った所、高木町の所だったと思いますが爆風で飛ばされたのか、電柱の支えに引っかかった真っ黒こげの死体が立っていました。鼻から緑か黄色の鼻汁が出ていた死体が今でも脳裏から離れません。
引用:『福井大空襲体験画集(第三集)』
空襲の夜が明け、河原にいた人々は無言のまま去っていった。
道には黒焦げになった死体がいくつも転がっていた。若い母親らしい死体の手の先に幼い子供の死体があった。2人とも黒焦げになっていた。私は涙ぐみながら思わず手を合わせた。帰り道の東明里の畑には1メートルの間隔で焼夷弾が突き刺さっていた。
引用:『福井大空襲体験画集(第三集)』
爆撃機からは焼夷弾の雨が降る。小さな光がすーっと落ちてきて、途中まで来ると花火のようにそれが散る。散った無数の光は、雨の降るような音を立てて落ちてきた。その熱い雨の音は、地上に近づくにつれ金属製の鋭い音に変わり、猛烈な速度で地上に激突し、跳ね上がって炸裂する。
舞鶴の軍港を攻撃目標だったが、防備が厳しく引き返し、その腹いせに福井を空襲したという話もあるらしい。※『福井空襲史』体験談内での記述(真意は不明)
天守閣跡に登り、北と西を展望した。高層だった西・東別院の姿もなく、ただ広い焼け野原となっていた。
熱は1000度はあったのだろう。防空壕にあった銀製品が溶けていた。
護国神社には避難者がおびただしく移動が始まった。
罹災爆死者の惨状は、すでにいろいろな方の発表や報告がある様だが、とても筆や言葉で言い表せない。死者の数もあまりにもたくさんで数え切れず、焼き場に運びきれずに死んだまま手も付けられずに群がっている。その恰好は、頭の割れた者、眼の飛び出したもの、えぐられて内臓の出たままの者、手足のちぎれた者、頭のない者、水ぶくれ、焼けただれ、腐りかけた者、しかもあちらこちらに躰の一部らしいものが散らばっているというわけで、蛙や魚の臓物が飛び出たような形で、まるで、人の形ではない。川の中にもたくさんと死骸が重なっていた。熱くて川の中に逃げた人たちであろう。やがて、トラックに載せて、臨時の焼き場に死骸を運び出した。市街の状況は、町中が歩けないくらい熱くて、焼け野原になった町の所々は、まだ燃えていて、盛んにくすぶっている。
郊外・他地域から見た福井空襲
福井空襲には他地域からもその様子がうかがえたのだという。また、空襲後の避難先として大勢の人が流れてきたという。
ここでは空襲史に載っていた一部の証言をかみ砕いて掲載する。詳細は『福井空襲史』で。
松岡町
福井市の空襲は身も震えるほどの物凄い有様で、当町も同時にやられると思い、衣類や家具をもって山林へ逃げる人が大勢いた。空襲後は避難者がやってきた。子とはぐれた親、十一、二歳くらいの子供一人、老人などが徒歩で大勢避難してきた。町内の学校や役場などで蒲団や炊き出しを提供したという。
志比谷村(現在の永平寺のある谷)
爆撃の状況は手に取るように分かった。当日の夜は真暗な闇夜だったが、空襲時には月夜のように周りが見えたという。ひどいときには焼けトタンが空中を飛ぶさまは全く赤光の鳥が舞い降りるといった様子で、多数飛来し危険極まりない状況だった。
東藤島村(えちぜん鉄道東藤島駅付近)
夜、ブルンブルンブルンと体を圧する気味悪い爆音が聞こえた。「敵機だ」「空襲だ」と叫び、あちらこちらでサイレンが鳴り、戸を開けた途端恐怖のどん底に叩き落された。福井上空は天を焦がして真っ赤に焼けている。村は一気に騒がしくなり、叫喚、哀哭、悲鳴、轟々と叫び、子どもを背負って逃げる女男、年よりの手を取って走る若者。皆田園道や河原の道へと逃げていく。
