福井県越前市武生深草に飴買い幽霊で有名な通幻寂霊禅師の伝説が伝わっています。その伝説が伝わるのは、龍泉寺と言うお寺です。龍泉寺には通幻禅師のお墓もあります。
全国に伝説は存在し、島根県や京都が最近は有名でもあるようですが、福井県越前市にもこの伝説があるのです。
飴買い幽霊伝説
龍泉寺の開山
町の日は暮れた。各寺院から打出す鐘の音も何となく人々の心に哀を催させる時、大飴屋の入口の障子を細目に開けて飴を一文求める者がある。障子の間から出す手は白い細く痩せて見る影もない。飴を受け取ると音もなく静かに立ち去るのである。それが一昨日昨日今日と三日続く、いつも日暮れどきの人の顔のはっきりわからないときで買う飴も一文に限られている。障子を極く細目に開けて僅かに手を出すだけで、誰も姿をはっきり見たものはない。声もはっきり聞いたものもない。それに確かに受け取った筈の銭が、翌朝に見ると一枚の木の葉であった。店の人々はいったい何者であろうと不審を抱いていた。その翌日も又いつものように買って行った。店の人は何となく気味悪く思ったが、一人気丈夫な男があって直にその後をつけてみた。意外にもそれは女であった。しかも風に吹かれて西の方へ行く、立ち並ぶ家もまばらになって、遂に片方は竹藪になっている田園の道にさしかかった。跡をつけた男も不思議に思った。もう家もありそうにない、淋しい道を一体どこへ行くのであろうと。影のような女は相変わらずフラフラと西の方へ歩み続ける。男は勇気を出して、なおもつけていくと彼所に小さな寺が見えた。女は墓場の方へ行ったかと思うと、かき消すように見えなくなった。流石の男も全身水を浴びた様にゾーッとして、思わずお寺の中に駆け込んだ。顔は真っ青になり呼吸は迫って「水を水を」と言うのみである。ようやく一杯の水に人心地ついて、寺男のたずねるままに今までの出来事を残らず話した。住職もその話を聞いて不思議に思い藪の墓場に来てみると、何所からともなく赤子の泣き声がかすかに聞こえてくる。不思議に思って声をたよりに来てみると、四五日前に葬式のあった妊婦の墓の中からである。早速掘り出してみると、玉のような男の子が乳を求めて、火のついたように泣いている。そのそばには今買って来たばかりの飴が、竹の皮に包まれて置かれてあるではないか。あまりの出来事に住職は、其の男の児を手許に置いて育てる事にした。その児が成人して名僧となり、武生町の名刹として知られている龍泉寺の開山となられたという。
龍泉寺は曹洞宗總持寺末で深草にある。開山は、通幻禅師、寂霊と名号す。同寺には家康秀忠秀康の木像及び本多家代々の墓がある。
引用:『福井県の伝説』
有名な飴買い幽霊の話はこちらの伝説になります。
全国にあるのもこんな感じの話なのでしょうか。
飴買い幽霊は通幻禅師以外にも語られる伝説ではありますが、代表的なものは通幻禅師で、飴買い幽霊でなくとも、亡くなった妊婦から生まれるという話は共通して語られているようです。
この伝説に繋がって、「武生では夜に飴を売らなくなった」ということもあったようですが、そこの部分は後付けなのかもしれません。
また、他にもそれに続く話として、
死者から生まれた通幻禅師は口臭に悩まされていた。なので口臭予防として梅干しを好んで食べた。
という伝説も残っているようです。これは実際、梅干しを好んでいたのは本当だったらしく、今でも龍泉寺では供えられます。
『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』では、この伝説で出てくる墓場を、「深草廃寺」の墓地であるとしています。深草廃寺は龍泉寺がある場所にあったとされ、廃寺後はそのままに、墓場だけが使われ続けていたとされます。
龍泉寺からは古い寺の瓦が出土していることもあり、裏付けもされています。
廃寺の古くからの寺の墓があったころと言うのは、この周辺はまだここまで住宅などなかったということなのでしょう。

飴屋があったのは、話によると総社の通りの南へ進み、大通り交差点を直進した先の通りだそうです。
