敦賀に多く伝わる、古代の蒙古襲来伝説。
蒙古が敦賀に侵入してくる際、海上に現れた盤石の楯石が敦賀を防衛しました。
福井県敦賀市、敦賀半島の最北端に位置する漁村「立石」。そして、隣の白木にある「門が崎」という景勝地。
敦賀湾の入口、敦賀半島の先端に形成されるこの立石と白木の門が崎は、古代蒙古襲来の時に重要な防衛の役割を果たした地という伝説が伝わっています。
今も地名から伝説に触れることのできる立石と門が崎の現地の様子を見て行きます。
敦賀に伝わる「蒙古襲来伝説」とは
敦賀に伝わる蒙古襲来伝説については、様々な伝説や様々な時代、場所などが伝えられています。
参考:『越前若狭の伝説』 |
杉原丈夫氏によると、敦賀に伝わる蒙古襲来伝説については、4つ違う伝説があるがいずれも気比大明神の神威を説いているとしています。
そして今回取り上げるのは、上記3つ以外の4つ目の伝説である『気比宮社記』に載っている蒙古襲来伝説です。
聖武天皇天平20年に西の海に蒙古襲来。11月11日に敦賀が鳴動し、松原と白さぎが出現。また、北の海に岩石二基が出現。蒙古の船は転覆した。 参考:『気比宮社記』 |
上記伝説に出てくる「岩石」が立石と門が崎に関係してきます。
では、現地を見てみましょう。
立石
立石区について
立石は敦賀半島の最北端に位置する漁村です。
この立石集落に来るまでには、敦賀原子力発電所の前を絶対に通らなければならず、山を越えなければ来ることのできない、まさに辺境の地です。
今は立石トンネルで行けますが、以前は伝説の地である「猪ヶ池」の横を通る海沿いの道から行けました。
しかしそれでも、家は多くあります。
漁村と言えど、昔は山奥に田もあったそうです。『敦賀郡神社誌』によると、寝泊まり・作業・貯蔵用の小屋もあったらしく、秋の収穫の時期には船で収穫した物を運んでいたそうです。ただ、今は衛星写真を見ても田んぼらしきものはなく、もうなくなってしまったのでしょう。
立石集落のさらに北の立石岬には明治14年に建てられたという立石岬灯台があります。
立石岬灯台へは、集落の端に案内板も掲げられており、観光地としての一面もあるのです。
ただその看板の下に、「クマ出没注意」の物騒な看板もあります。
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いつもの如く、熊鈴を置いておきます。
「楯石」の伝説と「立石」地名の由来
現在の地名は、「立石」という字で書きますが、宝暦に書かれたという『気比宮社記』を見てみると、「楯石浦」という名が見えます。
「たていし」という名は、すでに宝暦11年(1761)にはあったようですが、「楯石」という漢字を書いていたようですね。
では、この「楯石」についての地名の由来は何なのか。それが冒頭でも説明した「蒙古襲来伝説」だと伝わっているようです。
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つまりは、「楯石」は蒙古からの襲撃を防ぐために気比大明神が作り出したものであり、その楯石が出現したのが、現在の立石地区だったため、ここの地名が「楯石」と呼ばれるようになり、現在「立石」という名前になっているようです。
そして、『敦賀郡神社誌』にはこんな一文も。
当区の北端海中には今も楯の如く屹立せる巨岩多く、その最も大なる岩上には小祠が建てられてある。
引用:『敦賀郡神社誌』
この「小祠」がどこのことを示しているかはわかりませんでしたが、立石集落の北、先ほどの立石岬灯台への道の入口に大きな岩があって、そこに祠がありました。
これがその祠なのか。
しかし、「北端海中」と書いてあるので、ここではないのか。現地でどなたかに聞ければよかったのですが、残念ながらです。
また、『敦賀郡神社誌』には「たていし」の地名について、このように追記されています。
いつの時代か明らかではないが、区名を楯石と書いたのを立石と書くに至った。 引用:『敦賀郡神社誌』 |
なぜ「楯石」が「立石」になったかは書かれていませんでした。ただ、かなり早い段階で「立石」に変わっているようですね。とにかく、字が変わった一つの境目が、この江戸時代あたりなのだということでしょう。
楯石から立石になった可能性として、個人的な考え
