
福井県敦賀市金ヶ崎町に金前寺があります。
袴掛け観音(読み方は「はかまかけかんのん」)の伝説で有名で縁結びの御利益があるともされています。
今回は許可をいただき、お堂内や仏像の写真を撮影掲載させていただけることになったので、写真と共にお寺の伝説と近代の壮絶な歴史、十一面観音の秘話、信仰の痕跡などを見ていきます。
※堂内写真は許可を得て撮影掲載しています。
地理
敦賀の中でも特に名の知れた名所の一つなのではないでしょうか。
知らない方も、おそらく横は通ったことがあると思います。
金ヶ崎は赤レンガ倉庫や冬にはイルミネーション、そして金ヶ崎宮という敦賀の観光地がいくつもあるエリアです。
金前寺はそんな金ヶ崎宮への道の途中にあります。
金ヶ崎宮は縁結びで有名ですが、縁結びを願うなら金前寺も外せない場所だと思われます。
袴掛観音の伝説

金前寺に伝わるのは縁結びの御利益のもととなる伝説です。
越前の国敦賀に住む人があった。娘の他に子がなかった。娘に夫を迎えたが、その夫は去ってしまった。別の夫を迎えたが、同じであった。このようなことが数度あったので、父母はあきらめて、夫を迎えることをしなかった。
家の後ろに堂を建て、観音を安置して、この娘を助けたまえと願っていた。その後まもなくして、父も母も死んだ。財産がなくなるにつれ、従者もおらなくなり、衣食にも窮した。いつも観音に向かって、助けたまえと申していた。すると夢に僧が来て、「夫をあわせてやろうと思い、呼びにやったから、あすここに来る。その人の言うことに従え。」といった。
翌日家を掃除して待っていると、夕方ごろ馬の足音がして、多くの人が来た。この家を宿に貸してくれという。見れば主人は三十ばかりの美しい男子である。従者など七八十人ばかりはいる。家は広いので、みなはいった。夜になって男が忍び込んできた。夢のお告げがあるので、男の言う通りになった。
この男は美濃国(岐阜県)の勢徳ある者であった。愛していた妻を失った。再婚をすすめられたが、死んだ妻に似た女があったらといっていた。若狭の国に用事があり、敦賀に来て宿をとった。宿の女があまりに妻に似ていたので、夜を待って近寄ってみると、すべてのことがよく似ていた。
翌日一行は若狭へ行った。従者二十人ばかりが残っていた。これらの人に食わせる物も、馬の草もないので、困っていると、むかし父母が使っていた女の娘というのが、思いがけなくも訪ねてきた。「この人たちは何の人か。」と問うので、わけを話すと、「これらの人にものを食べさせないで、ほっておくのもくやしい。何とかしよう。」と、女は帰って行った。
しばらくして女は、食べ物や馬の草を持たせてきた。「私の親が生き返ってご恩返しをしたのである。」といった。翌日若狭から一行が戻ってきた。その食事も全部女がしてくれた。夜になって男は、「あす美濃へ連れて行く。」と女主人に言った。
女主人は助けてくれら女に何かお礼の品をと思うが、何もない。ただ紅の絹のはかまが一着あった。自分は男が脱ぎ捨てた白いはかまをはき、女に「これを。」と与えた。女は「あなたこそ貧しく見えるので、私から何かあげようと思っているのに。」といって受け取らない。「あすは思いがけず、急に美濃へ行くことになったから、これを形見に。」と無理に取らせた。
翌日出発のときが来て、女主人を乗せようとした時、女主人は観音にもお礼をと、参拝してみると、観音の肩に赤いものが掛かっている。見ると前彼女に与えたはかまである。さては、女と思っていたのは、観音が変じて助けたもうたのかと、女主人は伏しまろびて泣いた。男も事情を聞き、涙を流して喜んだ。
女主人は美濃へ行き、男と夫婦になり、男女の子どもが多く生まれた。つねに敦賀に通って、観音に仕えた。
引用:『越前若狭の伝説』から『今昔物語集』
縁結びとして、観音様の霊験として素晴らしい話です。
ただおそらく皆さん現代の価値観においてはいろいろと思うことがあると思います。
観音様の霊験としては素晴らしいご利益のある話かと思います。本当に結婚したい方や恋人がほしい方などにとってはなかなか良いご利益のある観音様なのではないでしょうか。
さて、このように今昔物語や宝物集などに載っている有名な話です。
『敦賀郡誌』には、かなり長く載せられています。気になる方は国立デジタル図書館で見ることが出来ます。
金前寺のもう一つの伝説
目倉橋
泉に目倉橋といふ橋があって、この下の川に陥った者はめくらになると、昔から言ひ伝へられている。此の川は、今は、泥水で濁っているが、昔、此処に泉長者といはれる長者が住んでいた。長者には美しい娘があって長者夫婦は目に入れても痛くないほど可愛がっていた。けれども或る日この娘が俄に居なくなった。大騒ぎをして探したところ、金ヶ崎の入り口の金前寺といふ寺の中に今までなかった観音様があって、その前には娘の着ていた着物があったので、この娘は観音様の化身であったことがわかった。今もこの着物は金前寺の宝として残されている。
娘のいる頃は乳母が六月十七日には佐渡から必ず遇ひに来た。その日は午前中には風が佐渡から敦賀の方に吹き、午後はその反対に風が吹いて乳母を送った。
長者には三つの大きい倉があったので、ここの橋を三ツ倉橋と呼んでいたのが、いつの間にか目倉橋と呼ばれるようになった。
引用:『福井県の伝説』
娘が失踪するという衝撃的な伝説です。
皆さん思うところはあるでしょう。私も思うところはあります。
色々なとらえ方ができる伝説ですね。
ちょっと怖い伝説でした。
金前寺についてと簡単な歴史
金前寺は、詳しくは高野山真言宗誓法山密厳院金前寺といいます。

