福井県おおい町大島半島。ニソの杜が有名な地域でニソの杜と埋葬の関係もささやかれています。
この大島ではつい最近まで両墓制による土葬が行われてきました。今もサンマイが残る場所もあれば消えたところもああります。また整地され面影を失った場所もあります。そんなサンマイ事情を郷土史や地元の方の話から記録していきます。
大島の墓制(両墓制)
大島の墓制は若狭広域と同じく両墓制の土葬墓です。
両墓制とは詣り墓と埋め墓がわかれている墓制です。
- 詣り墓とは、私たちが普段見るような石塔墓で二次墓地とも言われ、実際にそこには骨などはなく、祀り参るための墓です。
- 埋め墓とは、サンマイや一次墓地、埋葬地などを言われ、いわゆる土葬地。実際に土葬されている墓の事を言います。
埋め墓に土葬をした後は、ほとんどの場合そこには埋葬(またはその翌日)以降参らず、石塔の詣り墓にお参りしに行きます。若狭の地域によってはお盆に一度だけ掃除などをする地域もあります。ただ大島では埋葬後は参らないことが多いようです。
埋め墓のほとんどが茂みの中や海辺にあり、石塔墓は比較的近くにあるものです。ただ大島の場合は詣り墓も茂みにある場合があります。それは後に郷土史を見ながら少し言及します。
大島の葬送地用語について
大島は両墓制で埋め墓詣り墓がわかれていると書きましたが、厳密にいえば「サンマイ」と「ハカ」ということになります。
私が現地のご老人の方にお話を聞いたとき、このようなやり取りがありました。
私:昔は向こうに墓があったのですか?
ご老人:向こうには墓じゃなくてサンマイという人を埋(い)ける場所があった。
つまり現地の方からすれば、「サンマイ=墓」ではないということです。
おそらく現代的な一般的な考えは、「遺体(又はお骨などの一部)を埋めた場所」が墓であり、郷土史にも「埋め墓」だとか「一次墓地」だとか言う風に言われています。ただ大島の現地の方からしたら埋める場所は「サンマイ」なのです。同じ若狭でも埋め墓のことを「ミバカ」といって「身墓」の意味で言われることもありますが、普通の「墓」や「墓地」の意味では使われないということですね。
おそらく郷土史の「埋め墓」や「一次墓地」というのは読者に分かりやすいように言い表した用語だったのでしょう。いきなり「サンマイ」といっても何も知らなければ何のことだかさっぱりですからね。
サンマイとは、人を埋ける場所。
ハカとは、サンマイとは別に石塔などを立てて祀った場所。
そしてサンマイへと続く道は「ソウレンカイドウ」といわれ、サンマイへの野辺送りの際には必ず通った道であるとされています。
宮留の墓地事情
消えたサンマイ
大島半島の最北端に位置する宮留部落。ここもかつては土葬両墓制であり、サンマイがありました。サンマイがあったのは部落の北の海岸だったそうです。
そう、今はもうなくなっています。その名残さえ消えています。
少しばかし苦しい話を載せておきます。『ノヤキの伝承と変遷』から引用します。
宮留のサンマイ・・・平成5年(1993)の赤礁崎オートキャンプ場整備をきっかけとして、海水浴場観光開発と堤防の敷設のためサンマイ消滅。何十年も前から計あくはあったらしいが、関係者が亡くなった後、引き継ぎがなく放置されていたという。
平成五年(1993)頃に、ごみ処理や衛生関係と担当する当時の保健衛生課で課長補佐を務めていた○氏が、計画を立案し推進することとなった。計画には宮留地区の三分の一程度の人が同意したが、残りの三分の二程度の人は反対であった。そのため、○氏は約一週間役場に出勤せず、同意を得るために宮留地区内の家々を歩いて回ったという。計画の推進に当たっては、大島地域の人々はサンマイを掘り起こすことを嫌がり、○氏の親戚からも反対を受け、人によっては「ろくな死に方をしない」、「お前は大変なことをした」と言って責める人もいたという。
