福井県永平寺町旧松岡町には、「芝原」という地名があります。
この芝原の歴史は古く、その地には「鋳物師」が存在していました。しかし、今はその鋳物師の名残もほとんどなくなってしまいました。
今回はこの芝原で活躍した鋳物師という存在を追い求め、現地でもその名残を見つけて行きたいと思います。
芝原鋳物師の逸話
まず見て行きたいのは、この芝原鋳物師に関する逸話、伝説です。
芝原の鋳物師がどれほど有名で、大きな鋳物の集団だったかを知っていただきたいと思います。
松岡の鋳物は奈良時代から有名で、源頼政がぬえ(怪鳥)を退治したとき、宮中の紫宸殿(ししいでん)のまわりにつるしてあった灯籠の火は、ほとんど消えましたが、芝原(松岡の古名)から納めた灯籠の火だけは消えなかったので、天皇の嘉納を受けました。 参考:『越前若狭の伝説』 |
この逸話は本当なのか?
残念ながらその真実はわかりません。「ぬえ退治」や「石川五右衛門」の名は有名過ぎて、それに便乗しようとした可能性もあります。しかも、二つとも実在した話はどうかも怪しいですからね。
でも、これが本当かどうかではなくて、こんな逸話もあるんだということを知ったうえで考えていくと面白いとおもうので、まず紹介しておきました。
今回は、そんな「芝原の鋳物師」について、もっと深く調べ、現地も行ってみたいと思います。
芝原鋳物師の歴史
芝原鋳物師の繁栄
今の松岡芝原の町にも、昔の街並みが所々に残っています。昔からのお寺や神社も多いです。それほど栄えた町ということです。
まず、この芝原鋳物師は松岡の町の伝統産業の一つとして栄えていたとされます。
起源は、奈良時代とされていて、当時の奈良朝廷より、養老七年にこの地の鋳物師に下されたという古文書も伝えられています。
この古文書を「養老の御牒」といい、現在は近くの神社に納められています。ただ一般公開はされていません。それに今はちゃんとした場所で保管されていると思います。
鋳物師は御所や皇居の御用をも承る特別の職であるということから、御綸旨や御牒、御蔵真継家(江戸の官人)よりの御許状がなければ、「鋳物師」と称することが出来ないといわれ、社会的にも特殊な地位が与えられて、藤原頼臣等の如き称号を用いることも許されていたといいます。 参考:『松岡町史』 |
「御所や皇居からの仕事も承る」という内容があります。先ほどの逸話を思い出してみてください。「ぬえ退治で使用された灯籠」の話。この話とつじつまが合うのです。ということは、逸話にも現実味がでてきました。本当のことかもしれません。
芝原の起源
この「芝原」という地名が文書として出て来るのは、正保三年(1646)で、はっきりとは場所はわかっていないらしいです。
しかし、「養老の御牒」が現存するのであれば、この時代に沿っているのでしょう。
日本に鋳物が伝わったのが弥生時代とされています。
この芝原周辺には、弥生時代、古墳時代、中世のものとされる集落跡や、松岡古墳群や泰遠寺山古墳、稲荷山古墳、窯跡など古墳時代の遺跡も多くあります。
それほど昔からこの地には人がいたということです。
もしかしたら、有名になる奈良時代以前にも鋳物は始まっていたのかもしれません。
では、その「芝原の鋳物師」が実在した証明となる、現存する物があるはずですね。松岡町史に抜粋された現存する物を見てみましょう。
芝原鋳物師が残したもの
- 時代:南北朝時代の明徳元年。
人物:渡辺藤兵衛尉家広の鋳造した梵鐘。
所在:丹生郡越前町血ケ平の浄盛寺。 - 時代:永正十三年。
人物:山岸兵衛尉家次の鋳造した梵鐘。
所在:福井市岡の西光寺。 - 時代:大永三年。
人物:藤原頼臣彦左ヱ門吉久の鋳造した梵鐘。
所在:丹生郡越前町小樟の看景寺。
中世のものが多く、歴史が古いのは間違いないといいます。
福井県内のいたる所で、この芝原鋳物師の存在を確認できるというのは、彼らが実在してとても大きな勢力を誇っていた証拠ですし、それを今でも見ることができるのは素晴らしいことです。
芝原鋳物師を気になった方は、こういった製造物を調べてみて実際に見に行くのも良いかもしれませんね。
芝原鋳物師の衰退
ここまでの繁栄をとげてきた芝原鋳物師ですが、いずれ何にでも終わりは訪れます。
この芝原鋳物師も、衰退と一途をたどり、現在では鋳物師がいた名残はほとんど残っていないほどです。
窪の西金屋は寛政の頃、大火にあい、その後再興が出来なかったということがあり、禁裏の御用をつとめたという鋳物師達も、明治に入ると十六・十七年頃に何れも鋳物の諸道具を売払って廃業し、急速に芝原の鋳物業は衰退していきました。 参考:『松岡町史』 |
私個人の意見では上記の『松岡町史』の記述以外にも、他さまざまな原因があるのではないかとも思います。