『敦賀志』によると、金前寺は元は「金林寺」といい、境内の鐘の名にも「金林寺」と書かれているといいます。
ただし寺伝では元々が金前寺であるとされています。十一面観音が金光を発することに由来するといいます。
『敦賀市通史』にはこの謎についての解明らしきことが書かれており、
永正年間には泉寺とも称し、寛文のころには金林寺と称したことがあった。
引用:『敦賀市通史』
としていることから、一時的な呼称、または誤字だった可能性があります。
ちなみに『敦賀郡誌』によると、永正年間の泉寺の名は永正八年の朝倉教景の状にあるとのことです。
天平八年に聖武天皇の霊夢で勅を奉じた泰澄大師が十一面観音を祀ったのが始まりとされ、弘仁2年に弘法大師もこの金前寺に泊まったともされています。
金前寺は気比神宮の奥の院でもあったようです。『敦賀市通史』によると、正確には気比神宮神宮寺の奥の院であるといいます。『敦賀志』によると、気比神宮神宮寺中の密言院(密厳院)ということです。
元は金前寺は今の金ヶ崎宮のある場所付近にあったとされ、崖の坊とも呼ばれていたようです。南北朝時代の本営となり戦場となり焼失、天正の末にこの地に移り住んできた安孫子(江州佐々木一族)の女性によって、寛文二年に今の場所に観音堂を再建して場所を移ってきたということです。
先ほどの「金林寺」と呼ばれた時期と、現在の地に再建された時期が一致しています。再建を機に名前が混同していたようです。
その後昭和二十年の敦賀空襲で焼失。再建し今に至る。
本尊十一面観音の秘話と古の袴掛観音
袴掛け観音像について

美しく映える仏像。
現在、お堂内におられる観音様は、二代目の袴掛観音です。
本尊である一代目の袴掛観音である十一面観音さんは、古くから伝わる本尊は敦賀空襲の時に焼失してしまいました。
今から2015年に新しい袴掛観音様が造られ、現在祀られています。

