福井県勝山市岩屋に岩屋観音があります。
大杉で有名で岩屋の大杉や飯盛杉などがあり、奥には岩屋稲荷神社があります。近くにはキャンプ場もあります。
岩屋観音の歴史を見て行くとともに、現地の様子と岩屋観音周回を写真付きで紹介します。
地理
岩屋観音があるのは、勝山市西に位置する北郷地区の北、山の中へ入ったところです。
前に書いた通り今はキャンプ場などがあります。民家はありません。「岩屋渓流の里」と書かれています。
ただ以前はここも集落であったようです。
岩屋区は岩屋川の上流にあります。
『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』によると、「いまは無人の境」と書かれ、その様子は「冬は雪のため、夏も豪雨にあえば交通が途絶える市内有数の僻地である。」としており、昭和三十年代から過疎化に苦しみ、四十年ごろに全村民が他に移り、無人の村となりました。
岩屋観音堂と観音像について
『北郷村之概観』によると、
鈴巖寺のあったという岩屋区霊巖寺山の中腹に祠堂がある。霊巖寺は泰澄大師養老年間に建てられたもので泰澄大師策と伝わる。中央に如意輪、左に十一面、右に正観音の三体を安置していた。現在は如意輪と正観音だけで、十一面は盗難に遭った。如意輪観音は高さ80cmの木像で作風は鎌倉時代。大正に国宝指定の手続きをするも銘刻がなく選ばれなかった。岩屋観世音の名はこの時から起こった。台座は後年に塗り替えられている。正観音は小さい木像である。
参考:『北郷村之概観』
泰澄大師作であれば奈良時代のはずですが、仏像は鎌倉時代の作風ということです。
『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』では、「この観音像は泰澄の自作と伝える木像で」と書かれるも、「鎌倉時代の作であろうか。」とも書かれており時代の矛盾が見られます。
『福井県大野郡誌 下編』ではやはり、鈴巖寺は泰澄の建立にして、如意輪観音、十一面観音、正観音も泰澄作であるとしています。
また、盗難に遭った十一面観音は、福井市の立矢という場所に移ったとも書かれています。
如意輪観音は写実的な衣文に包まれ肉づけも力強いといいます。
また「鈴巖寺」と「霊巖寺山」の「鈴」と「霊」の違いですが、『北郷村之概観』と『大野郡誌下編』にともに「鈴巖寺」と書かれていますが、山の名前は『大野郡誌下編』には「鈴巖寺山」と「霊巖寺山」両方が、『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』には「鈴巖寺山」と書かれていて、かなり混同されている印象です。寺の名前が「鈴」で山の名前が「霊」であると考えたほうがよいかもしれません。
堂自体は後年の建立であるとされています。それでもかなり古いものであることが分かります。
『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』によると、五十年ごとに大祭を行い、昭和四十八年の大祭では移住先から大勢の人が集まったといいます。
手水舎の柄杓は苔に埋もれてしまっています。
岩屋の大杉と岩屋不動尊
この大木が有名な岩屋の大杉です。
今では岩屋の大杉として知られる岩屋観音ですが、昔は不動尊が有名な土地だったようです。
『福井県大野郡誌 下編』によると、この寸八の不動尊は区民である平左衛門の建立であるとしており、平左衛門は姓を不動堂としているということです。観音も不動尊もこの平左衛門が管理していたといいます。
不動尊は『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』によると、その平左衛門が夢のお告げで不動堂淵で拾い上げたものだったといいます。
今、観音堂の西にある大杉の根の祠がその不動尊の祠です。現在の岩屋観音の管理は岩屋観音奉賛会です。
しかし大杉が有名になったこの時代、今も昔も不動尊と大杉は岩屋観音の代表格であるということですね。
岩屋の大杉は村の人からは「子持ち杉」とも呼ばれているといいます。
子持杉は御神木であり、株の広さは八畳敷、根回り十五メートル、高さ四十メートル。
子安杉の信仰もあり、この杉の皮を煎じて飲むと乳の出が良くなるという。
引用:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
といった信仰もされているようです。
岩屋稲荷と飯盛杉
観音堂のさらに上の方にもう一つ稲荷社があります。
祭神:倉稲魂尊
創立不詳。明治九年に村社。一時、明治四十一年に東野の大剱神社に合併したが数年後分離奉斎され元の社地に遷座。境内の神木は樹齢千二百年で高さ50m、幹廻23m。冷泉のの神水は利用者が多い。
引用:『御大典記念福井県神社誌』
この稲荷社は「上堂さま」とも呼ばれています。
昔は稲荷社の両脇にあったようで、この2つを飯盛杉と呼んでいたようです。
伝説によると、
泰澄大師が岩屋で弁当を食べた時、箸に使った二本の杉の棒を地面にさしたものである。
引用:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
ということです。
だから元々は二本あったということなのですね。
ただし今は見ての通り一本しかありません。
しかしこの一本も泰澄大師の箸の伝説からなるものとなるとなかなか面白い大杉として見られます。
『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』によると、