今は無くなっているようです。このあたりが昔はメインの街だったという事なのでしょう。今では駅前の方に移っていますが、昔はもう少し南の方が街中の中心地だったのかもしれません。
通幻禅師の出生伝説
通幻禅師は、龍泉寺の伝説によると、この深草廃寺の墓場で生まれ、その後その場所に作られた龍泉寺に埋葬された。とされています。つまり、『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』の言葉を借りると、「亡くなった際も生まれた場所に埋葬された」ということです。
龍泉寺で入寂されたという話は実際に伝わっているようで、その時の様子が詳細に書かれているので、その一部を簡単に後で紹介します。墓も実際にあります。
ただし、出生については不明点が多いということで、出生地以外にも出生の逸話がそれぞれ異なっていることも通幻禅師伝説の特徴です。
通幻禅師の出生伝説については、飴買い幽霊以外にも語られているところがあります。
- 京都の武士の子で、母は懐妊後に死亡し埋葬。その後、この墓から赤子の泣き声が聞こえて父が掘り返し、保護したが、父は通幻二歳の時に死去、その後祖母が育てた。後に自分が父母がいないことを祖母に聞き、祖母は過去を話し、通幻は父母に報いるため出家した。
- 姓は藤原氏、豊後国国東郡武蔵郷出身。母は子どもが欲しかったので仏塔に参って、聖者を生むことを祈った。その後夢を見て懐妊したが、生む直前に急死、埋葬した。その後廟のそばで赤子の泣き声がして、父が掘り起こし、赤子を取り出す。占い者がこの子を見て驚き、「この子は非凡で、法器となる。人が聖子を産めば、母は死ぬと昔から言う。」と言った。幼くして賢く、十七で豊後の大光寺に入った。
- 俗姓を永沢家光といい、因州磯崎の人。母は懐妊後死に埋葬され土の中で生まれた。成長後母の菩提を弔い、仏乗を志した。
いずれも、細川頼之が丹波に永沢寺を作り通幻を開山に、永徳二年に總持寺に戻り、至徳三年に越前の刺史が龍泉寺を建て第一世を通幻に、嘉応二年總持寺に戻り、明徳二年に七十歳に死んだとする。
その他、
通幻は京都の生まれで、姓は源氏、因州細川氏の子孫である。
とある家に太郎丸、次郎丸と言う兄弟がいた。太郎丸は京都に出た。偶々帰省した時に、岩淵長者の一娘というものと通じた。その後、太郎丸は京都へ帰り、娘と別れた。その後、一娘は病気で死に、父母は嘆き、家に塚を作った。これをツゲサイ、「土葬神」「通幻斎」と書く。旧跡は今も残る。
太郎丸が京都に住んでいると、突然一娘がたずねてきた。娘は心こもってしをするので、これを拒まずに受け入れ、妻とした。三年後、子どもが生まれた。これが通幻である。
あるとき娘はため息をついて、「父母に家でしたことを詫びたい。一緒に来てほしい。」と頼んだ。二人は子どもを連れて因州へもどった。長者の家につくと、「私はもうさん年も家出して顔向けができない。先に入って話してきてほしい。私はこの塚の上で待っています。」といったので、太郎丸だけが長者に会い話をした。すると長者は、「娘は三年前に死んでいる。」といった。太郎丸は、「娘さんは外で待っている。」といったので、長者は信じなかったが下男に見させた。娘はいなかったが、墓の上で赤子が泣いていた。太郎丸は亡魂と世の縁が尽きなかった結果だと知った。長者は「この子は娘が生んだ子だ。ここにとどめて家系を継がせる。」といった。太郎丸は一人で京都に戻り翌年死んだ。その後長者も死に、祖母に育てられた。通幻は七歳の時、父母のことを祖母から教わり、冥福を助けるために出家することを請うた。祖母は喜んで許した。
参考:『越前若狭の伝説』より『通幻禅師行業』
美男子の京都の商人が大家の家に入った時、うるわしい少女がおり、なれなれしく声をかけ、しきりに「ほやの」という。商人は気を悪くし、少女を殺した。父母が帰ってきて事情を話し、「ほやの」とは「恋慕した」という国の言葉だったという。父母は娘が執着したその男を形見と思い、家をやるからここにいてくれと頼んだ。その夜から娘の亡霊が来て、男と交わった。一年ばかりして、赤子の泣き声がした。父母が怪しんで声のする方向へ行くと、娘を葬ったところに至った。墓を掘ると赤ん坊がいた。父母はこれを養った。これが通幻である。
