馬居寺に伝わる聖徳太子・愛馬黒駒伝説と秘話 ~福井県最古の寺【高浜町】

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馬頭観音像お堂

聖徳太子
日本にとって、特別な存在であるこの人物。
福井県若狭地方のあるお寺には、その聖徳太子と愛馬甲斐の黒駒伝説が伝わっています。

春。実際に訪れ、伝説や境内、そしてお寺の方が実際に体感した霊験など、たくさんのお話を聞かせていただきました。

今回は、聖徳太子と黒駒伝説の伝わる馬居寺と霊験、観光案内では載らないようなお寺の秘話を紹介します。

花見の特集は、桜や彼岸花などの名所・穴場のまとめ記事があります。

>>【福井県】桜の名所・花見スポット -有名から穴場まで情報一覧

>>【福井県】彼岸花の名所・穴場スポット一覧情報

>>【福井県】紫陽花の名所・穴場を紹介。梅雨の風物詩へ出かける

※当記事がそのページの場合があります。

意外と近くにも、名所や穴場があるかもしれません。

本光山馬居寺

まずは、馬居寺について知っていきましょう。

本光山馬居寺

福井県大飯郡高浜町馬居寺にある、高野山真言宗「本光山馬居寺」(読み方は「まごじ」)。

  • 北陸三十三ヵ所観音霊場の第2番札所
  • 若狭観音霊場の第30番札所

創建は1400年ほど前の飛鳥時代聖徳太子による創建と伝わり、福井県内最古の寺院です。
本尊馬頭観音坐像

「馬の居る寺」と書いて馬居寺です。
「本光山」という山号も重要で、これは伝説に由来すると言います。後に伝説の章で記載します。

木造馬頭観音坐像と観音堂

馬居寺の本尊、木造馬頭観音坐像平安時代後期のもので、国の重要文化財
馬居寺観音堂に祀られています。

観音堂へは寺標の後ろにある「観音坂・もみじ坂」から行くこともできますし、車道から行くこともできます。

観音坂・もみじ坂

この観音坂は結構急勾配で、地面が濡れているときは滑りそうな予感もします。(特に下りがすべりそうです)

足の悪い方は無理せず車道から行くことをお勧めします。

階段や坂を登っていくと、観音堂につきます。

観音堂

かなり歴史を感じる立ち振る舞い。

こちらは旧観音堂天明6年(1786)に建立されたもので、町の指定文化財となっています。
現在はその後ろに、新観音堂が平成14年に建立されています。

新旧観音堂

現在は新観音堂に像が祀られていますが、旧観音堂から拝む形となります。

ここに祀られる平安後期の馬頭観音像について、お話によると、像の蓮台の花弁が3層になっており、そこから平安以前の時代を現していると言います。
像は100cm(1メートル)肱幅62cm坐像にしては大きな印象です。

お寺の創建は飛鳥時代ですが、今祀られている馬頭観音坐像は平安時代のものなのです。

お話によると、この坐像は近年まで彩色が施されていたと言います。しかし、その彩色は江戸時代の修理の際に塗られたもので、近年ひびなどが入っていたとされ、本来の姿ではありませんでした。そのため、それまでは県指定文化財の座にとどまっていたと言います。

そして近年、京都の方で修繕され、色を落とし、本来の姿によみがえりました。その後昭和55年(1980)に国指定重要文化財になりました。

秘仏であるため見ることはできません。
24年に一度、午年に御開帳されます。次の公開は2026年だそうです。

ただ、境内に写真は掲げられています

旧観音堂外観

旧観音堂の方に馬頭観音像の写真はありますが、お寺の方には修繕前の写真も一緒に飾られていました。見比べたい方は、事前にお寺の方へ連絡して予約いただくとスムーズにいくと思います。

ちなみに、この馬頭観音像の実寸大レプリカがJR東小浜駅横にある福井県立若狭歴史博物館に常設展示されているそうです。

聖徳太子・黒駒伝説

馬頭観音像お堂

さて、ここから伝説を見ていきます。

この神聖な土地。
日本を代表する、聖徳太子黒駒の伝説がここ福井県にも伝えられているのです。

例の如く、2パターンの伝説があります。
このどちらも見ていこうと思います。

パターン1「黒駒の嘶き、光明が太子を呼んだ」

太子が諸国巡礼の際、若狭国高浜の海岸で休んでいた。すると黒駒の姿が見えなくなった。
皆は不思議に思いあちこち探した。その時、山の上の方で馬の嘶(いなな)きが聞こえた。そちらを見ると、嘶きと共にまぶしい限りに光り輝いていた。
「あれはなんだ。」「後光が差しているようだ」と皆がいうと、太子は
「あそこは観音様の霊地である」
といい、その場所へ行った。
太子は塔を建て、本尊を祀った。そして寺を建てるよう命じた。これが本光山馬居寺である。

