敦賀半島の東岸、敦賀原子力発電所のすぐ近くに大きな池があるのをご存じでしょうか。
その池は野鳥観察でも有名でしたが、伝説の集約地でもあるのです。
池の名を「猪ヶ池(読み方は「いのがいけ」)」といい、海のすぐそばに水が溜まっています。
今回その池に伝わる伝説や名前の由来、周辺の施設や様子、伝説の名残を紹介します。
どこにあるのか、どんな場所か
池の敷地内に入ることはできませんが、写真のように道路からでも猪ヶ池を見ることができます。
パッと見ただけでは、一瞬海かと思うほど大きな池です。
池があるのは、福井県敦賀市立石。敦賀半島の先端に位置する地区です。
半島の東側に猪ヶ池があります。
敦賀原子力発電所の前を通り過ぎ、立石トンネルの手前で右折した道の先にあります。その道から、池を見ることができます。
これほど大きな池なので、夜叉ヶ池や武周が池などと同じように、例によって大蛇の伝説が伝わっています。
ただ、猪ヶ池自体の伝説は大蛇がメインで出てこず、猪之助という漁師が主要人物として出てきます。もう名前を見ればわかりますが、明らかにこの人が池の名前の由来ですね。
では伝説を見ていきましょう。
猪之ヶ池の伝説(猪之助と池の主)
この池の伝説は、例の如く若干の描写の違いがあります。
若干ですが、その若干が結構重要な描写を書いていたり、いなかったりするので、一応2パターンを紹介します。
パターン1『越前若狭の伝説』
猪ヶ池を浦の人たちは底なしの池と呼んでいる。 およそ650年前、浦底の法華宗清流山妙泉寺に男が来て、寺男になった。猪之助(いのすけ)といい、金ヶ崎の合戦で落武者になった者で、堅気で仕事好きだった。猪之助はある日、底なしの池の近くのシイ谷で、赤い美しい魚を見つけた。浦の人はこの池の魚を食わないことにしていたが、猪之助はそれととって食べてしまった。 猪之助は急に気が変になり、池の水が飲みたくなって、池へ水を飲みに出かけ、そのまま姿を消した。浦総出で探したが見つからなかった。 池の主に取り憑かれて大蛇に身を変え、池に住むようになったと伝えられる。それからこの池を猪之ヶ池と呼ぶようになった。 いのが池は、浦の雨乞いの池でもある。 参考:『越前若狭の伝説』 |
パターン2『福井県の伝説』
猪之ヶ池は周囲十町余り(約1090m)ある。昔この池に多くの色とりどりの美しい金魚が泳いでいた。村人は「池には主が棲んでいるから行ってはいけない。金魚を捕まえてはいけない。祟りがある。」と先祖から伝えられていた。 この池に近い海辺に猪之助という漁夫が住んでいた。ある日池のそばを通ったとき、池を泳いでいる金魚に思わず見とれていた。じっと眺めていると思わず「とりたいなぁ」と声を漏らすほど欲望にかられた。しかしその日は言い伝えを思い出し、気持ちを抑えて帰った。 翌日猪之助は夢に浮されたようにふらっと家を出て、池の側にしゃがんで池を見つめた。日が高くなってもそのままで、夕暮れになるとふらふら家へ帰った。村の人はそれを見て猪之助に「あの池の側へは行くな。あの魚をとったら祟りがあるぞ。」と注意した。猪之助はぼんやりと頷いたが、次の日もその次も彼の姿があった。 一週間ばかりも続いたある日、猪之助はじっと池を見ていると、たまらなくなりとうとう一番大きく形の美しい金色に光る鱗の金魚を捕まえた。金魚は2,3度跳ねたが動かなくなってしまった。 その夜、彼はふと眼を覚ました。喉が焼け付くように乾いていた。彼はたまらなく外に出て一目散に池に来た。池が冷たく光っているのを見ると夢中で水を飲み始めた。自分の体が次第に池の中に沈んでいくのも知らずに。 翌日村人は猪之助の姿を見なかった。池のほとりに猪之助の草履が発見され、それからこの池に魚類の姿が見えなくなった。いつの間にか池の北に猪之助の墓も建ち、この池を猪のヶ池と呼ぶようになった。 参考:『福井県の伝説』 |
2つのパターンを比べてみる
以上の2つの伝説には思っていた以上に違いがありました。
違いを整理してみましょう。
- 猪之助が元落武者の寺人か漁夫か。
- 池の魚を食べたか、単純にとって死なせたか。
- 猪之助の最後は、行方不明か池に引きずり込まれたか。
『福井県の伝説』の方がかなり狂気じみている描写になっています。
何かに取り憑かれたかのように、毎日毎日池に行って最終的に我慢できなくなり、その後祟りで喉が焼けて水を飲んでいる最中に池に引きずり込まれる。