参考:『越前若狭の伝説』より『越前国名勝志』
通幻が胎内にいた時、東海道の小夜の中山で、母が浪人に殺された。死体から生まれ乳を吸っていたところを近所の刀研屋に拾われた。二十五年後、かの浪人がその研屋に刀を持ってきた。その時、昔中山で女を切ったのだと懺悔し始めた。子供が聞いており、「お前が母の仇か」と、研屋にその刀を貰い受け、それで母の仇を打った。親の菩提の為に彼は即出家し、峨山和尚の弟子となった。その刀は大野城主土井家に今もある。
参考:『越前若狭の伝説』より『越前国名勝志』
『武生市史』にも、龍泉寺付近にあった元の寺の墓の土中から生まれたという『帰雁記』の記述と、中山道中で母を殺され刀研屋で育ったという『古今類聚越前国誌』が掲載されています。
このように様々な伝説があります。
ただいずれも共通するのは、死体から生まれる、亡霊から生まれるという点です。
死者からの出生が何を意味するのか。
やはりそれは神秘的な意味があるのか。特別な人だということを伝えたかったのか。それとも信仰的な意味合いで、何か重要な意味が込められているのか。そこのところ勉強不足なので分かりません。
仏教は死後に重点を置いている宗教であるという印象で、その「死」をつかさどっているという意味合いでも、死体から生まれたということは重要なことなのかもしれません。ただし曹洞宗はどちらかと言えば生前、いわゆる現世利益も重要視する宗派です。では「死」と結び付けすぎないほうがいいのかと言うとそういうわけでもないと思います。これは私個人的な思想にもなってしまいますが、「死」を知っているからこそ「生」を全うできると思います。通幻禅師はそういう意味では、宗教界を志す者にとって、理想の存在だったのかもしれません。
話は変わりますが、鳥取の岩淵長者の屋敷跡の塚である、「土葬神」「通幻斎」は現在も残っているということなので調べて見たら、山陰本線沿いの集落にあるみたいで、駅も近いようです。近々鳥取へ行く予定があるので、都合が合えばついでにここも訪れようと思います。
飴買い幽霊の伝説
飴買い幽霊、子育て幽霊というジャンルの伝説は、実は通幻禅師だけではありません。
福井にも他にあるのです。
例えば大野の明倫、小浜の湯岡、福井の宝永、福井の浅水、美山町。
もちろんこれらは通幻禅師ではありません。中には飴屋がはっきりとしないものもあります。
これは通幻禅師の伝説から派生した、一種の伝説の「ジャンル」になったのだと思われます。
中には、このジャンルの伝説に影響を受けて、自分の寺、あるいは飴屋を有名にしたいという、そういった考えのもとで広がっていったのではないかと、私個人的には思います。
それが悪いとかどうとか、または、あれは偽物だとか、そういうことを言いたいのではなく、伝説が伝わっている以上それは正真正銘地域の伝説であり、伝え続けていかねばならないものとなっています。
ただその背景にある物を考えると面白いですよね、と言う話です。
またほかの地域を見てみると、『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』の中には、金沢の飴買い幽霊の話との関連付けがされており、府中と関係の深かった金沢(前田利家は元々府中領主だった。柴田勝家との府中での最後の面談は名場面。)、飴屋も付中から金沢に移ったともされるようです。
また、私のようにひねくれた考えとは違って、『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』には、もっと当時の現実、経済的な考察がされています。
飴屋がある伝説が語られるのは、いずれも城下町や門前町、商人町だったということです。それはある意味、当時で言う裕福層の町でしょうか。当時の経済が、庶民にも恩恵がいきわたり始めた時代ともいえそうです。元々は、「子育て幽霊」だったのが、そういった経済の時代背景から、「飴買い幽霊」になったと、そう考察されていると捉えて良いかと思います。
伝説の時代背景