参考:『若狭高浜のむかしばなし』『わかさ高浜史話』

まず一つ目です。
こちらが結構目にする方の有名な伝説です。

これが、「本光山」の由来とも言います。

聖徳太子一行が和田浜で休憩中に愛馬黒駒の様子が見えなくなって、嘶きと共に輝いているという話。

今でも和田海岸は美しい海で名高い景勝地ですが、当時もそうだったのでしょうか。

「嘶きと共に輝いている馬」は、話の流れから察するに太子の黒駒なのでしょう。
太子の黒駒は飛翔伝説もありますし、霊馬という扱いですからここで輝いたのも太子の黒駒と思っていいと思います

今回馬居寺さんにて、お話を聞かせていただいたときの伝説もこのパターン1の方でした。

しかし、そうでない伝説のあるようなのです。
それが次のパターン2です。

パターン2「霊馬に呼ばれ、黒駒に導かれた太子」

推古天皇(554~627)飛鳥時代に聖徳太子は、天下の風土を知るために秦河勝を従えて、甲斐の黒駒に乗り、諸国巡行をしていた。
若狭の海辺(和田海岸)に至る時、南嶺(馬居寺裏山)の麓に来て馬が頻りに鳴いていた。太子の黒駒がそれに応えて鳴いた。太子は奇異の思いで、馬の行くままに任せて山間に入ると、大木の下で霊馬が嘶(いなな)き、光明を放ち霊香馥郁としている。太子は下馬し拝す。たちまち観音薩埵の尊客を現し、雲中に飛び去る。そこに香木が残った。太子はこれを使い自ら馬頭観音像を彫刻し、伽藍や僧坊を造営。
霊馬のいたところを「馬居寺」とし、光明があったので、「光明山」とした。
しばらく太子は馬居寺に滞在し、若狭を治めていた。そのうち、膳臣加多夫子の娘、膳部菩岐々美郎女を妃にむかえた。

参考:『若狭和田郷土誌』

これまた少しニュアンスの違う話です。

パターン1との違いについて、以下のことが挙げられます。

  • 浜で休憩はしておらず、黒駒もいなくなっていない
  • 太子は黒駒に乗っている状態で山に入っていく
  • 黒駒とは違う霊馬がその地で輝いていた

黒駒が霊馬を感じて、太子を霊地まで連れて行ったというのが、このパターン2の伝説のようです。

あまり聞かない方の伝説ではありますが、こういうパターンもあるのです。

ただ、どちらにしてもこの伝説では「太子の黒駒」が最重要な立ち位置にいるようです。
この馬居寺の伝説は「太子の黒駒の伝説」といってもいいかもしれません。

「本光山馬居寺」というお寺の名前でもあるように、霊馬黒駒伝説の聖地ということで、その名に相応しいのではないでしょうか

 

さて、神聖な伝説の伝わる馬居寺には秘話や世にも不思議な話が数多く伝わっています
ここからは、様々な秘話、霊験を取り上げていきます。

境内の秘話

ここからはほとんどが、今回取材させていただき、直接お話をお聞きして知ることのできた話になります。

観光案内やパンフレットでも語られることのない逸話が沢山あります。

本堂横「モミの木」の霊験

まずは私が一番衝撃を受けた話です。

観音堂とモミの木

旧観音堂横に大木が斜めになり生えています。

これは、この地の御神木です。
この神聖な御神木には、つい最近の話でも伝説並みの話がありました。

以下、ご住職方々のお話より…』
 観音堂正面右に御神木のモミの大木があります。その木は、観音堂の方に傾いて立っています。
 これは2,30年前の話。ある人が、
「モミの木が観音堂の方に傾いて倒れるとまずいから伐った方がいい」
ということをいいました。しかし、その人の夢枕に馬頭観音さんが現れ、
「木を伐ってはいけない」
といわれたそうです。
 そんなことがあった直後、ある嵐の日。雷が馬居寺境内へ落ちました。その雷は、モミの木に落ちたのでした。もし、木を伐ってしまっていたら、観音堂へ落ちていたかもしれません。御神木であるモミの大木が、観音堂の避雷針となったのです。
 それ以来一層崇められるようになりました。今でもモミの大木は立っていて、斜めに傾いています。そして、雷の焼け跡も残っており、木には螺旋状の傷跡が残っています。