シャーシャーと異様な響き。ふと見上げると大きな火の玉が空中に浮かんだ。瞬間それがパッと幾十、幾百に炸裂し落下する。まるで火の雨が降る様だ。思わず両手で眼を覆う。次から次へと火の玉が乱舞し、空一面火の雨が交錯落下する。また落下してくる。頭上にあるのでもうダメかと思うと川の向こうへ落ちていく。皆地面に伏せていた。周囲の人も蒼白になり涙をたたえていたのが、赤い火明かりではっきりわかった。
雲の切れ目から銀の翼が編隊を組んで飛んでいく。その後ろから迫ってくるのもやはり敵機。日本軍の飛行機は一機もなかった。
火は益々大きくなる。空も地も火の海。福井市はもう火の海に沈んだのだろう。ガーンと足元に落ちたものがあった。焼け爛れたトタン板だった。紙の燃えがら、衣服の破れぎれ、半焼けの赤い子供服などがもつれあって飛んでいく。風向きがこちらに変わった。やがて警報解除のサイレンが鳴った。
西藤島村(福井県立武道館辺り)
7月19日。床へ着くや否や空襲警報が発せられ、飛行機の爆音が聞こえてきた。いよいよ来たなと外に飛び出ると福井上空に数条の火縄を見た。束の間数カ所からホコリと火焔が立ち上る。「あれで済んだのかな。早く消し止めればよいが」と思っている間に鯖江の方角にわずかな爆音が聞こえてくる。やがて福井上空に差し掛かったなと思う頃、花火のような火の玉があちらこちらに発せられ、それが火縄となって下る。照明弾がまたポカリとまばゆく天に光る。市内各所から火焔が立ち上り「これは大変なことになってるぞ」と思っている間にまた次の段階の飛行機が上空に現れ、爆弾・焼夷弾を落とす。爆音に合わせて炸裂の響きが天に轟く。第三段階、第四段階と続けられる。ゴー、パチパチの音響の連続のみ。火の粉が落ちてくる中、群を成して非難する市民の青ざめた悲痛な顔面を猛火の明るみが照らす。敵機の銀翼は火炎に映して赤く輝き、当村の真上で東に旋回する。今にも爆弾が頭上に落ちてきそうでどこにいて良いのか気が気ではない。やがて爆音は止んだが、火炎はいよいよはげしくなる。「市民はうまく逃げたのだろうか」と思う時に言い知れぬ悲哀を感じる。明け方頃、火炎はだいぶおさまったが焼け野原と化した。
下志比村(えちぜん鉄道下志比駅付近)
警戒警報のラジオで飛び起き、村内の監視哨は緊張し手に汗握る。次々に入る情報についに福井市の空襲かと老人も若者も屋外に飛び出し福井の空を仰ぎ見る。空襲警報発令、敵機襲来120機の情報に心痛む。まもなく爆音・火花・閃光が福井上空に出現。爆音とともに敵機の大編隊が目についた。第二、第三と重なる爆音・轟音、西南上空一帯はそのまま火の海と化した。村民は心を痛めながら二時間もの間、福井の上空から眼が離れ得なかった。敵機は去った残るは猛炎の空。そこから亜鉛版や天井板の燃え残りなどが雨のように降る油と煤煙の中を焔・風にあふられて志比まで飛んでくる。
夜が明け、勝山街道は避難民の郡で埋め尽くされた。顔面火傷の痛々しい娘、泣く乳呑児を背負う若き母、老母の手を引く若者など。
村は炊き出し、衣類、救援の輸送に取り掛かった。
東郷村
炎天の中トラックや馬車、リヤカーなどで家財ぐを運ぶものが急に多くなり、福井の空襲がち数いていることを痛感していた。
7月19日11時頃、突然ラジオは福井地区の警戒警報を報じ、間もなく空襲警報発令。向かいの部長派出所は電話に付きっ切りだった。火の見の梯子を上って飛行機の行方を見守っているとすぐ頭上をゴウゴウという数おびただしい爆音を聞いた。爆音の調子でB29と知ったが、あまりに物凄いので頸をすくめた。下では部長が大声で団員に指示している。すぐ頭上を飛んでいた誘導機の尾燈が福井市上空に達したとき、この機からスーと細い糸のような火が落下したので「福井がやられた」と大声で叫んだ。細い火の糸が空中でパッと炸裂して投げ網を拡げた様に広く火をひいて焼夷弾が落下した。丁度花火が中天で開いて枝垂柳のように輝くのと同じである。間髪入れず第二弾、第三弾と息もつかせぬ攻撃。第一弾は西別院方面に落下。