数年間にわたる計画の途中で、担当者は○氏から別の人に変わり、新しい担当者は大島の人ではなくなった。その際に大変な吹雪になるなど天候が荒れたことが、○氏の記憶に残っているという。その後、紆余曲折があってようやく撤去することになり、平成八年(1996)の袖ヶ浜海水浴場の開場に至った。
サンマイの撤去作業は、業者がサンマイを重機などで掘り返し、出てきた遺体や遺骨の遺族と思われる家に連絡を取り、確認と了解を得たうえで火葬し、火葬骨を納骨堂に納める、という手順に沿って進められた。宮留地区のサンマイは、その中でも家ごとに埋める位置がおよそ決まっていたため、どこの家の埋めた場所かはおおかた判断が出来たという。遺体や遺骨が発見された際には、遺族に遺体・遺骨と対面して確認をしてもらった。○氏が事前に各家をまわって了解をとっていたものの、その時に改めて改葬の了解を得ることとしていた。
発見された遺体や遺骨は、一体ずつベニヤ板製の木箱に納めて火葬場で火葬し、海岸寺の敷地内に新設された納骨堂に納骨した。先のような手順で作業を進めるため、サンマイを掘り起こす際には、遺体などの確認のために家の人の立ち合いをお願いしたが、実際に立ち会う家は少なかったという。たとえば、母を亡くした人が「ビニールが出てきたら母の遺体だ」と教えてくれたものの、作業時には立ち会ってくれなかったという話もあった。掘り起こしの作業中に、主のいない棺や、野犬が掘り起こした遺体、海難事故で無縁仏として処理されたと思われる遺体なども出てきた。宮留のサンマイは、海岸に面しており、砂地だったためあまり腐らずに出てくる遺体の場合もあったという。
サンマイ全体を掘り起こした跡地には石灰を散布して消毒処理を施し、その後の堤防工事が進められた。これらのサンマイの掘り起こしから火葬場への運搬、遺骨の作業までは、大阪府内の会社が行った。
引用:『ノヤキの伝承と変遷』
※「○氏」にはアルファベット頭文字がふってありましたが、ここではそれも伏せておきます。詳しくは引用元の書籍をご覧ください。
観光事業のために土葬地を掘り起こすというのは、たしかにかなりデリケートな話です。
ちなみに海難事故で遺体が見つからなかった場合は、木の人形をガンバコ(棺)に入れて埋葬したと言います。
袖が浜海水浴場。このあたりです。
確かに景観の良い浜となり、防波堤も作られています。
海水浴客は来るのでしょうか。
地元のご老人にお話を伺うことが出来ました。
墓があるのは向こう(部落の東の森)にある。今観音堂があるけど、そこに行くまでに細い道が途中で折れている。その反対側の大きい木が茂っているあたりに昔は石のお墓があってお参りしていっていた。今は海岸寺のお寺に移した。サンマイは北の方の海辺あたりにあって、そこに人を埋けていた。土地の整地をしてみんな掘り起こしてサンマイは無くなった。昔は田んぼよりも畑が多くこの辺りは全部畑だった。整地をして田んぼを大きくして堤防を作った。
昔サンマイがあったのは、今の北の浜沿いにある道路と川が通っているあたり。昔はあの場所に大きい木がたくさん生えていて森だった。サンマイの中に家によって目印の木があって、「この家はここ」という感じで埋ける場所は決まっていた。埋ける時は朝早くに穴を掘ってそれは大変だった。
今は木も全部伐ってしまって、昔の木はなんにもなくなってしまった。大木の木が茂っていた森をなくしてしまったせいで北風がひどくなった。この地区は北と南が吹き抜けていて特に風が強い。昔はサンマイの森がそれを防いでくれていたけど、それがなくなったせいで強い風が北も南も全部吹き付けてきて大変だ。
サンマイは消えてしまったけど、そういう時代だからもう仕方ない。今は浜もできて、釣りの施設もできて、この辺りも人が結構来るようになった。やっと時代に追い付いて少しでも都会に近づけたんじゃないかとは思っている。
色んなお話をしてくださって本当にありがたいことです。