モミの大木1

モミの大木です。
上の方は雷が落ちたためか、ほとんど葉が見受けられません。

こうみると、かなり斜めに傾いていますね。

モミの大木2

木の下には説明板があります。

木を近くで見ると、たしかに螺旋状の割れ目?のようなものが見えます。
表面がめくれてしまっているところもあるので、一部見にくいかもしれませんが、確かにあります。

この神聖な土地で、現代でも現れる霊験。
強い力のある土地なのでしょう。

石仏群と五輪塔

石仏群

馬居寺境内に数百体の石仏があるのはかなり有名な話です。
ネット検索しても出てきます。

ただなぜここにこれだけの石仏があるのか。

それは、かつてこのあたりが戦場だったのではないかという話が伝わっているのです。

戦国時代には高浜城(城山公園の城)の出城である白石城が馬居寺の裏山にあり、戦場と化したか。今も高さ30cm、横20cmほどの墓石が散在している。昔は、その遺された家族が戦死した夫や子の亡くなった場所に墓を建てたものといえる。それらの墓が現在、石仏として本堂横の傾斜に寄せられ祀られている。

参考:『若狭和田郷土誌』

現在でも白石城跡が残っており、石垣や郭などがあるようです。

ご住職方々の話によると、この馬居寺の石仏群は

鎌倉~江戸時代の石仏で、山中に倒れていたものを集めていったもの

とのことです。

石塔群

下には五輪塔もあり、少し位の高い人の墓ではないかともいわれます。

ここは、戦国時代の遺物が残り、その空気を感じることのできる場所でもあるのでしょう。

手水舎

観音堂道中にある、手水舎の目の前に並べられている石仏石塔もそれらの類なのかもしれません。

死んだ家族の為にその場に置いた墓石。
この何百体もある石仏一つひとつが誰かを弔うために建てた、誰かの大切な人の墓だったのですね。

 

ちなみに同じ和田地区には「蛇塚」という五輪塔があり、室町時代のもので高浜城主逸見氏の墓ともいわれています。

小池の弁財天

『若狭和田郷土誌』とご住職の話によると、『東寺古文書』に馬居寺のことが書かれてるといいます。

これについては、後の[お寺の逸話]で詳しく見ていきますが、『若狭和田郷土誌』によると、この古文書内にこんな一文があるようです。

堂側の小池は、古の放生池にして、中央小島に弁財天を祀れり。
引用:『若狭和田郷土誌』

弁財天

観音堂前階段の向かって左側に、弁財天の祠があります。

その下には、沢が流れています。これが小池でしょうか。

私の予想では、おそらくこの場所を示しているのだと考えます。

お寺の秘話

かつてこの辺りで銀や朱が出たという言い伝え

神聖な土地には、珍しいものがあるものだ。

そういう定義の伝説だそうです。

朱は昔から重宝され、また高価なものであったというので、神聖視されたのかもしれません。

馬居寺村全体がかつての境内

馬居寺区

馬居寺集落。

この町名である「馬居寺」も、昔は全体が馬居寺の境内だったそうです。

少なくとも、集落として人が集まりだしたのは、馬居寺があったからなのでしょう。

聖徳太子と秦川勝停泊

『若狭和田郷土誌』によると、聖徳太子秦川勝のふたりが馬居寺に数か月逗留していたといいます。

今回のメインだった聖徳太子黒駒伝説の最の出来事でしょうか。

ここに、その二人が泊って居たという話があると思うと、何ともロマンを感じます。

東寺とのかかわり

先ほど少しだけ書きましたが、『東寺古文書』に馬居寺のことが書かれていると言います。

というのも、現在は高野山に属していますが、過去には一時期、東寺にいろいろと納めていたのではないかともいわれているそうです。
馬居寺の方は蔵などが火災で焼けて、古い文書はあまり残っていないそうなのですが、東寺側には確実に馬居寺のことが書かれており、関係性がうかがえるようです。

さて、ここで考えられるのが「弘法大師空海」の事です。

高野山は誰もが知るであろう弘法大師空海によって開かれた真言密教の聖地です。
では東寺はというと、東寺ができたのは国家鎮護のためであるとして、空海によるものではありません。しかし後に嵯峨天皇が、中国から帰ってきた空海を東寺の責任者として託し、真言密教の聖地としたのだと言います。