この帯のような火の手が西別院より志比口方面へ広がっていく。また、志比口方面より八軒町を経て福井駅方面へと一面火の海と化した。敵機は次々と福井めがけて飛んでいく。片町や本町も見えない。点を焦がす火の中B29は悠々と飛んでいくが、戻って来る機体は一台もない。火の海が足羽川方面に流れているとき今度は麻生津方面にも爆弾が投下されたようだ。また、勝見・和田にも焼夷弾が投下されたようだ。この火の手が今にも自分の村へ流れてくるように思われた。福井駅の方を見るとドカンドカンと破裂して青い炎が吹き上げている。その様子を見て空襲に対する指導方針が余りにも幼稚で「バケツリレー」「天井の刺さる焼夷弾をしたからついて落とせ」「防空壕へ避難し空襲が住んだら火を消せ」などというものは現実では無意味だと思った。指導員たちは家財具をもって疎開する者を非国民といい、それを受け継ぎ「非国民!」と怒鳴っていた巡査や町内会長はこれを見て何を思っているだろうかと怒りさえ覚えた。
爆音が減り、上も静かになった時、一機が当村南山部落に一弾を投じた。この時全身の血が止まったような感がした。南風のためか密集部落を越えて全弾田の中に落ちて事なきを得た。この一機が酒生村成願寺方面へも落としたらしく、成願寺山に焼夷弾が散って蛍籠を見るようであった。
電燈は消えたが、福井の大火で昼のような明るさ。学校や工場や民家のガラス窓に火の光が反射して村が燃えているような錯覚が起こる。村民は大部分は裏山へ避難した。
空襲後福井へ送る炊き出しの準備。その時稲津方面から兵隊を乗せたトラックが来た。大土呂へ行くというので案内を乗せたが皆意気消沈し無言のまま消えていった。
六条村(越美北線六条駅付近)
午後10時ごろ西南からブーンブーンと不気味な音が聞こえ「B29だな」と言い合っている間もなくドドーンドドーンという音響と地響きがする。外に出て福井上空を見ると福屋百貨店と思しき所と停車場付近、勝見の三カ所が大火事になっている。気の毒だと思っている間にも第二回、第三回と敵機の編隊が襲来してくる。銀色の美しい翼に火焔が反映して美しい。その機体からシャー、シャー、チカチカと音と光を発して投弾され、ドドーッと地響きを立てて幾千本となって火柱が立ち上る。花火よりも美しく壮観であるが、それは一瞬にして黒煙と火焔の渦巻きに化する。泣き叫ぶ民衆の声と合してこの世ながら焦熱地獄を現出している。この恐ろしさに震えていると越美北線付近へシャーッと音がする。東も西南麻生津もドーン、シャーッと音がする。今度はわが村だぞ逃げろと叫び合い、もの一つ持つ暇もなく南の野原へ逃げる。
空襲が終わるころ。福井から罹災者が何千何万と溢れ、親を求め子を叫び大混乱。門口も神社も寺院も避難民で埋め尽くされ自分の家の中に入れない。人々の目は血走っていた。
私が口伝から聞いた話でも、避難した人たちが大勢村にも来たと。
下文珠村(大土呂駅付近から東の数集落一帯)
10時ごろ警戒警報が鳴り、万一に備え準備をする。ふと顔を上げると月明りとは異なる明るさである。新聞の文字が読めるほど。すると村民の喚く声がする。何事かと思って外へ出て福井市の方を見るともうすでに焼夷弾が投下されている。大和百貨店と思われるあたりを中心に市街地は刻一刻と魔の手にゆだねられる。30分も過ぎたと思う頃、地鳴りとも何ともわからない異様な音が高く低く聞こえてきた。それに交じって聞きなれたB29の爆音も聞き取れる。全市は火の海と化し黒煙がのぼりそれが静かに東方へ進行し始めている。その中に3~5機編隊のB29が見える。まさに生き地獄とはこのことかと思った。市街地に適確な爆撃を定めていた。
一乗谷鹿俣 口伝による話
私が口伝に聞いた話。
その人は当時子どもだった。真夜中真暗の中山の向こうが光っていた。それはきれいだったと。
四ヶ浦町(越前岬付近とその南付近)