こっちの描写の方が怖すぎです。もはや怪異並みです。
そんな怪異並みの伝説を思いながら池を眺めるのも、また一興ではあります。
猪之助の墓とは
伝説の中に「猪之助の墓」があると出てきます。
「池の北側にある」というので、ちょうど道の方角になると思うのですが、どうも見つけられませんでした。他にも情報は載っていないですし、近くには原子力発電所の敷地があり、下手な動きはできないので探すのは断念しました。
池の方への道らしきものがありましたが、
このような感じで、池のほとりへの階段が崩壊していました。
鎖もかけられており、いかにも立入禁止でした。
そんな状態なので私は行きませんでしたが、ひょっとするとこの先に「猪之助の墓」があるのかもしれませんね。
東浦村岡崎との関係
この伝説を見ていると、猪之助の話とは別に東浦の岡崎の大蛇伝説が付け加えられています。
- 杉津の岡崎山の西海岳の岩屋にいる大蛇は雌で、猪が池に住む雄の大蛇と夫婦である。『越前若狭の伝説』
- 南風で海が荒れた時この波を乗り切って、池から対岸の東浦村岡崎の蛇の穴に向かって、蛇渡りするのを見た者がいるが、帰ってきたのを見た者はいない。『福井県の伝説』
意外と地域の大蛇伝説は、近くの地域の大蛇伝説と結びつくことが多いです。
これも近い地域の大蛇伝説が何時の頃からか結びついてできた伝説なのでしょう。
というか、結局大蛇が猪之助なのか、猪之助に取り憑いた主が大蛇なのか。
確かに大きな池で亡くなった人が大蛇となる伝説の例は福井県内にもあります。
越前町の細野の溜池の伝説です。
この細野の溜池では、ここに身投げした女の人が蛇になり、池の主になったという伝説があります。
記事でも紹介していますが、その供養のために建てられた祠が現在も残っています。
でも、今回の猪之助の場合はどうなのでしょうか。金魚が主なんでしょうか。
八大龍王のお堂
さて、この猪が池の祟りと大蛇伝説はつい最近まで受け継がれてきています。
そう、昭和8年の水産の開発、そしてこの地に原子力発電所ができるとき、この伝説に続きが付け加えられることになってしまったのです。
昭和八年県水産では、いのが池を開発したらと、網を入れたが、全くの不漁で、そのことを言いだした責任者は、にわかに得体の知れぬ熱病の床につき、大蛇に追われるうわごとを言い続け、苦しみもだえて死んだので、部落では池の主の祟りであろうと、池の辺に八大竜王の石碑をたてて、年ごろに供養した。最近この部落にできた原子力発電所でも、また池辺に立派なお堂を建てた。 引用:『越前若狭の伝説』 |
まさか、こんな最近まで祟りが続き、原子力発電所建設時もその祟りをおそれて、お堂を建てたというのです。
ここまで強力な言い伝えの残るのが、この猪が池なのですね。
実はその時のお堂が今も訪れることができる場所にあります。
猪ヶ池沿いの道の途中に、池側に木の建物が見えます。
この周辺は広場もあるので、そこに車をとめることもできると思います。
正面を見てみると、扁額に「八大竜王」の文字が見てとれます。
また、右奥に石碑らしきものがあり、そこにも「八大竜王」の文字がありました。
奉納の所に「日本原子力発電所」と敦賀市長の名前が書いてあるので、これが『越前若狭の伝説』にあった原発建設時のお堂でしょう。
これが、猪が池の祟りと大蛇伝説を伝える唯一の「文字」なのでしょう。
現在も伝えられているのです。
他にも伝説に「雨乞いの池でもあった」というので、それ関係かもしれませんがね。
他地域の大蛇から大人気。移住した又は移住予定だった蛇たち
さて、祟りに重点を当てて来ましたが、この猪が池は確かに「蛇」たちの楽園だったのかもしれません。
なぜなら、福井県内の大蛇伝説で他地域からもこの猪が池目指してやってくる「大蛇」たちがいたからです。
ちょっとだけ簡単に紹介しましょう。
敦賀市櫛川「お宮裏、人身御供の池」の大蛇
敦賀市の気比の松原横に櫛川の町があります。
そこには別宮神社があるのですが、その裏に大昔、池があったそうで、「大蛇が池」といったそうです。
その大蛇が池(蛇池)では、毎年娘を持つ家に白羽の矢が立って、人身御供として供えていました。
ある時、村長の家にその矢が立ちました。村長の一人娘を生贄に出すことになり、皆悲しみましたが、村はずれに住む少女が身代わりとして名乗りをあげました。その少女は、父がいなく、母は病に倒れており、村や村長の助けで暮らしていたそうです。その恩に報いるのは今だという事で名乗りをあげたそうです。