「時代だから仕方ない」。サンマイという、先祖を埋葬した場所を掘り起こして道路や海浜を作るというのはどれほどの葛藤があったのか。私には想像がつきません。
袖が浜の裏にある道と、その道の南側にある茂みはお話にあった川です。道路と川が並行しているこの辺り一帯が、元サンマイであるということです。
今は赤礁崎オートキャンプ場などが半島の先端部分にあり、観光客の車が高頻度で通ります。そして私もここを歩きます。そんな場所が、元々は土葬地だったのです。
お話を伺った方はそんなことよりも、サンマイの森がなくなったせいで風がとにかく強くなったということが辛いことだとおっしゃっていました。サンマイがどうこうと私のような部外者は考えがちですが、実際に住んでいる方は住環境の悪化という現実的な害の方が辛いようです。かなりリアルな話を聞かせてくださいました。
今は植木が一応植えられていますが、まあだいぶ低いです。これでは浜の風は防げないでしょう。昔はここが森だったのですね。
さて、この宮留のサンマイについては『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』にも載っています。
サンマイは北の海岸沿い、堤防の内側にあって、東のサンマイと西のサンマイでわかれていた。東の家々と西の家々で使い分けられていたようで。サンマイの木を目印に家によって埋める場所は決まっていた。
参考:『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
としています。サンマイの木の話は現地の方の話通り、裏が取れたという感じです。かなり大きなサンマイだったようです。
観音堂近くにあった詣り墓の移動
宮留のサンマイは消えてしまいましたが、詣り墓の方も昔とは違う場所に移動しています。昔の詣り墓は宮留の東の森の中にあったといいます。
先ほどのご老人の話にもはじめに
墓があるのは向こう(部落の東の森)にある。今観音堂があるけど、そこに行くまでに細い道が途中で折れている。その反対側の大きい木が茂っているあたりに昔は石のお墓があってお参りしていっていた。今は海岸寺のお寺に移した。
とおっしゃっていました。
現在も昔の墓のあった所在の名残はあり、森の中には今も観音堂があります。
宮留東端の森へと続く道があり、その先はこのように歩道になります。この折れている部分の反対側が元石塔墓(ハカ)があった場所だといいます。
とりあえず観音堂を見ましょう。
深い茂み。タブの巨木や水辺があり、古くからの杜を思わせます。異界です。
ここに来るまでの細い道の山に墓があったと言います。
報告書によると、
観音堂は別名東方寺。ハカは五段ほどの段差があり家ごとの場所に石塔があった。墓の移設は昭和五十六年(1981)。夫婦で一基の「夫婦墓」だった。
参考:『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
ということです。
先ほどの折れている道の反対側がこんな感じです。大きなタブの大木。まるでニソの杜を想起します。
そして人工的に積み上げられた石積み。この辺りがハカだったのです。
野辺送りとソウレンカイドウ
宮留のサンマイに行く道。つまりは野辺送りをした道が決められていたと言います。
いずれも始点は宮留集落の南軒並み部分から始まります。
そしてこれもまたサンマイと同じく、「東のソウレンカイドウ」「西のソウレンカイドウ」とわかれており、葬列がサンマイに向かう時に必ず通ることになっていた道だと言います。ソウレンカイドウに関しては大島以外でも見られることなので珍しいことではないです。
それぞれのソウレンカイドウは家や水田の間などを通っており、荷車も通れない細い道だったようですが、西のソウレンカイドウはほぼ消滅。東のソウレンカイドウはかろうじて今の道の形に整備され大部分が残っています。