11時頃、東天に赤光が映じた。普通の火災とは全然違い、範囲も広くその光も強いので空襲だなと推定した。位置は福井付近ではないかと言い合っていた。確実な情報は翌日になってやっと入手した。
立待村(鯖江市の最北)
村の北には経ヶ岳があり、福井市を見通しはできないが、焼夷弾が機上から落ちて間もなく発火し、ボーンという音と共に炸裂して白い尾を引いて落ちていくのが見えた。それは稲妻というか火の雨というか形容しがたいものだった。それが自分の頭上にのしかかってくるような圧迫を感じ、思わず頭を縮めるくらいだった。それが経ヶ岳の向こうへ落ちるのを見たときはじめて自分の所ではないと気付くくらいだった。
福井の空は大火災の為紅蓮の炎が天を焦がすようであった。その明るさでB29の機影もはっきり望見できた。最後の一機が編隊を離れて元の方向へ飛び去った時空襲が終了したように記憶している。
鯖江町
ごうごうと轟く爆音が頭上を過ぎたかと思うと福井市の方向にぱあっと火花が散る。みるみるうちに吹き上がる火の手。空襲だと叫ぶ目の前に福井市が赤々と浮き彫りにされていく。燃える、燃える、瞬く間に火の海。灼熱した金蛇・銀蛇が縦横無尽に乱舞するような猛火。リズミカルなB29の爆音は南東の山並みを越えて福井へと規則的に間をおいて整然と続く。福井市上空には猛火に映る雲の間にチカチカとB29の機影が悠々と白く光り、あまりにも美しい。足羽山も火の玉と化し、投弾は鯖江に近づいてくるような緊迫感。
中河村(鯖江三里山北側)
襲来する敵機は従来のものとは異なり、5機10機くらいの編隊を組み大編隊となり、大音響を立てて来襲した。福井市上空と思われるところで花火のようにとでも言おうか。何とも形容しがたい状態で焼夷弾や爆弾が投下されていった。それを眺望しながら戦慄を覚え、恐怖心が沸き起こってどうすることもできなかった。空襲が終わっても火の海は大火焔の熱風に湧き立ち天を焦がし、五里を距てる中河村も昼を欺く明るさだった。
大関村(えちぜん鉄道大関駅辺り)
空襲警報のサイレンが鳴り、爆音を聞いて外へ出ると四里離れた南方の空が真赤だ。防空帽を被るもの、蒲団を被るもの、皆田園道の真中へと逃げた。頭上をすさまじく敵機が次々とやってくる。人々は地面にひれ伏すが、南の様子を見ずにいられない。爆弾の炸裂するさま、それがいくつかに分かれて落下する様子、それはとても美しい。火の光は青・紫のような色であった。四里を隔てた当村の上にまで燃えた紙が落ちてくる。翌朝5時まで皆野原で過ごした。家に帰ると直ちに炊き出し。皆握り飯の用意。親類のある者もない者もできるだけたくさんの握り飯を用意して徒歩で福井へと走った。暑くて歩けない。しかし握り飯はたちまち無くなる。自分も空腹でしょうがないが握り飯頂戴という人々で一杯だった。
兵庫村(えちぜん鉄道下兵庫こうふく駅辺り)
午後12時サイレンと警鐘に起こされ恐怖の念にかられ外へ出る。重々しい爆音は大地を圧し、編隊の大型機は坂井平野の中央上空で大きく旋回し南進している。続いてまたも新手の編隊が来る。我を忘れて防空壕へ飛び込む者、婦女子の泣き声。家財を積んで部落外へ逃げ出す者、警報係は「福井市空襲」を連呼している。
頭を上げて南方福井市上空を見れば空は全面赤一色。大音響とともに火柱は天に冲し、黒煙は強風にのって本村あたりまでも押し寄せる。村民のうちにも福井市内に肉親を持つものがある。身の危険も顧みず市の方向へ走った。罹災者の人がやってくる。水を求める者、身寄りを尋ねる者、県道は長蛇の列となった。
一夜が明け、村内各所に焦げた新聞紙、衣料、紙幣が散らかっていた。
鶉村(水切古墳周辺)