さて、この「立石」ですが、なぜ「楯石」から変わってしまったのか。一番単純な捉え方は、立石の地形にあるのではないかとも思っています。
郷土史にも多く書かれていますが、海岸線にはとにかく巨石怪石が多く、大自然の景勝地ともいわれています。
立石は現地へ行けば見ることができますが、巨岩巨石が多い。立石岬側を見てみるとさらにあります。そんな巨岩が立っていることから「立石」という名ができた可能性もあるのではないかと、思うのです。
元は「楯石」だけど、発音だけで「たていし」を知っていた人が、「岩が立ち並んでいる。なるほど立石か」という風に。
個人的な1つの可能性ですが・・・。
白木の門が崎
「門が崎」の伝説
門が崎については、先ほどの立石のときに少しだけ出てきました。
どうも、この「門が崎」と「楯石」の伝説は2つセットのようです。
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美しいですね。
海側から見ると、本当に2つの突き出た岩が門のように見えるみたいです。
門が崎。実際にこの目で見たかったものです。
なぜ、見れなかったのか。そして、なぜ私は屈辱の写真の出典をする羽目になったのか・・・。それは、門が崎の現状が原因です。
門が崎の現在
門が崎があるのは白木地区。
白木の紫陽花でも有名です。
そんな白木の現状は・・・
白木港。
白で塗ってるのは全部車です。
いくつも車があり、人も入っていますが、この白木地区の港は立入禁止です。「立入禁止」の看板もいたる所に置かれています。観光協会も認知しているようですし、警察に退去を求められることもあるようです。また町の人も「ほんとは停めたらあかん」とおっしゃっていました。(ちなみに私はその方に話して短時間だけ内陸の集落内に停めさせていただきました。)
「門が崎」へは、この港を通過していく道しかないのです。なので、この港が立入禁止ならば、門が崎への道が断たれることになっています。
なぜ、港が立入禁止なのか。一番の原因は「マナーの悪さ」だということです。私が来たときも、まあ、なんていうか、「ひどいな」という印象でした。
こんな状態では、徹底的に取り締まらないと、いつまで経っても解放されないでしょう。せっかく蒙古襲来伝説の聖地でもあり、奇岩の景勝地でもある「門が崎」が宝の持ち腐れになってしまいます。
残念なことです。
三前神社
『気比宮社記』によると、立石と白木の山の根の海中に「三前神社」というものがあるといいます。
この神社の説明に、蒙古襲来伝説が書かれているので、今回のテーマの聖地としては最大のものでしょう。
神殿は無く、二基の楯石を以て三前神社といい、船人はこれを拝む 参考:『気比宮社記』 |
とかかれています。
つまりは、先ほど『敦賀郡神社誌』にあった「巨岩多く、その最も大なる岩上には小祠が建てられてある」というのは、この「三前神社」のことでしょうか。
だとしたら、さっきの岩の祠は?原発関係で祠だけ移動して来たとか?それとも全く別の神?
これはわかりませんでした。
ただ、『敦賀郡神社誌』の「小祠」の記述は、『気比宮社記』の「三前神社」であり、ここが蒙古襲来伝説門ヶ崎立石の最聖地なのでしょう。
地名で楽しめる伝説たち
蒙古襲来の伝説として、敦賀の地を防衛したと伝わる「門が崎」と「楯石」
それは、現在も地名として伝わっており、その伝説に思いをはせることができます。
これらの遠い昔から伝わる、遠い昔の話を先人が地名として残したように、これからもその名前を大切にして、また自分たちの目でも、現地の素晴らしい景色を見られる日が来ることを願います。
参考文献:『気比宮社記』『敦賀郡神社誌』『越前若狭の伝説』
※『気比宮社記』については、宝暦11年(1761)平松周家大人による著書の『気比宮社記』の内容を、2600年奉祝にあたり、原本の内容のまま編集し発刊した、昭和16年発刊の『気比宮社記』を出典とする。
基本情報(アクセス、駐車場、バス)
立石
最寄り駅バス停は、JR敦賀駅からバスに乗り換え常宮線で立石バス停下車。
自動車で敦賀ICから26分。
駐車場はありませんが、集落一番奥に停められます。
門が崎
最寄り駅バス停は、JR敦賀駅からバスに乗り換え菅浜線で白木バス停下車。
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