敦賀市街地の西の松原地区山麓に原区があります。
この原区には「西福寺」という寺があり、国指定重要文化財もあり有名です。
そんな原区には「横穴」の墳墓が2つ現存しているはずなのです。
ちなみに、ここで用いる「横穴」とは『敦賀郡誌』からで、「上古の墳墓。現今まで発見されたもの。」と、します。
今回は原区で、そんな古代の墳墓を探し求めて行きたいと思います。
原について
まず、この原という集落ですが、『敦賀郡誌』によると、この原区は、「慶長検地以前は櫛川郷の一部」だったそうです。
櫛川は今は隣にある地区です。遺跡も見つかっており、昔から櫛川はかなり大きな土地だったようです。
ただ今は、原集落の人にとっても、原と櫛川は「よその町」という認識らしいです。
ただ親密な関係はどうも外せないように思えます。
冒頭でも記しましたが、原には「西福寺」という大きな寺院があります。この寺の規模は、所蔵や由緒を見れば一目瞭然ですが、相当昔から信仰を集めていたようです。
そして、櫛川には「穴地蔵」というものがあります。この穴地蔵は西福寺の12世寿光上人に関わる史跡ともされており、庶民の信仰の場でもあったといいます。
とまあ、少し脱線しましたが、このような大きな寺院のある原集落なのです。
それほどまでに、昔から信仰の場とされてきたのであれば、古墳・横穴があってもおかしくないかもしれません。
原地区の横穴について
『敦賀郡誌』によると、
旧松原村の原に八ヶ所、その多くは破壊されていて、現存する物は二ヶ所あり、西福寺裏に三室を有する横穴がある。 参考:『敦賀郡誌』 |
とあります。
つまり西福寺の裏にある三室の横穴一つと、集落側に一つあるということです。
福井埋蔵文化財のHPを見るとその或る程度の場所が書かれていて、「善衆衣谷横穴墓」という名前で表記されています。
今回はその集落側の横穴を探していきたいと思います。
現地へ赴く
福井埋蔵文化財の地図で位置はある程度分かっていますが、いつものごとく細かくはわかりません。
なんせ横穴なので、おそらくそれほど大きくない穴でしょう。
もしかしたら山の上の方にあるかもしれません。
原集落です。
敦賀の町のはずれにあり、本当に「集落」という感じの場所で、穏やかな空気です。
その原集落の南の方に山林が突き出ている場所があります。
おそらくあの突き出ている山の周辺なのです。
あの山に「善衆衣谷横穴墓」なる横穴があるはず。
とにかく山の麓の道沿いを歩いてみました。
なんか道路からもわかるところにめっちゃあやしい穴があるんですが・・・。
しかし、これかその横穴なのかはわかりません。
こうなったら、現地の人に聞いてみるのが一番でしょう。
すぐ近くで作業しているご夫婦がいらっしゃったので、尋ねてみると。お話を聞くことが出来ました。
原集落の方からの話
まず、横穴の昔の墓のことを尋ねたところ、
集落の方:「それならあそこにある穴や」
と言って、先ほどの怪しい穴のところへ案内してくださいました。
やはりこの穴が、私の探していた「善衆衣谷横穴墓」という横穴だそうです。(そんなに探さずに見つけてしまったけど)
集落の方:「いつからか板で穴をふさいでるけど、たまにその板をどけて穴をのぞきに来る人もいる」
とのこと。
さすがに私は、ちょっと気が引けたのでやめときました。
なんか、閉めてあるものをわざわざ開けるのもあれなので・・・。
しかしこうやってみると、本当に不自然な「穴」ですね。人為的なものがよくわかります。
集落の方:「昔、空襲があったとき、この穴に隠れた」
そうおっしゃいました。
突然で、全く予想もしなかった言葉でした。
なんというか、あまりにも突然で相づちを打ちながら話を聞くことしかできないような、そんな状態になりました。
集落の方:「穴から外をのぞくと、目の前は一面焼け野原だった」
集落の方:「戦争なんてしたらあかん」
そう、この横穴は戦時中、防空壕として使われていたのです。
「一面焼け野原」、それは地獄のような光景だったのでしょう。
敦賀は、三度襲撃を受けています。
一度目は昭和二十年七月十二日、上記の「敦賀大空襲」。
二度目は昭和二十年七月三十日、艦載機(P47)による機銃掃射と小型爆弾での空襲。
三度目は昭和二十年八月八日、B29による単機空襲。東洋紡績への模擬原爆(パンプキン爆弾)。
この原集落から見る焼け野原はやはり、一度目の「敦賀大空襲」でしょう。
その時に、この原集落の人が隠れた防空壕としても使われたのです。
1度目の敦賀空襲について、『敦賀市戦災復興史』から参考に見ていきます。
当日は朝からしとしとを小雨が降り続いて、弱い西北西の風が時折吹いていたそうです。午後九時十九分、福井県警戒警報が発令。これまで何回か発令されていましたが、いつも若狭湾や敦賀湾に機雷(水中に設置される兵器)を投下して退却していたため、当日も”又来たか”と軽い気持ちでいたそうです。 まず、広場や防空壕に避難しましたが、攻撃は川東方面からやってきて、市の中心部に及び、次第に拡大してくる火に追われて、天筒山隧道、気比神宮境内、市役所前広場、笙の川堤防などへ逃げ延びました。 空襲は翌十三日午前二時頃まで、約三時間に亘って、波状的に続けられ、本市枢要地区の大部分は焼けて跡形もなくなりました。 参考:『敦賀市戦災復興史』
以下『敦賀市戦災復興史』より引用 天をも焦がす火の海、”親を呼び” ”子を尋ねて”逃げ惑う、叫喚と混乱の怒涛、さながら生き地獄の如くであった。その時の情況は、到底つたない筆舌には、現わし尽くされるものではない。 |
酷い惨劇です。
敦賀の空襲を終えた機体は、原集落上空を通り過ぎていきました。
「中は意外と広いよ」
この言葉が、異常なほど重く感じました。
きっとそこまで深く込めた言葉ではなかったのでしょう。
しかし、それは、この中に入ったことのある集落の人の立場からの言葉です。その言葉は、非常に深く重く。また、価値のあるもののように感じました。
それは、横穴についての価値と、なにより戦争の悲惨さを示すものだと思ったからです。
なんだか、この穴についての、その方たちの一言ひとことが重く感じる様になりました。
しかし、こういった話を今回聞かせていただいたことは非常にありがたいことでした。
古代から戦時中まで歴史を刻んだ横穴
今回は、古代の横穴墳墓を探し求めてきました。
そして無事見つけることができました。
今回本当に偶然だったのですが、集落の方から戦時中の敦賀空襲のお話を聞かせていただくこともでき、この横穴についての古代の歴史的価値だけでなく、貴重な体験談と、空襲時の防空壕として近代においての横穴の価値も知ることができました。
この横穴は、私を今回のような貴重な出会いに導いてくれたのでしょう。
これからもこの横穴が、そこにあり続けてくれることを願います。
参考文献:『敦賀郡誌』『敦賀市戦災復興史』
他もう一つの横穴もあるようなので、そちらも調査しました。
原の神社にも行ってみるといいかもしれません。
ここは原の鎮守社と西福寺の鎮守社が祀られている場所です。
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