大正七年一月五日早朝に村の橋爪鶴松が飯盛杉の根元にテンが逃げこんだのを見て捕えようと枯草を入れて火をつけたようで、その火が夕方まで残り、村人が気付いた時には七メートルの高さのところにある穴から火を噴いており、数十人で消火活動をして、その時は消し止めた。しかしその年の七月二日に大した風でもないのに倒れてしまい今は一本になっている。
参考:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
としており、一本は哀れにも人の手によって焼かれてしまったということのようです。
夫婦杉
杉の木で有名な岩屋観音には、杉の名所でもよくある、夫婦杉もちゃんとあります。
やはり杉はこのように生えてくるものなのでしょうね。
一本は直線で伸びてゆくからわかりやすく、杉のような木にしかない夫婦杉という概念です。
岩屋の伝説
泰澄大師の伝説
『北郷村之概観』では、『和名抄』によると、泰澄大師が坂井の豊原寺から白山禅定へ向かう際に、その道筋に岩屋を経ていたといわれており、奈良朝時代に開き滞在していたともされているようです。
また『福井県大野郡誌 下編』では、『越前名蹟考』を参照し
往古泰澄和尚豊原寺より白山禅定の道筋岩屋鈴寺有るは則此所なり豊原寺より山傳ひの道なり
引用:『福井県大野郡誌 下編』
とも書かれており、泰澄大師の霊地であるということも見受けられます。
またいつもの如く、『福井県の伝説』『越前若狭の伝説』にも載っています。こちらは伝説らしい伝説になっており、より霊地であることの実感に繋がってゆきます。
岩屋の観音と道元窟
霊巖寺山の中腹に観音堂がある。昔泰澄大師が白山に登られて、木像の観音様を刻んで安置されようとしたが、普賢菩薩が現れて「此の山は非常に暴風雨が強いから木像を安置してもいけない。別に此所には守護が居られる」といわれたので、大師は其の観音を背負って下山されて平泉寺に向かった。平泉寺に居られた時、自分が背負ってきた観音様が現れて「これより西北の方に良い所があるから其処へ一足先に行く」という夢を見られた。目が覚めた時にはすでに観音様のお姿はなかった。
それから大師は西北方さして出かけ、丁度小舟渡付近に来られた時、岩屋の谷から黒雲が出て、大師を案内したので、行って見ると洞窟の中に観音様が光を放って居られた。そこで大師は別にお堂を建てて安置した。之が岩屋の観音堂の起こりである。
引用:『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』にも同様の内容(『福井県の伝説』を参照していた)
ただし他にも説があるようです。
『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』には上のような『福井県の伝説』の内容と同じものも掲載されていますが、それとは別にこんな説も記されています。
元正天皇養老元年(717)、白山天領をきわめた泰澄大師が、百日の護摩修行ののち一刀三礼して刻まれた。本尊は如意輪観音、それに十一面観音、聖観音の三体であった。泰澄の弟子布施の行者と浄定行者がこれを背負って山をおり、泰澄のみた夢のお告げによってこの地に鈴巖寺を建てて安置した。
引用:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
いずれにしても白山に祀るはずだった木像を祀ったという伝説であることには変わりなく、かなりの白山と関係の深い霊地であるということになります。
霊験
巌窟の前で鉈を研いでいた男が巌窟からの風で吹き飛ばされたという伝説も残っています。(『北郷村之概観』)
これは神聖な仏の聖地である巌窟の前で不敬な行為をしたら罰が当たるという、戒めの伝説なのでしょう。
観音堂の伝説(扁額の竜)
伝説によると、
正面扁額に龍を描きたるもの在り。これに水をかけて雨乞いをなす。近年雨乞いの為参詣するもの多し。
引用:『北郷村之概観』
という話があります。
堂の前に龍の額が懸けてある。或る時この龍がいなくなったので、村人が大騒ぎをして探した。或るきりこが境内の近くの大木を伐り倒してみたら、切り株の大きな穴の中に、白い龍が渦を巻いていたこともあった。長い間天気が続いて、旱魃になるとこの龍に雨乞いをする。先ず身を清めて蓑と笠とを着けて参って、笹の葉に水をつけて其の龍の身体を撫でるのである。すると三日以内に必ず雨が降る。
引用:『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』にも同様の内容(『福井県の伝説』を参照していた)
龍の雨ごいに関する信仰もあり、福井県の竜神信仰につながるものでもあります。
また蛇の信仰もあるようです。その蛇の信仰が竜神信仰に結びついているとも考えられます。
子持杉と白竜
むかし、むらのふとどき者が、十二幹にわかれているうちの六本を切ったところ、白竜が現れて残りの六本に巻き付き、それ以上は切らせなかった。切った六本は木材商が買っていったが、年輪がばらばらに離れて使いものにならなかった。人は神罰のためだといった。
白竜はそれから根元に住みついた。昭和四十二年、観音堂の屋根の修理を行うとき、子持ち杉の根元に長さ三尺、頭と目がことさらに大きい白竜が現れた。
引用:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
竜や蛇の伝説が非常に多い場所であるということがわかります。
それも白竜であるといいます。
ここでいう龍というのは、とぐろを巻いていたり、昭和四十二年に出現したりと、結構現実的な大きな白蛇のようにも思えます。
観音盗難伝説