東の端。住宅の北側に昔ながらの曲がった道があります。これが東のソウレンカイドウの道です。ここが唯一かつてのサンマイの名残ともいえるのかもしれません。
他地域のサンマイ事情
脇今安のサンマイ
北の山の麓付近にあります。
私は訪れたのですが、いまいち何所かわからず。
おそらくこの茂みの中のどこかなのだろうと思います。上写真右の山の中である可能性が高いです。
ただし、私が訪問した11月。まさかのオオスズメバチがこの付近を飛び回っており茂みには入れませんでした。非常に惜しい。無念です。この脇今安のサンマイは未だ整備の手が及んでいないはずの大島のサンマイでした。
脇今安では海岸寺の下の道で喪主が挨拶をしてソウレンカイドウを通ってサンマイへ行ったそうです。
今でもその場所で霊柩車に棺を載せると言います。ハカは昭和五十四年に宮留と同じく海岸寺に移転。ちなみに海岸寺はこの脇今安にあります。
この海岸寺に隣接してお堂があり、県と町の文化財である阿弥陀如来立像や聖観音像、十一面観音像が安置されています。平安時代の物だといいます。(説明板があります)
この阿弥陀如来、聖観音、十一面観音。なんだか気になる組み合わせですね。元々の配置がどうだったかが凄く気になります。
西村のサンマイ
ここもサンマイ自体には行けませんでした。おそらく山の上にあるのだろうと思います。ただし、葬送の地である証明を見ることはできます。
道沿いに六地蔵。石塔。三界萬霊塔と書いてあるのでしょうか。
そして斜面には不思議な飾り物や小さな塔婆、湯呑、花筒などが置かれていて、又は散乱していました。
位置的にはサンマイの真下に当たります。
日頃上まで行けない分、ここでお参りしていたのでしょうか。
『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』によると石塔に関しては個人の墓ではないといいます。また今もここで霊柩車に棺を載せ、喪主の挨拶をすると言います。
そのほかのサンマイ
浦底のサンマイは数件の集落の北西にあったようですが、いまいち場所がわからず・・・。確かに平坦な地はありましたが、ストリートビューで見ると古い写真に農業ドームのアーチが見えますし。よくわかりません。とおもったら、『ノヤキの伝承と変遷』という本に浦底の2017年のサンマイの写真がありました。なんと森の斜面の写真でした。斜面が土葬地って、そんな分かるはずない・・・。埋葬地は家ごとには決められていなかったそうです。
日角浜のサンマイはサンマイ周辺の土地が整地され、現地までの道が封鎖されていました。現存しているかは不明。
河村のサンマイはおそらく整地されていました。またはやぶの茂みの奥にあります。位置が曖昧なので不明ですが、サンマイの位置付近に広い更地がありましたのでそこかと思われます。埋葬地は家ごとに決められていたと言います。
葬儀埋葬についての概要
『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』による「昭和五十五年」の葬礼
死者が出るとまず檀家寺に連絡し、シンルイシンセキ地区の人に連絡を回す。
すぐにミウチが集まり湯灌が始まる。湯灌は桶に入れた湯に浸した布で体をふく。着物を着せ、額に三角の白い布をつけ、居間の仏壇の前に畳を跨ぐように茣蓙(ござ)を敷き、その上に布団を敷き頭が西を向くように寝かせる。
枕元に一本花(ヘンダラ)、線香、ヨツブダンゴを台に飾る。ヨツブダンゴはイワ役の女性が四つ団子を作り三角形になるように積み、本葬まで毎日取り換える。死者を囲うように屏風を立て、屏風には死者の一番いい着物を後ろ向きに干す。血縁でないものが神棚を半紙で隠す。
僧侶が到着し、マクラギをあげる。シンルイシンセキや地区の人も参加する。その後クヤミを行う。死者の枕元の台に水、お茶、ローソクを置く。クヤミに来た人がそれぞれマクラギの際に出した水を綿に浸し、死者の口に当てシニミズをあげ線香をあげる。
