福井県若狭町上中脇袋の火葬場にお邪魔しました。
今回は脇袋の法順寺さんと共に火葬場に訪れ、色々とお話を聞かせてもらいました。今回はそのレポートとして単独記事で記録します。若狭の集落火葬場を知ることにもふさわしいのではないかと思います。
火葬場への道
火葬場は脇袋集落の南西の山の中にあります。集落内の道から林道のような道の途中に山江と続く人が歩けるだけの幅の道が石積みになって現れます。ここが火葬場への道となります。
今は草木が茂って、所々崩落もしておりこの道からは行けそうもありません。
火葬場
脇袋火葬場。
横2m、縦3mほどの穴が掘られており、この中で焼いていたといいます。
使われなくなって久しく木も育ってきています。
棺台もしくは供物台と思われる石が火葬場の前に置かれています。自然石です。
話
ではここからは、法順寺さんからお聞きした話を見ていきます。
葬礼の話
- 棺は丸い桶(桶棺)の座棺。
- お寺で葬儀を行った後、輿に乗せて火葬場まで運ぶ。
- 納棺するときに死者の関節をはずして納棺する役目の人がいた。
- 石塔墓は無く、お骨は本山に持って行き、残りはサンマイに捨てて骨壺は割る。
火葬場には散乱している骨壺が多くありました。
お寺の方によると、「なぜ割るのかという理由はわからないが、そういう風習になっていた」とのことです。
火葬場の思い出
- 小学校の頃、肝試しの場になっていた。一人で火葬場に行くというものだったという。
- 小さいころ、この辺から煙が上がっていると「誰か亡くなったのだな」と思っていたことを思い出す。
- 決まった日に、御札や位牌のお焚き上げもここで行われていた。
火葬場は火葬だけでなく、位牌などを燃やすお焚き上げの場所でもあったというのが、今回の取材で新たにわかりました。サンマイ=葬送の場所という認識でしたので、これは一つ勉強になります。
郷土誌に墓制がかかれている
脇袋と同じ上中町の火葬場について、写真付きで郷土誌に掲載されている場所があります。
上中町河内は全戸真宗であって、しかも両墓制であるという報告を見たので、期待をもって河内を訪れたが、その期待は裏切られ、古くから火葬であった。しかし、火葬を持って第一次葬(火葬場を一時葬地)と考えており、また自己の所有地内に石塔を建てるのを第二次葬地というように考えているのは、火葬と両墓制の関連を考える上から言っても興味深い事である。
(中略)
全戸が浄土真宗(西本願寺派)である。もとは天台宗であったと伝える。
古くから火葬であるといい、焼き場(サンマイと呼ぶ)を2か所もっている。焼き場には共同墓地があって、そこに焼いた骨をうめる。別に個人個人の墓地があり、分骨して石塔を建てる。また、更に分骨して数軒で組んで、西本願寺にも石碑を建てる。
火葬の後、1週間以内にハイカキとて骨を拾いに行くが、この時以降は、共同墓地には参らない。
五十回忌が打切りで、この時には赤飯をたく。
引用:『若狭の民俗』
河内は熊川宿南、今河内川ダムのある場所にあった集落です。なので残念ながら昔の集落は残っていません。
この郷土史の写真を見ると、河内の火葬場は、脇袋と同じように縦長の大きな穴が掘られている火葬場のようで、形が瓜二つでした。ということは、この若狭上中の火葬場のスタンダードな形はこの穴型の火葬場であるという可能性が非常に高くなります。
ただし、郷土史を見ると脇袋との違いも分かります。それは墓制です。
脇袋は石塔墓を持たないのに対して、河内は石塔墓を持っているということなのです。つまり、郷土史の言葉を借りると、脇袋は単墓制、河内は両墓制の概念があるということになります。
同じ上中町の脇袋と河内は、
火葬場の形状は同じ。
墓制は石塔墓を持つか持たないかの違いがある。
という微妙な差がありました。
同じ上中町、同じ真宗、同じ火葬地域でも多少の差があるという点は留意しておきたいところです。
参考文献・取材
取材協力
法順寺
参考文献
『若狭の民俗』
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