やはりこの死者からの出生について、現実路線で行くと、なぜこんな伝説が伝わった入るのか、本当なのかあくまで伝説なのかは別にして、こういう話が語り継がれてきた背景には、かつて日本の殆どは土葬だったということが上げられるのでしょう。
曹洞宗ということで、土葬。ということにも確かになるのですが、伝説の中には庶民だったり、商人だったり、一般の武士という感じが多いようです。むしろ上流階級になると火葬になったりすることが昔はあったようなのですが、この階級なら、時代的に土葬が一般的だったのでしょう。親鸞や蓮如が歩いた越前が庶民も土葬だったのかと言うと、それは確かに違いますが、丹南地区は例外です。大野もですけど。
越前和紙の有名な今立あたりでも近年まで土葬だったという地域もあります。
この辺りは、嶺北北部や勝山辺りとは違って、土葬があったのです。
鳥取辺りも近年まで土葬でした。
そう考えると、この妊婦の死者を埋葬し、そこから生まれる、というのは、ありそうな話だったのでしょう。
また、土中出産ということ自体、仏教的な意味合いが強いのか、参考文献『通幻禅師と龍泉寺』にも書いてありましたが、古くから周辺が廃寺などがあり、「浄域」だったのではないかとも思われます。
現実的な話
通幻禅師の出生について
通幻禅師は1322年から1391年の人だとされます。
『大本山總持寺第五世五院妙高庵開基 通幻寂霊禅師とその門流』を見ると、生まれた年が元亨二年(1322)だと分かるのは、遺偈の文言に「満七十年」としたことから逆算したものであると言います。ただこれについては、あくまでも数え年であると解釈のようです。
同世代は、吉田兼好、観阿弥などがそうであるようです。
出生の年はわかっても、出生地は明らかになっておらず、伝説でもあったように、豊後武蔵郷(大分県)、京都、丹波(兵庫県)、因幡(鳥取県)、越前武生(福井県)とされているようです。『大本山總持寺第五世五院妙高庵開基 通幻寂霊禅師とその門流』で記される最有力候補地は、豊後武蔵郷説で、その根拠に、『通幻大和尚喪記』に「豊後州武蔵郷人事」、『總持寺住山記』に「豊州の人事」とあるからだと言います。それでも確定は出来ず、あくまで説であるということには留意します。
通幻禅師と武生龍泉寺
当府中領主藤原義清が總持寺三世通幻寂霊禅師に帰依し、応安元年土木を起こし一大殿堂を建立し、禅師を請して開山第一世とす。
引用:『武生市史』
これは、『大本山總持寺第五世五院妙高庵開基 通幻寂霊禅師とその門流』によると、通幻禅師が能登總持寺と摂丹境永沢寺を行き来している時に、この武生で一休みした。そこで越前国司の藤原義清が帰依したのだということです。通幻禅師六十五歳のこと。
通幻派は通幻十哲を生み出し、その多くはこの越前にゆかりのある人であるとされます。
一番身近なところで言うと、夜叉が池伝説に繋がる、南越前町小倉谷の慈眼寺です。
さらに、戦乱で荒廃した永平寺を再興しようという機運が起こったのも、この龍泉寺を拠点に通幻派によって起こりました。
大本山總持寺系統のお寺で、大本山永平寺の再興が起こるというのも、私のような素人目からしたら不思議なことだなぁと思う所です。
入寂
明徳二年(1391)通幻禅師はお体の不調を覚え龍泉寺に静養されていた。五月五日端午の節句の日。一山の僧を集められ、最後の垂誨をされた。
「吾れ去って後、汝等諸人まさに万縁を屏息して一大事を究明し、洞上の玄風を地に墜ちざらしむべし。もし文字語言、名聞利養に貧著せば我が徒に非ざるなり。時至る。吾れ逝かん」
禅師は筆を求め、遺偈をしたためられた。「甲子を算計するに満七十年。末後の一句、両脚天を踏む。」
同日午後一時すぎに禅師は亡くなられた。お墓はお生まれになった場所に建立された。
引用:『通幻禅師と龍泉寺』
『大本山總持寺第五世五院妙高庵開基 通幻寂霊禅師とその門流』によると、その夜、弟子たちにより、遺体の沐浴浄髪、通夜が行われて翌日入棺。五月十日に葬儀が修行されたと言います。
葬儀の喪主は總持寺現住の梅山聞本禅師。總持寺の僧侶が龍泉寺に集まり執り行われる。翌朝に仏舎利を収め、永沢寺と龍泉寺に分骨。開創の四ヵ寺と、十哲に遺品をわけたといいます。