凄まじい爆音。ゴーという音がガラス戸を響かせる。外へ出ると昼のように明るい。玄関正面が福井に当たる。目の前の上空に花火のような光が数カ所ちらちら落ちていく。急に明るくなる。またしても大音響が起きる。爆音は遠く近くあるいは頭上に響く。迷う老人子供を境内に導く。おののく妻に後事を任せて勤務地へ向かう。
三国町
敵機の爆音は聞こえたが、機影は見えなかった。しかし投下される焼夷弾の炸裂は花火のように絶え間なく望見された。火の手が大きくなるにつれ、ほのかに火影が人の顔に映えるようになった。
王子保村(王子保駅当たり)
天を焦がす真赤な炎と焼夷弾の落下が望見された。
大野市下舌出身者の祖母からの口伝による
空襲時は飯降山の上が夕焼けみたいに真っ赤だった。それは気持ちの悪いほどきれいなものだった。皆電気を消して爆音の消えるのを待ちながら、「何をそんなに燃やさなくてはいけないのか」とおもっていたという。
近所の年寄りからの話(空襲下の話か)
B29は腹に電気をつけて飛んでくる。スーッと行ったかと思うとポチョッとした光を落とす。それが中ほどまで落ちてきた時パーッと飛び散って光りながらパラパラハラハラと舞い降りてくる。福井祭りの花火がどんなにきれいといっても、とても話にならないほどきれいなものだった。あっちにもこっちにもそれがチカチカ光りながらパラパラ落ちてくる。それが下までつくとズドーンと燃え上がる。小さい子供は落ちてくるのが爆弾だとも知らずに喜んで拾いに走っていく子もいたという。今思うとまるで地獄絵図だと。
空襲後
御本城橋の袂に救護所を作っていた。四斗樽が手洗い鉢だが、水はそこに10センチ余りしかない。血と泥にまみれた罹災者が押し寄せ、汚れを拭く布も水もない。傷口にマキュロクロームを塗り包帯を巻くだけである。救護員の手も血と泥にまみれる。樽の水はもう真っ赤になっている。
堀端に毛布にくるまれた死体。その方の甥の中学生だったという。焼夷弾の直撃弾で死んだ。
聞けば親が弟坊を背負い、(名)の手を握って濠の水に漬かりながら頭上から夏ぶとんをかぶっていたが、急に彼の手の力が抜けたので傍を見れば、鉄帽の後頭部から頭にかけて焼夷弾筒片が突き刺さっていたそうである。
(中略)
私は甥の顔を見たが安らかであった。後頭部を見て驚いた。ガボッとした感じに穴が開いている。脳漿がドロッとして中にある。直ぐにガーゼを詰め込み、顔も頭もぐるぐると巻き上げた。
引用:『福井空襲史』
敦賀・福井空襲の展示講話
戦災の記憶が薄れる中、こういった展示や講話があるのはありがたい。
福井市のハピリンで7月15日土曜日に行われた。
ここでは敦賀空襲と福井空襲の両方が展示されている。
焼夷弾の実物や空襲の記録、空襲の写真、体験者の絵などがあり、ハピリンの大画面を使った動画が流れていた。それに大音量も流れていた。そこで焼夷弾落下の音を再現したであろう音も流れた。空襲の史証言にあった、「地上に近づくにつれ金属製の鋭い音に変わり~」というのが表現されているかのような音もあった。
遺体の写真も展示されている。
空襲史を見る機会がない人は、こういったところで現実に何が起こるのか、目にしてみるのも良いと思う。
焼夷弾
展示であった焼夷弾である。
本当に六角形だ。
こんな鉄の塊がへし折れる衝撃で大量に降って来る。
これが直撃する場合もある。
福井城址お堀の灯り
7月末ごろに毎年福井城のお堀に灯りがともされる。
福井空襲で多くの人が逃げ込み死んだお堀に慰霊の明かりが灯るのである。
また、福井地震の慰霊のためでもある。
美しい灯火は、慰霊の灯に相応しい。
順化万霊供養塔にも灯されている。
備考
参考文献
『福井市史』
『福井空襲史』
『福井大空襲体験画集(第三集)』
『福井・敦賀空襲戦災体験記・資料集第3集』
『国立公文書館デジタルアーカイブ』
『福井市立郷土歴史博物館』
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