本葬まで毎晩、死者に付き添って家族やシンルイがヨトギをする。線香やろうそくは絶やさないようにする。
本葬の日取りをし、男性は葬式や道具の準備、女性は炊事などを行う。
男性は喪主の家を整え、ガンバコ(棺)・提燈・天蓋・花飾り・花筒の道具を作成する。喪主家の玄関両側に細い竹を二本立て、上部を編んでアーチ型を作る。棺は「ガンバコ」といって、人間が入る程度1m四方の縦長の棺。大島には木材店がなかったため、昔大橋が無かった頃は船で本郷まで買いに行った。主に杉を使う。天蓋は鳥のような形で銀紙金紙を貼る。一番上に竹細工。すべての準備を整えるのに2日を要した。
埋葬の穴掘りは男性の仕事。シンルイシンセキの男性四、五人、少なくとも三人で行う。穴は死亡した次の日くらいに掘りに行く、穴を掘る際、年配の男性が一緒にサンマイに行き「ここは以前埋葬した場所に近いからもう少しこっちを掘れ」など指示を出す。この地区(もしくは時代)にはサンマイに家ごとの区画はない。雪が積もっていると木を目印にした。棺がちょうど納まるくらいに1m以上掘る。
女性は炊事、花など死者への供え物の準備、花篭で撒くお金の準備をする。花篭で撒くお金は一つ一つ半紙で包んでおく。
本葬の前日に納棺する。納棺の際、笠・杖など死者が大事にしていたものや裁縫道具を一緒に入れる。蓋は置くが釘はまだ打たない。
本葬は早くて十時くらいから遅くて十一時から始まり一時間程度で終わる。大きな家では僧侶の控室としてシンセキの家を借りる。ソウレンで葬具を持つ人は額に白い三角布をつける。花篭の人はつけない。
本葬はオコウゾリ、生前の懺悔の経、仏弟子になる経、十の念仏、偲びの経、送別の鳴り物、往生祈願の経、弔辞弔電、導師の示す教え、阿弥陀の念仏、出棺の順。棺の蓋を閉ざす経をあげているときに家族やシンルイがトンカチでくぎを打って蓋を閉める。血の濃い者から順番に打つ。最後に喪主が釘を打ち込んで終える。
出棺後、十二時過ぎにはサンマイにつく。出棺時イワ役の女性が死者が使っていた茶碗を割る。「もう帰っても食事はない」という意味があるという。喪主家からソウレンを組みソウレンカイドウを通る。松明、旗(四本)、花籠、導師、役僧、花筒(四つ)、写真・位牌、お膳、灯篭、棺、天蓋の順。
血縁で持ち物配置がある。喪主は棺に付き添うだけ。地区の人で参加している女性はゼンノツナという棺に巻いている白いひものような木綿を引いていく。
サンマイ手前のソウレンカイドウにある広場につくと挨拶をし、花籠でお金を撒き、キャラメルを配る。身内以外はここで引き返す。花籠で地面を突くとお金がまかれる仕組みになっており参列者がそれを拾う。ここでイワ役の女性が藁に火をつけて送り火をする。
サンマイにつくと僧侶が経をあげ、棺を穴の中におろす。喪主が最初に土をかけ血の近い人から順に土をかけ埋める。少し土盛りができるようにする。サンマイまで持ってきた天蓋などの葬具は土盛りの上に積み重ね一番上に天蓋を置く。お膳なども置いていく。帰りもソウレンカイドウを通る。埋葬後はサンマイにはいかない。喪主家につくと塩で清めをする。サンマイへはハイソウマイリという埋葬翌日の一度参るだけであとは一切参らず、墓参りは「ハカ」だけに行く。
十三時頃に喪主家でシアゲをする。魚や酒などを食べ賑やかになる。葬式は夕方で終える。
本葬翌日に死者を寝かせていた茣蓙と布団を丸めて燃やす。屏風に逆さまにかけていた着物は洗って三日三晩裏向きで陰干しする。
四十九日まで一週間おきに僧侶が来て、シンルイシンセキの女性が集まり逮夜を行う。四十九日までに墓石を用意する。メイトバカでは死んでいない人は赤文字になっているのでそれを白くする。
『ノヤキの伝承と変遷』による「平成十三年」の葬礼