つまり、「真言密教」「弘法大師空海」という2大ワードがつながりを持っているのです。

また、『若狭和田郷土誌』によるとこんなことも書かれているらしいです。

真言宗古義派高野山正智院末馬居寺字上屋敷にあり~
一部引用:『若狭和田郷土誌』

別の所には

桃山時代には、弘法大師が創建された京都東寺に所属していたことが判明して来た。東寺の増改築時、四貫九百匁の金を寄付していることである。
一部引用:『若狭和田郷土誌』

東寺の創建に関しては、平城京から遷都してきた際の桓武天皇の発願とされています。

とりあえずそこはいいです。
問題は、桃山時代には「東寺に所属していた」という事が書かれています。

東寺古文書には「高野山」の文字が入っているのに、所属は東寺
これまた不思議です。時代が違うからでしょうか。

寺の名前

現在、「本光山馬居寺」という名前ですが、先に記した聖徳太子黒駒伝説2パターン目にこんな一文があったと思います。

霊馬のいたところを「馬居寺」とし、光明があったので「光明山」とした。

山号が「本光山」ではなく、「光明山」になっているのです。

一体どういうことなのか。

例の如く『若狭和田郷土誌』によると、

聖武天皇の御宇(750年)天平十三年越知泰澄大師当山に来たって霊夢を感ずるに因って彼の旃檀の余り木を以って重ね馬頭観音両尊を彫刻し所々に安置す。然りといえども当村の根本を顕さんが為山号を改め本光山と称す。

引用:『和田若狭郷土史』

泰澄大師が来た際に、光明山から本光山に改めたということでしょうか。

『わかさ高浜史話』には、もっとわかりやすく書かれていました。

天平十三年泰澄が来て、馬頭観音を彫り、堂塔を修復して本光山と山号を改められた。

参考:『わかさ高浜史話』

というわけで、そういうことのようです。

ただ、この後寺の名前がまた変わるようです。

文安五年(1448)にはさらに馬居山西光寺と改称。

引用:『わかさ高浜史話』

私がお話を伺った際には、

昔、西光寺という寺があったようで、今平地になっているところがあるが、そこら辺から石塔など出てくるので、その辺りにあったのではないか。

とのことを教えていただきました。

歴史、言い伝え、郷土史が繋がっていきます。

ただ、名前が変わっても「光」「馬」が付くことは、やはり黒駒伝説の濃さがよくわかるところです。

仁王像の話(小浜長源寺、京都常寂光寺)

ご住職方々のお話。

かつて馬居寺にあった仁王像高さは170㎝ほどだったといいます。

その仁王像が小浜市の長源寺というお寺に移されたそうです。
その後、さらに京都の常寂光寺に移されたと言います。

ご住職もその仁王さんを常寂光寺に見に行かれたことがあるようです。

ただそこには、小浜の長源寺から移されたことは書いてあっても、その元が馬居寺にあったことの説明はなかったそうです・・・。

祀る

宇賀弁財天と弁財天座像の2体の弁財天

この馬居寺で有名な仏像に、馬頭観音以外にも「弁財天」の像があります。

馬居寺さんのパンフレットに載るほど、このお寺にとっても重要な仏像です。

  • 宇賀弁財天(江戸時代)
  • 弁財天座像(鎌倉時代)