その身代わりの少女は生贄となり、途中で気を失ってしまいましたが、その夢に大蛇が出てきて、「今のお前は孝行に燃えていて近づけない。(指定した生贄と違うからという話もある)」というので、食われずに済みました。その後大蛇は「ここには住めなくなった」ということで、猪が池に移動したといいます。
参考:『福井県の伝説』
詳しくその土地を書いた記事があります。
なんというか、ハッピーエンドと言うか、よくできた話というか。
まあしかし、そんな経緯でこの櫛川大蛇が池の大蛇は、猪が池に移ったのでした。
猪之助が大蛇になったというのか、この櫛川の大蛇なのか。またわからなくなりました。
でも、後で繋がった話か、又は便乗した話かにも思えなく話です。
そういった伝説にロマンを感じるのが面白いのです。
越前市中津原「池の尾蛇池」の蛇
昔、ある家に武士が来て「山を貸してほしい」と頼みました。その礼として無限に米が出る俵をもらい、魚を毎日置いて渡すことになりました。しかしその俵は絶対に叩いてはいけないと言います。
その後、家は豊かになりましたが、ある日急ぎの用があり、つい俵を叩いてしまいました。すると米が出なくなり、武士もいなくなったのか、魚も置いてありませんでした。
武士は蛇で、借りた山に住んでいましたが、そのことがあって住めなくなりました。なので、その後猪ヶ池を目指したと言います。ただその途中で、火事の現場に遭い、蛇も巻き込まれて焼け死んでしまいました。
参考:『越前若狭の伝説』
元の伝説の話を見ていても、いろいろと話が飛躍している部分もありますが、まあ伝説として見ておきましょう。
それにしても、嶺北まで猪が池の伝説が関連しているんだなぁと思いましたが、よく考えて見たら中世まで丹生のあたりまでは敦賀郡だったし、それ以降も敦賀県の時代もあったので、案外この南条郡辺りは敦賀の伝説との結びつきも強いのかなとも思った次第です。
こんな遠い土地にまで「猪ヶ池」の名が出てくるなんて、よほど蛇たちにとっては聖地だったのかもしれませんね。
周辺施設と状況
さて、猪が池メインの話に戻ります。
ここからは伝説の猪ヶ池の現在を見ていきます。
猪が池は伝説以外にも野鳥の飛来地としても知られている場所です。それを象徴するものもありました。その現在を見ていきます。
猪ヶ池野鳥園
メイン広場とでも言いましょうか。
その場所にはこのような看板が建てられており、自然を題材にした猪ヶ池の概要が書かれています。
遊歩道などの地図も書かれています。昔は池を一周できたのでしょうか。
今では先で見た通り階段も崩れ立入禁止になっていましたが。
看板の横には、不穏な注意書きがあります。
どこにでもクマいるんですね。
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野鳥観察小屋
そんな野鳥の楽園には、野鳥を観察する小屋がありました。
これも先の広場にあるのですが、どうも長年使われていないような雰囲気です。
中には望遠鏡や説明が書いてありそうなものもありましたが、暗いです。
それに生垣の後ろから入口の方へ行ってみましたが、草が茂っており道が整備されていません。
時期が悪かったのか、もう使われなくなったのか。
立石集落への道
この広場より北に進むと立石集落です。
この立石について以前記事にもしました。
猪が池の道を進むと立石に通じるのですが、現在は封鎖されているようです。
立石トンネルが開通したからでしょうか。
グーグルのストリートビューでは、この道で立石集落へ行けるのでやってみても面白いかもしれません。
様々な顔を持つ猪ヶ池
大蛇伝説、祟り、自然。
ここには多くの物が広く(物理的)集約されています。
昔の人が伝える伝説や祟りの話は、現在でも畏れられ、お堂が残り。
現在の自然を楽しむ心が野鳥観察など自然を楽しむ施設として形成されました。
今までも昔からもに愛されていた猪ヶ池は、今後どうなって行くのでしょうか。
参考文献
『福井県の伝説』
『越前若狭の伝説』
基本情報(アクセス、駐車場)
自動車で、敦賀ICから26分。
駐車場はあります。
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