病院や施設で亡くなり、葬儀業者と檀那寺に連絡。湯灌はすでに病院で済ませてある。霊柩車で自宅まで運ぶ。
シンルイシンセキは連絡を受け喪家に集まり準備をする。死者に白装束、仏壇のある居間に頭を西向きにして布団に寝かせドライアイスと共に安置。周りに衡立を立て着物を逆さまにかける。枕元に水と脱脂綿、ヘンダラ、線香、ヨツブダンゴ。親戚以外が神棚に半紙を貼る。
僧侶がマクラギをあげる。葬儀社が火葬場に連絡し日時を決める。死亡翌日にシンセキがクヤミに来る。
葬儀までヨツブダンゴを毎日取り換え、線香の火を絶やさず、シンセキが夜間も死者の近くにいる。
シンセキが死者を棺に納め、杖や笠、六文銭の印刷された紙を入れたズタブクロを持たせる。居間の襖を取り払い部屋をつなげる。海岸寺に置かれている葬具(提灯・天蓋・花立・旗など)を取りに行く。大島の人で使いまわしている。
葬式は死後2,3日の場合が多い。友引と丑の日は避ける。式は11時から始まり1時間で終わる。
出棺・葬列は土葬と同じく葬列を組み旧道を通りサンマイ前まで行く。小銭を撒き、遺体を霊柩車に載せて喪主が挨拶をする。一般参列者は解散。小銭は10円~100円を半紙に包んでお盆に載せ、年配の親戚男性が撒く。霊柩車とい毒が乗ったバスは若狭霊場へ行く。
火葬場につくと、葬儀社とシンルイ・シンセキが棺を運び、炉の台車に載せる。手前に簡素な線香台を組み、膳、花を並べ僧侶が読経する中線香をする。焼香が終わると火葬場職員が棺を火葬炉に納め、子どもなどの血縁者などが職員の誘導で火葬炉裏に回り点火する。点火はチラシを丸めた筒に火をつけ、喪主から順にガスを出した炉内に入れる。
その後職員から火葬時間の案内があり、2,3時間ほどで火葬場へ戻り収骨。数個骨を拾いノドボトケは喪主が拾う。骨壺に納める。残った遺骨と膳は職員が納骨堂に納める。
火葬場から戻り、居間の祭壇に骨壺を安置し、周囲に小さな卒塔婆や花輪などを設ける。同日に初七日法要を行う。
シアゲを食べる。地元の仕出し屋の弁当に加え、サバやサザエ、アワビなど地元の物、漬物なども出す。
四十九日まで逮夜を行い、四十九日法要後にサンマイに遺骨を埋める。埋める際、シンルイがサンマイに穴を掘り、骨壺から遺骨を取り出して穴の中に納め、喪主を始め関係の近いものの順に土をかける。その上に小さな花輪を対で供える。以降サンマイへは行かず、ハカに参る。
アラブキ
『福井県史15 民俗』にこのような記述があります。
大飯町大島では、死後五十日たつとサンバクを帯にして、島山神社へ参り、前の海へ行ってサンバクを捨てて拝む。これをアラブキというが、これによって忌が明けたことになる。サンバクはサンビャクともいう云々
引用:『福井県史15 民俗』
※サンバクとは、越前ではチガイ、若狭ではスガイともいい、湯灌をするときに使う仕切り、目隠し、結界のようなもの。稲わらなどでできている。
葬儀にも関わっている島山神社。
村の重要な神社なのでしょう。
時代の流れ
ハカについて
さて今見てきた感じですと、大島の墓は元々集落ごとにあったものを一つにまとめていることが多いようです。
『ノヤキの伝承と変遷』によると、宮留、脇今安、畑村、日角浜の墓は海岸寺に集められ、河村は寺に移転、西村はコンクリで塗装または寺に移転、浦底は寺に移転。
殆どの墓が新しくなり、無縁仏も一カ所に集められたそうで、昭和59年の大飯町振興計画の「公衆衛生」「環境整備」「生活改善」の面で散乱していた墓地をまとめたのだそう。
土葬から火葬へ
時代の流れの最も顕著なのはやはり土葬から火葬への変換でしょう。
宮留のサンマイ撤去後は、遺体は火葬され納骨堂に納められました。
他地域も小浜市にある若狭霊場を使うようになりました。火葬への移行し始めたのは昭和49年(1974)と比較的早い段階で移行しているようです。原電開発の影響でしょうか。
浦底某家では昭和50年(1975)が最後の土葬だったようです。
