
福井県鯖江市立待地区にある西光寺は歴史のあるお寺です。そしてそこには「蛇報恩講」という独特の風習があり、一種の祭りでにぎやかに行われます。いつ行われるかというと毎年11月。報恩講の時期です。
これには名前の如く蛇の伝説が伝わっており、今回はその伝説に焦点を当てて、蛇報恩講を見ていこうと思います。
蛇報恩講の伝説
岡野の西にある山で、山の南の麓には溜池があった。往時は雁鴨などが多く泳いでいたが、だんだん埋められたのと、今は兵営近くで銃音が繁しくなったのとで水島は下りなくなった。この山は明治四十二年に里人から兵営に寄贈したので、随意の賞景にはさし閊えるようになった。
山麓の池は今より二百有余年前には周りが二十町もある大池であった。その頃丹生郡立待村吉江の西光寺に一人の乳母があった。その乳母は仏教を厚く信じていたが、人間の寿命が余りにも短いので自分の目的を達することが出来ないから、悟の道を開くには長寿をしなければならないと思った。それには長寿をする蛇の形態を借ろうと本身を蛇体としてこの大池に沈めた。毎年の西光寺の報恩講には、乳母の蛇がお参りをするので、雨の降るのが例となっている。故にこの寺の報恩講のことを一名※蛇盆講ともいっている。今はこの池は埋められたので、乳母の蛇は南条郡の夜叉が池に移り住んでいるという。
引用:『福井県の伝説』
※『越前若狭の伝説』では、「蛇報恩講」となっている。
仏教を基礎にした伝説。
蛇の伝説でもありますが、これは仏教・お寺の徳を示す伝説なのではないかとも受け止めました。
そうであっても、現代に残る魅力的な伝説であるということは間違いありません。
そしてこの伝説は、さらに詳細に、といいますか、設定が細かく付けられている資料もあります。
じゃぼんこう
雨や水が、我々の生活に欠かせないものであるということからか、「龍」や「じゃ」にまつわる伝説は各地に見られる。鯖江では吉江西光寺の報恩講にお参りする蛇の話が特に有名である。
先日、檀家総代の竹内伸夫氏と共に寺を訪ね西光寺二十二世石田照允住職から「じゃぼんこう」の由来について次のようにお聴きした。
藤島超勝寺寂園の子で西光寺十世を継いだ寂周は、若くして本山より紫袈裟を許され、門信徒からも親鸞さまの再来と敬い慕われた。しかし、その成長の陰には一人の乳母の寝食を忘れた献身があった。生来病弱であった寂周の世話係として、超勝寺から供をして来ていた。「お通」という乳母の、実母にも勝る慈愛の養育が報いられて、寂周は立派に成長した。その徳望は、四囲に響き、「参詣の人々堂にあふれ、道をふさぐ有様」と言われるほどであった。しかしお通にはかえって御前の健康が気がかりでならなかった。
人の命が「明日をも知らぬ」ものなら、仏様の慈悲によって、自分の命のたとえ何分の一でも、その分を寂周さまに差し上げてほしいと願をかけ、お通は近くの池に身を沈めたとのことである。そのお通が寺の過去帳には『釈尼妙通享保十二年十一月一日』と、記入されている。
その年の報恩講のちょうど日中に、にわかに雷鳴がとどろき強い雨が降った。そして、近くの池から水煙とともに、お通が龍になって舞い上がったともいわれている。
それ以来、西光寺の報恩講は、「じゃ報恩講」と、いわれるようになった。寺では、この信心深いお通の蛇のために、お堂わきの小部屋に陰善を供えることにした。
それから二百五十年が過ぎて参詣の人々も十幾代かを経たが、今でも報恩講の日に雨が降ると「お通さんの蛇が参った」と、参詣者は互いに顔を見合わせ、己の信心ほどを思い返すというのである。
不思議なことに昭和四十九年五月六日の大法要の日にも雷雨があり、秋の報恩講も雨降りであった。
越前における真宗本願寺派の巨刹であるこの西光寺は、本願寺第七代法主存知(蓮如の父)の開山による。第五世住職真敬は和田本覚寺・橋立真宗寺・大町専修寺などと共に、越前に門徒領国制を実現したが、天正三年(1575)織田信長の圧倒的軍勢に敗れ、木の芽峠で自決した。その時、寺も焼け打ちにあったが、文禄四年(1595)東郷城主長谷川氏より、寺領四千坪の寄進を受けて、石田から現地に移り、その後幕末までは福井藩主代々の深い帰依を受けてきた。(「立待村誌」参照)
山門は今から三百年前に松平昌親が寄進したものであり、御堂正面に掲げられている『石田殿』の額は、九条関白家の寄贈によるもので、この寺院の由緒を物語っている。
引用:『鯖江今昔』
『ふるさと立待』にもほぼ同一の記述有。
- 蛇になった乳母は「お通」という人物。
- 乳母「お通」は西光寺十世「寂周」の乳母。
- 「お通」は享保十二年十一月一日に亡くなる。つまり、蛇報恩講の伝説の起こり(舞台)は享保十二年(1727)。
以上のことがわかります。
そして、西光寺は元々石田にあったものが、吉江に移って、その裏に大池があったので、そこが舞台となった。ということになります。この蛇報恩講の起こりは意外とそんなに大昔ということではないのです。
延享二年(1748)ジャボンコの始まり
引用:『ふるさと立待』
という記述も見られるので、認識は間違っていないようです。
他の資料には、
例年十一月十七日の報恩講は蛇ぼんこと称して広く近郷近在より群参する。
引用:『全国寺院名鑑』
毎年十一月十七日の西光寺の報恩講には、うばの蛇が鴨池から参拝するということで、雨が三粒でも降ってくる。
参考:『会議所二十年と鯖江の産業』『神明郷土誌』
といったように、「雨が三粒でも降る」という不思議な話もあります。
祭りは11月17日で確定のようです。
最終的には夜叉が池の伝説に繋がるようですが、お寺の人の話によると、「夜叉が池の伝説に関連付けて伝えられている」とおっしゃっていたので、その言い方からどうも、夜叉が池の伝説にあやかったともいえるということのようです。