再興にあたり、古くから伝わっていた袴掛観音についての情報はわずかの物だったそうです。
お寺にいらっしゃるご老人、おそらくは先代ご住職なのだとおもいますが(そこは聞かなかったので不確定情報)、その方が昔見た記憶と、福井市に住んでいる方が持っていた昔の観音様の小さな写真を元に、現在の新しい袴掛け観音様を作ったといいます。
お堂内に初代袴掛観音の写真が祀られています。


大きさも今と比べてどうだったかは不明だそうですが、ご住職によると、空襲で避難できなかったということは、それなりの大きさだったのだろうということです。
空襲時は金前寺の倉に疎開してきた人たちもあったようですが、戦災誌にもある通りまさか敦賀が狙われると誰も思っていなかったのでしょう。ご住職もおっしゃっていましたが、敦賀は交通の要衝で国外ともつながっていた港だったため後で考えてみれば必然だったのかもしれません。
少し話外れましたが、そんなことがあって今の観音様が祀られているのです。


微笑みのあるように見える、優しい表情をしております。
金前寺では護摩焚きもやっているとのことで新しい観音様もこれから味が出てくるのではないかということです。
十一面観音の秘話
実は金前寺の十一面観音様は一体だけではありません。
二体いらっしゃいます。
現在の袴掛観音様が祀ってある檀の裏に十一面観音立像が祀ってあるのです。

なぜ二体いらっしゃるのか。
その理由は、敦賀空襲後に遡ります。
これはご住職に伺ったお話です。
空襲の際、本尊である袴掛観音様は焼失してしまいました。本尊がおられない状態となってしまったのです。しかし、金前寺にはもう一つお寺がありました。そのお寺の本尊である十一面観音像は美浜町宮代の園林寺に避難していました。なので焼失を免れたのです。その後金前寺が再建されると、その十一面観音像を本尊として祀ることになりました。それから今の袴掛観音様がいらっしゃる場所でずっと祀られてきたといいます。新しい袴掛観音様が出来たので、それからは裏へ移り、ご位牌と共におられます。
(※)新しい袴掛観音が再興されたのは2015年。
金前寺のホームページによるとそのもう一つのお寺というのは末寺であり名前は気比蔵寺というそうです。
現在も袴掛観音の裏からもう一つの本尊として今も人々を見守ってくださっているのです。
伝説や歴史、信仰について

袴掛観音の伝説は今昔物語の頃の話ということは、金前寺が金ヶ崎宮にあったころの話なのかと思ったのですが、さすがにそこまでは不明なようです。しかし長者が家の裏に祀ったということは、山の上ではないようにも思えます。
寺伝としては泰澄大師が祀ったということなので、伝説は伝説。ということなのでしょうか。

古の出来事はわからないことも多い。本当に長者が祀ったのが始まりかもしれないし、もしかしたら両方本当かもしれない。いつしか伝説同士が混ざることもあり得ます。
分からないからこそ面白く、色々と思いをはせることが出来るというものです。
また、泰澄の話で思い出したのですが、やはり本尊を十一面観音とするところが、白山信仰にもつながっているそうです。
先ほどは無しに出た宮代の園林寺も白山信仰があったと思います。
美浜にも若狭にも白山信仰は及んでいます。
縁があるのですね。
縁結びと歴史のロマン

不思議な縁結びの袴掛観音伝説。
それは古から伝わり人々を楽しませてきたのみならず、人々の信仰を集めてきた価値ある存在。
伝説から観音様の歴史秘話は今日まで歴史を繋いできた確かな証。
敦賀の名所の一つとして、そして信仰の慎ましい場所として、その存在は今後も歴史を刻んでいくことでしょう。
参考文献
『越前若狭の伝説』
『福井県の伝説』
『敦賀志』
『敦賀市通史』
『敦賀郡誌』
金前寺ホームページ
取材協力
金前寺
基本情報(アクセス)
最寄り駅 | 敦賀駅からバスに乗り換え金崎宮バス停で下車すぐ |
自動車 | 敦賀ICから5分 |
駐車場 | 金ヶ崎公園駐車場 |
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