最後の言葉まで残されたようです。
さて気になったのは、遺骨を分骨したという点です。
私はこの本を見るまで、てっきり土葬されたものと思っていました。しかし分骨したということは火葬したということで間違いないかと思います。
調べると、道元も荼毘に付されたということなので、やはり位の高い人は火葬だったのですね。
ただこの位の高い人が火葬であるというのは、もしかしたら天皇家や僧侶に限った話ではないかとも思うのですが、どうなのですかね。武士は土葬だったような気がします。龍泉寺の本多家墓所も土葬であるとお聞きしました。
そこの境界線がはっきりとしません。勉強不足で申し訳ありません。
通幻禅師の厳しすぎる逸話「叢林の三美談」
文字点検(もじてんけん)
文字点検とは、文字に関わる一切を厳禁されたことである。通幻禅師は自ら五日に一度諸部屋を巡られ、雲水の所持物の中に書物や筆、硯などあると没収され焼却してしまったという。これは雲水が文字言句にとらわれて座禅に没頭できなくなるのを深く慮られたからである。
引用:『通幻禅師と龍泉寺』
『大本山總持寺第五世五院妙高庵開基 通幻寂霊禅師とその門流』によるとこれは、僧が修行に打ち込めなくなってしまうのを防ぐための通幻禅師の親切心だったということです。
文字が書けることが、エリートというか、学歴のある人間とされていたはずの古い時代(この時代がそうかはわかりませんが)、それをあえて封じるというのは、なんとも、私から見たら恐ろしく見えてしまいます。
当時の僧がどう思っていたのか。しかしここまで偉大だと、素直に従ったのでしょうか。
正直日記とかがあれば、当時の様子を今でも感じることができたのになとも思わなくはないです。
活埋坑(かつまいこう)
山門の傍に大きな穴を掘って、新しい修行僧が入門を願いに来るとそこで挨拶を受けた。修行者の真剣な態度を見て取れば受け入れるが、万一ふまじめな者であれば忽ちその穴へ蹴り込んでしまったという。
引用:『通幻禅師と龍泉寺』
あるいは、穴の前で問答を試みて、意に適わないものを埋めたと。
要は、生きながら埋めてしまったようです。
怖すぎです。
土の中から生まれた通幻禅師…。とても土中に縁が深いと見えます。いろいろな意味で。
当時でもこれは恐れられていたようで、名が広まったといいます。
これが逆に、本気の者たちを集めていったとしています。それが後に通幻十哲などの名僧を生み出していくということになるのでしょう。
同門沙汰
峨山禅師の弟子の「二十五哲」のうち、十四名を追放したというもの。理由として、「瑩山禅師及び峨山禅師の遺誡に違背したから」というものだったようです。
同門下の、同門兄弟に対し、護持運営に非協力的だったからという理由で追放したということです。
これは事実なのかどうか不明な部分があるもののようで、実際にそんなことまでやるのか、ということと、資料も不明であるということです。
これは通幻禅師の厳しさから生まれる逸話であるとされています。
しかし、では、文字点検と活埋坑は本当だったのか、とこれを書いている私は驚いています。とくに活埋坑。これ本当だったなら怖すぎです。
龍泉寺
通幻禅師の墓
幻霊の塔ー通幻禅師の墓
龍泉寺墓域の北西一番奥まった所に開山通幻禅師の墓が、歴代住職の墓と共に建っている。
雨露を防ぎ参拝できるよう屋舎をつけていて、卵塔で台座には万治三年(1660)七月に当寺の輪番住職第二百六十六世(石屋派)の代僧、蘭室なる和尚がこれ(台座)を寄進せりと刻まれている。現在も通幻派の流れを汲む僧侶が全国より、時折参拝に訪れる霊域である。しかし最近、周囲の開発が進んで世俗の紅塵が到るようになったのは少々残念である。
尚、寺伝によれば、亡くなって埋葬された母君よりお生まれになられた場所も、この墓域であるという。
引用:『通幻禅師と龍泉寺』

歴代住職の墓の先に、建物があります。


通幻禅師の墓です。
卵塔という点は他の墓と変わりませんが、その様子は特別な感があります。
古い墓なので、石材も興味深いです。