昔、不作の年、半兵衛というものが三体の観音を福井の矢立大橋の向かいの寺に質入れした。寺は不審に思い村へ知らせたので庄屋は如意輪と聖観音を村へ戻し、十一面観音をお礼として贈った。それから岩屋は二体だけを祀っている。その後十一面観音は加賀の那谷寺で売られた。
大正七年一月のことだった。芳ヶ谷からの雪崩で半兵衛の家は埋まってしまった。子供三人が死亡し、両親は助かった。このことを村の古老は、そのむかし観音像を盗んで売った罰だと考えた。
参考:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
先に見てきた盗難に遭ったという話は、こういった話だったのですね。
十一面だけ盗まれたのではなく、すべて盗まれて、一応一度は全て返されたようで、お礼として十一面観音を贈ったわけですね。
岩屋観音巡りと体内くぐり
岩屋観音には体内くぐりと言われる岩穴があります。それを含めた岩屋観音めぐりができます。
岩屋観音の鳥居前にあった案内板を見るとその全様がわかります。どうやら稲荷神社あたりから行けそうです。
というわけで稲荷神社横の道のような道じゃないような道をすすみます。このように非常に荒れています。
案内板にあった大磐石が出現しました。この岩の周りをまわるようです。
若干の道が分かりますがもはや何が何だかわかりません。
途中こんな道もあり、これは修行の道なんだなと思いました。
大磐石をぐるっと回って稲荷神社に戻ってきました。途中降りていくと体内くぐりに行けるようでしたが、その分岐らしきところから先は草木が生い茂りいける気がしなかったので行きませんでした。
しかし安心ください。体内くぐりは下の方からも行けるのでそちらから行こうと思います。
夫婦杉付近から上る道があり、少し上るとまたもや大岩に木が生えているという神秘的風景に出会いました。
岩には割れ目があり向こう側につながっているようです。ただしこれではなく。道なりの先に、
岩窟が出現するのです。
まさに信仰の聖地らしき場所です。
体内くぐりを「道元窟」ともいいます。
観音堂東面に在る巌窟にして上古穴居の跡にも似たる大なるものなり。道元和尚永平寺建立の折入窟座禅の所たるを以てこの名あり。入口狭く俗に胎内くぐりと称す。
引用:『北郷村之概観』
道元窟の名に残り、大字名も生ぜし、彼禅師は或は此地に留錫結跏跡坐せしものか。
(中略)
鈴巖寺跡あり道元和尚永平寺建立の時住居の由
(中略)
窟は、鈴巖寺山観音堂の傍にあり、俗に胎内くぐりと云い、一大巌窟にして、岩屋の大字名も之より起これりとぞ、傳ふ、禅寺三年間入定座禅の遺趾と。
引用:『福井県大野郡誌 下編』
観音堂の傍に俗に「胎内めぐり」という一大巌窟がある。岩屋という大字名も之より起こったといわれ、永平寺の開山道元禅師も、この巌窟で座禅せられたことがあるので道元窟とも言われている。
引用:『福井県の伝説』
道元岩屋
道元が永平寺建立の時住居したという。
引用:『越前若狭の伝説』
この巌窟について、『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』ではその様子も記されています。
巌窟の中でも風穴といわれるものは、その入口から三十メートルほど入ったところに十畳敷位の広がりがあり、湧水が音を立てて流れているという。風穴のなかはこのほかにも、広い空洞が数カ所もあるとむら人は語っている。
引用:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
私が見た巌窟はそんなに中が広い感じはしなかったですが、どうやらその巌窟というのはいくつかあるようで、私たちが普段見られるのは先ほどから出ている道元窟であると思われます。
その証拠に『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』にこのように書かれています。
道元の伝承地
鈴巖寺山麓の洞穴群の一つに、道元がこもったと伝える道元窟がある。これは間口五メートル奥行き十五メートル、胎内くぐりとも呼んでいる。
引用:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
このように書かれ、どうやら道元窟は数ある巌窟の中の一つということのようです。
また『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』には、
道元禅師は永平寺を創建する前にこの村に来り、二十八人の童子とともに道元窟にこもった。
引用:『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
としており、そんな大所帯でしかも童子ばかりとあの岩穴へ籠ったというので、なんとも不思議な言い伝えですねぇ~、という感じです。
古くからの信仰の息吹
色濃い信仰と伝説の数々。そして幻想的な紅葉のじゅうたん。
どれほど人々に信じられてきた存在かが分かる、信仰と伝説の聖地です。
その伝説と信仰の聖地は今も、私たちの代に残されており、体内巡りも大杉も目にすることができます。
先人が守ってきたもの、自然が守ってきたもの。今後もそれが続き、後世まで信仰と伝説を伝え続けることが必要になっていく。そんなことを考えさせられる場所でもあります。
参考文献
『勝山市史 第1巻(風土と歴史)』
『北郷村之概観』
『福井県大野郡誌 下編』
『御大典記念福井県神社誌』
『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』
基本情報(アクセス)
自動車 | 上志比ICから21分 |
駐車場 | あり |
コメント