これまではこの福井県嶺北で、城下町、街道沿い、九頭竜川の水運。これらがそろっている土地にだからこそ、腕の良い芝原鋳物師が有名になることができ、産業として栄えていたのかもしれません。
しかし、交通の整備により街道沿い以外でも人目に付くチャンスが増え、城下町以外の集落の工場でも、制度など整備され保証もされるようになったりしていきます。そんな多くの整備が、城下町、街道沿いの産業で独り勝ちしていた芝原鋳物師を衰退させたのかもしれない。
また、職人の仕事が、近代化によりそれまでよりも効率的に簡単にできるようになったことなども要因ではないかと思います。
近代化や交通整、材料、などの要因が重なり、昔からの伝統のある鋳物師は時代に合わず衰退してしまったのではないでしょうか。
近代化はとても良いことですが、古い伝統も壊してしまうこともあるのでしょう。
現代の松岡の町
では、これからは芝原鋳物師がいたという芝原(現松岡)の町を見て行きましょう。
鋳物師の家が今でもあるのではないかと思わせる街並みです。(本当にあるかもしれないけど)
現在の松岡の町も、昔からの家々がところどころにあり、昔の街並みも垣間見ることができます。また高低差の多い町なので、町は常に坂道です。
また、昔の道に沿ったり、元の景観を壊さないようにするためか、国道416号線の大通りも曲道などが多く、その町はいたる所に見ごたえがあります。
たとえばこの場所。
えちぜん鉄道が通っている踏切の先には明神社があります。
この鳥居の前には国道416号線が通っています。高低差がある町並みなので、こういった面白いスポットがいたる所にあるのです。
芝原鋳物師に関することだけでなく、街並みを見に行くだけでも楽しいと思います。昔の街並みが好きな方にもおすすめの町です。
薬師神社
最後に、この芝原鋳物師について現存する数少ない、当時を偲ぶ場所に向かいます。
松岡薬師(窪)にある薬師神社。
今は「薬師」という町名ですが、芝原鋳物師の栄えていた「窪」というのはこのあたりだそうです。
ではなぜこの薬師神社がかつての芝原鋳物師を偲ぶ場所だといえるのか。『松岡町史』をみれば、その理由がわかります。
禁裡の御用をつとめていたという芝原鋳物師が、古代より崇敬していたと伝える社で、郷内随一の森厳な社叢が近年まで伝えられていた。また社家に鋳物師職座法の掟文書も伝えられている。 参考:『松岡町史』 |
そう、ここは芝原鋳物師達の神様がいる神社なのです。
ではなぜ、この薬師神社が芝原鋳物師達に崇められていたのか。その理由は「福井神社庁」の薬師神社のページを見ればわかります。
体力の消耗が激しい処から薬師の神を奉祀しといいます。 参考:福井神社庁 |
納得の説明です。
このような背景を見て、この薬師神社に訪れてみると、松岡芝原の町が鋳物師で繁栄していた時代を思い起こせそうな気がしてきます。
この存在は『越前名蹟考』にも書かれており、以下のような内容です。
本尊は泰澄作の木彫薬師如来像。境内は大木が多い。 |
本尊は泰澄作だと伝わっているのです。白山や文殊山を開いた泰澄大師がここにも関係してくるのですね。それほどの神社だったのです。
現在は境内が整備されており、大木はなくなってしまいました。しかし、近年まではその大木があった様で、ネット上にはまだ大木が残っている写真があったので、そちらを見てもらうと、当時の様子がうかがえます。
社標の表に「薬師神社」、裏には「少彦名神社」とあります。
祭神は少彦名なので、神道としての名前もありきということでしょう。
まっさらになった境内。奥に祠が三つ並んでいます。
真ん中には「薬師神社」と書かれています。
現在は横に社殿もあるのですが、昔はこの祠が神社だったのかもしれませんね。
歴史の盛衰とそれを伝える神社
今回は芝原鋳物師をテーマにやってきました。
奈良~江戸の時代に栄えた芝原の鋳物師は今はもう見る影もなく。彼らが崇敬していた薬師神社が、その鋳物師の土地で、彼らと隆盛を偲ぶ場所となっている。
これも神社の役割かもしれませんね。
どれほど栄えていても、いつから終わりが来るのです。そんなことも実感させられる内容でした。
今はなき歴史を発見しに、この松岡芝原の地へ来てみてはいかがでしょうか。
参考文献:『越前若狭の伝説』『松岡町史』『越前名蹟考』ほか福井神社庁HP
基本情報
最寄り駅は、えちぜん鉄道永平寺勝山線松岡駅。周辺の町全体で、薬師神社までは徒歩7分。
駐車場はありません。近くの「えい坊館」という施設に停められるかもしれません。ご確認ください。
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