『ノヤキの伝承と変遷』によると、宮留以外の集落も火葬になっていきましたが、サンマイとしての機能は継続していたようです。というのも、火葬後に遺骨を埋める場所、葬具や茶碗を廃棄する場所として使われていたのだというのです。骨壺も割っていたようです。
本には「サンマイは意味放置状態」であるというように書かれていますが、これはこれでありではないでしょうか。
というより、こうなった場合、不思議なことが起こっています。
他の郷土史では、火葬の際も両墓制の意識があるとして、土葬では「埋葬地=一次墓地」「石塔墓=二次墓地」という考え方と同様に、火葬では「火葬場=一次墓地」「石塔墓=二次墓地」であるという見解がなされていました。
しかしこの大島の火葬後のサンマイ活用の場合、一次墓地が二つあるような状態になるわけです。
いや、むしろ理にかなってはいますし、逆に墓に骨を入れるよりもサンマイ継続使用の方が違和感はないですが、葬制の考え方で行くとなんだか不思議な感じがします。
実際に『ノヤキの伝承と変遷』には「葬儀で使われた御膳を捨てる場所に、サンマイと火葬場の2つのパターンがある」と言い、まさに2つの一次墓地というような構造になっているように見えます。
家によっては火葬に移行した時点で石塔墓に遺骨を入れる所もあれば、平成になってから墓地に遺骨を入れるようになった家もあれば、平成24年の際にもサンマイに埋めた家もあるようです。
ニソの杜との関係は
ニソの杜は若狭大島半島の代表的なブランド化となりつつありますが、元々はひっそりと家々で行われていた信仰です。
これが「禁足地」だとかいうので、色々な分野の方々がこぞって注目し取り上げることになり、いまでは現地の方もニソの説明に成れたものです。むしろ現地の方からニソの話をしてくれるほどです。(私が訪問した時はですが)
そんなニソの杜が「古サンマイ」だという伝承があります。ニソの杜は先祖、大島開拓24祖神を埋葬した場所であると言う伝承です。
実際の所それが事実かどうかは不明なままのようですが、古墳などの跡地に建てられている場合があったり、菩提樹のような役割の果たすタモの大木があったりするようで、そこからなる説のようです。
ただしこれまた不思議なことですが、序盤で「詣り墓も茂みに多い」という話をしました。
『若狭の民俗』では、このニソの杜をサンマイの方ではなく「ハカ」つまり石塔の詣り墓の方であるという説を提唱しています。実際、宮留のかつての石塔墓があった場所にはタモの大木が茂っていました。
つまりニソの杜は祖霊神の詣り墓であるというのです。
一帯どっちなのか。それともどちらでもないのか。
そこは民俗学の本物の方々の書籍を見ましょう。
ちなみに実際に現地でご老人にお話を伺って、色々なサイトを見た超素人個人勢の私の意見を述べたニソの杜の別記事があります。その記事では最後に、素人の私がニソの杜について好き勝手書いています。
大島のサンマイ事情は深い
そんな感じで大島のサンマイ事情について見てきました。
ニソの杜信仰もある中で、昔ながらの土葬という形での葬送。そんな埋葬した土地を観光事業のために掘り起こした集落の歴史。それとは正反対に、火葬後サンマイへ遺骨を埋葬する家もある。
独自の信仰、日本の元祖の信仰が残る大島で、これまた独自に維持し続けた葬送事情を見ることができ、民俗学者たちがこの大島に目を付けるのもなかなか納得がいく気がします。
ちなみに↓が『ノヤキの伝承と変遷』。お高いので図書館にあれば図書館で見た方がいいと思います。若狭霊場の火葬炉裏や炉前、サンマイ、ハカなどの写真が載ってます。
参考文献
『ノヤキの伝承と変遷』
『大島半島のニソの杜の習俗調査報告書』
『福井県史15 民俗』
情報・協力
大島宮留の方
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