そう、二つあるのです。

宇賀弁財天。つまり、宇賀神です。
前回、永平寺町の弁財天白龍王大権現でも説明しました。

宇賀神とは顔は人の蛇体の神であるとされています。
それと同一視されるのが弁財天です。

馬居寺の「宇賀弁財天」は、その名の通り合体しています。

弁財天の頭の上に宇賀神の蛇体が乗っているのです。
彩色も施されており豪華です。

弁財天座像は、かなり時代を感じる様子です。
私の印象は、顔立ちがとてもいいというものです。
こちらは彩色はありません。ただ、それがいいのかもしれません。

そして、この鎌倉時代の弁財天座像の方が、先ほどの「小池の弁財天」に祀られていたとのことです。

聖徳太子にまつわる像

聖徳太子について学べるのも、この馬居寺のいいところ。

「聖徳太子は曲尺(指矩、L字型定規)を中国から伝えた人物でもある」という歴史を教えていただきました。

その解説いただいたときに、聖徳太子が曲尺を持っている像を見せてくださりました。

福井県で聖徳太子について知りたいなら、この馬居寺に来るべきだと思います。

不思議な話

さて、ここからは現在のご住職含めお寺の方々が体験した、又は見た不思議な出来事を簡単に一部箇条書きにて紹介します。

ただ、実際にご住職方々のお話を聞くのが一番良いかと思いますので、そんなに細かく説明するつもりはありません。もし気になる方がいらっしゃれば、行ってみてください。

お寺の都合もあるかと思うので、お話を細かく聞きたいなら、電話で予約するのも良いと思います。

  • 先代住職が四国巡礼の後、高知のお寺の方が水晶を持って来られた。現在お寺に祀られているものがそれである。
  • ある方がお参りに来たとき、「本堂から水晶に光が差し、とても暑い」といって、冬なのにだらだら汗をかいていた。
  • 遍路に来た団体の一人が馬に憑依される。
  • 「自分は近づけない」といい、遠目で拝んだ人がいる。

本当にとても簡単に紹介しました。ここであまり詳細載せるのもダメな気がしまして・・・・。
気になる方は、ぜひ直接お話を聞きに行かれると良いと思います。

愛される馬居寺

馬居寺寺務所階段

馬居寺へはさまざまな著名人や芸術家、テレビ番組などが訪れています。

こちらも、お聞きしたお話をとても簡単に紹介。
気になる方はどうぞお参りください。

芸術家

  • 中国の方。お寺などの依頼で絵を描いている人が、馬居寺のふすまの絵を自分から描かせてほしいと言って描いたものがある。
  • 金沢の彫刻家。趣味ではあるが像など多く作っていたという。しかし、病の為に馬居寺へお参りにきた。帰ると家に余り木があるのを見つけた。これを最後にと彫ったのが今お寺で祀られている聖観音である。その後馬居寺さんの助言により彫刻ほど体力を使わない陶芸家へ転身。

金沢の芸術家の方の作品は、馬居寺さんに数多くあります。

著名人

一応、不特定多数のネット公開情報なので個人の名前は伏せておきます。
著名人といえど、プライベートなので。

  • 女優。現デザイナーの方。
  • 有名ヴァイオリニストと組んでいた有名な音楽家の方。
  • 日本民謡研究家。

他にも、かなり上の位の宗教関係者行政関係者も訪れています。

ご住職にお話を聞けると思います。

一般人やテレビ関係

  • 「ふれあい若狭」という福井の番組があるが、そこでは毎年のように取材がくる。
  • 一般の方でも、仏教系、陶芸品、思い出の品など寄贈されていくという。

もちろん一般層にも慕われています。

私のような人物が急に電話をかけて予約のような感じでお参りをお願いしても、親切に対応くださいました。

本当にありがたいです。

馬居寺の見どころ

最後に馬居寺の見所を紹介します。

といっても、いままで十分に観音堂とか御神木とか紹介してきましたので、そういった堅い感じではない、それ以外の見所です。

扇石

扇石

これは馬居寺さんでは結構有名なのではないかと思います。

正面入り口、観音坂とは違う上り石階段のさきに山門があり、そこをくぐるとこの扇石があります。

これを踏むと縁起がいいとして、皆踏んでいくのだそうです。

本当に扇ですね。

山桜

馬居寺の山桜

古いお寺と、苔むした庭園、赤い椅子、そして山桜。

ここ馬居寺は桜と紅葉でも有名です。

今回は春に訪問したので、桜を見ることができました。

「和」のあふれる馬居寺の庭園風景です。

黒駒に導かれ

聖徳太子を導き、この霊地を示した黒駒の伝説。
太子が創建した馬居寺の霊地は時代が移り変わり、名前を変えてもなお、霊馬と光の輝いた霊地の寺として、言い伝え、名を残し続け、多くの方の尽力でお寺と歴史を今日まで繋いできました。

この光り輝く魅力は、聖徳太子に始まり、今日まで多くの人々を山中の霊地まで導いています。

私もまた、黒駒と聖徳太子の伝説に導かれ、この馬居寺へとやって来ました。

この神聖な土地と伝説は、これからも多くの人を導き引き付けることでしょう。

取材協力:本光山馬居寺

参考文献:
『若狭和田郷土誌』
『若狭高浜のむかしばなし』
『わかさ高浜史話』

基本情報(アクセス、最寄り駅、駐車場)

最寄り駅は、JR小浜線若狭和田駅から徒歩15分
山の谷の集落になるので、登り続けます。

自動車では、大飯高浜ICから12分小浜西ICから14分

駐車場寺標の前に数台停められます。

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