梅干し伝説の欄間
先ほど話した梅干しの話です。
『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』によると、通幻禅師は師匠の峨山禅師に口臭のことを相談したようです。それで、「毎朝梅干を食べなさい」と言われ、そうしてきたのだそうです。
そして現在でも梅干しは供えられ続け、植樹までされて、梅干しを作ることが現在の住職の仕事の一つなのだと言います。

龍泉寺のお堂の上にある彫刻。
通幻禅師に梅干しを差し上げる了庵禅師。なのだそうです。
言われないと気付かない場所にあります。しかしこうして伝説の一部が表現されて現代に存在しているというのは素晴らしいことです。
乳貰い地蔵

通幻禅師の伝説から作られた地蔵。
龍泉寺内にあります。伝説を知ったうえで見ると、とてもしみじみとしてきます。
戒壇巡り
戒壇巡りは一度死の世界を味わうことに意味があります。いろいろな場所でも行われています。
しかし、この龍泉寺の戒壇巡りは特別感があります。それは今まで見てきた通幻禅師の伝説に絡むからです。
龍泉寺を開かれた通幻禅師は、埋葬された母親の胎内からお生まれになりました。まさに地下(死の世界)からこの世に生まれてこられたのです。
このようなことから龍泉寺独住二十九世の山口栄章方丈は通幻出生の勝躅を慕い、昭和五十年本堂の再建に際して、地下に約四十メートルに及ぶ戒壇巡りを築きました。
引用:『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』
これはつまり通幻禅師を体験できるということなのではないでしょうか。
まさに通幻禅師のお寺で、体験すべきものである。私はそう思います。
幽霊飴
以前、朝倉製菓という、武生にある菓子屋さんで、子育て幽霊飴と言うのが売られていたようです。
これは、資料にも載っていますし、今ネットで調べても、朝倉製菓さんのXアカウントで数年前に投稿がされています。
現在売られているのかは不明ですが、公式サイトでは幽霊飴を探しても見つからないので、おそらく今は販売していないものと思われます。
母というものは…
今回は子育て幽霊、飴買い幽霊と通幻禅師の話でした。
通幻禅師の偉大さは、当時にしてはとんでもなく強大なものだったのでしょう。
そして私は伝説を見る側の人間なので、伝説の方を重点的に見ていきますが、この子育て幽霊と言う伝説。なんという話でしょうか。これは宗教的な意味合いが込められているものでもあるとは思いますが、伝説単体で見ると、母の偉大さというものを思わせてくれる話だと思います。
母というものは、子どもに対して、愛というものを教えてくれる存在だと思うのです。愛とは人間にとってのもっとも重要なものです。愛がなければ人間は腐ります。人間の基礎ともいえます。その人間の基礎である愛を教えてくれるのが、母という存在なのです。
まさにこの子育て幽霊、飴買い幽霊というのは、そんな人間の愛を教えてくれる話です。それは伝説の中で、我が子に愛を教え、そして話を読んだ我々にも愛を教えてくれる。
母とはなんと偉大な存在なのか。
参考文献
『福井県の伝説』著者河合千秋 出版昭11
『雪泥鴻爪 知られざる禅門の逸話』著者山口正章 出版平成11年4月1日
『越前若狭の伝説』著者杉原丈夫 出版1970
『武生市史 資料編 第8 (社寺の由緒)』出版1987.2
『通幻禅師と龍泉寺』著者山口正章 出版1988.06
『大本山總持寺第五世五院妙高庵開基 通幻寂霊禅師とその門流』著者山口正章 出版令和3年5月5日
『日本伝説大系 第6巻』出版1987.7
協力
龍泉寺
基本情報(アクセス)
| 最寄り駅 | ハピライン武生駅又は福井鉄道新たけふ駅から徒歩17分 |
| 自動車 | 武生ICから14分 |
| 駐車場 | あり |
龍泉寺にはその他、龍の牙なるものがあります。
龍泉寺の新春祈祷法要 「龍の牙」御開帳と伝説【福井県越前市】



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