ただ夜叉が池の伝説は、後世、近代に池が完全に埋め立てられてしまってからの話なので、それまで伝わっていた蛇報恩講の伝説は立派なオリジナルということなのでしょう。
大池
大池、又は鴨池があったのは、琵琶山丸山の麓だったといいます。

明治時代にはまだ大池の一部が残されていたようですが、戦時中の陸軍練兵場となっており、徐々に埋め立てられていったようです。そして戦後、練兵場を工業団地にする計画が上がり、完全に池の跡すらも埋め立てられて丸山琵琶山も切り崩されて、池の面影は一切を失いました。かろうじて、琵琶山の一部が「琵琶山霊場」として残っており、かつてのこの付近の様子を偲ばせています。
西光寺の蛇報恩講
私は数年前に、一度だけタイミングが合って、蛇報恩講にお邪魔することが出来たことがあります。

お寺の人の話もその時に伺ったのですが。
雨が降らないと蛇報恩講じゃないと言われてしまうことがあるけれど、蛇報恩講だから雨が降るという言い伝えだから、ちょっと間違えている人もおられる。
ということもおっしゃっていました。
そんな蛇報恩講は、当日とても賑わっていました。

これはコロナ前の様子ですが、それでもこの時代にお寺の祭りでこれだけ屋台が出るのはなかなか見ないのではないかと思います。


『ふるさと立待』には、かつて、今よりももっと賑わっていた時代の様子が記してあります。
秋。各地の浄土真宗の寺で報恩講が行われるが、立待近辺では「ほんこさま」といえば西光寺の報恩講のことだった。「ジャボンコ」の呼び名は地元よりも他所での呼び名であったようだ。「ほんこさま」が近づくと家々が準備にかかり商家は賑わった。西光寺の報恩講は、十一月十六日、十七日、十八日。真宗の報恩講は親鸞のために行なわれるものだが、十七日を西光寺の報恩講に定めたのは、この日が寺を開いた存如の忌日にあたるからだった。十六日の昼頃から門信徒がお参りに来る。十六日の逮夜から十八日のお晨朝(朝の法要)まで二晩籠る人もいて、寺内には宿泊する人のために寝具を準備してあった。境内には夜店を開く人が荷車を弾いて次々と集まり、十五日頃になると屋台を開く店もあった。十七日の朝から境内は屋台で埋め尽くされ、百数拾軒の屋台は門前の道路の両側に二町余りにも連なった。小学校のこの日の午後からの授業はなく、西光寺の門徒の家の日曜学校に通っている子供は昼食を済ませると寺に集合した。各家のもてなしは、煮物、昆布巻き、小豆煮物、酢の物、ボタ餅、セイコガニ、清酒など。夕飯をすませると小遣いの一銭銅貨二枚か二銭銅貨をもらいお寺の屋台へ急いだ。小学校のあたりまで来るとアセチレンランプの臭気が漂う。道路沿いにはセイコガニを売る店、正門の辺りでチャワンヤの掛け声、境内は人でごった返した。カンシャク玉の弾く音、人だかりは五目ナラベの店、太鼓楼の辺りには穴ノゾキの呼び込み、裏門の辺りでは射的の屋台、裏門から道路に出ると、見世物小屋、カルワザ小屋、活動大写真の小屋があった。穴ノゾキ、見世物は五厘、カルワザ、活動写真は一銭。夜十一時を過ぎると境内は静かになってゆき、御堂の中は、お小夜に参った人たちでにぎわっていた。説教は晨朝まで続いた。
参考:『ふるさと立待』
ということが書かれており、現在は不明ですが、昔は泊まり込みでこの祭りがおこなわれていたのですね。
私が訪れたときは、屋台は普通の神社やつつじ祭りであるような屋台を確認できましたが、昔はカニとか見世物小屋とか、そういったものまで出ていて、こういう集落での数少ない娯楽の時間だったのかもしれませんね。
その雰囲気を少しでも堪能できたので良かったです。
ちなみに報恩講中の堂内にも入らせていただきました。説教やお経だけがあるものと思っていましたが、それだけではないのです。という記憶だけがあります。もう何年も前の話なので、記憶が不確かな部分もありますので、詳細は書かないでおこうと思います。ぜひ訪れてみてください。
西光寺の由緒

先ほども書きましたが、改めて、蛇報恩講とは別に、西光寺自体の由緒も書いておきます。
当寺は真宗本願寺派で石田山と号している。本願寺の第七世存如上人の創立である。存如上人が南越を巡敬された際に、下石田村に一宇を建てて、三年ほど住んでおられたので、今の山号を称える様になった。後にその子蓮如の妹如裕を、本山第五世綽如の法孫永存に配して、凡そ六年を経て自畫自讃の寿像及竹洞の名号等を残して、長禄元年に元寂された。しかして当寺第五世真敬は、天正元年八月十六日に、織田信長の軍を木目峠に防いで戦死したので、今尚その遺跡を西光寺丸と称えて、一片の石碑も存してある。同三年堂宇は信長の兵火にかかったため宝物旧記等多くはこの時烏有に帰してしまった。後足羽郡東郷の城主で、朝倉義景の支族であった長谷川藤五郎法名嘉竹という者が、深く当寺に帰依して、文禄四年に敷地を寄進したので現今の地に遷ったのである。現在の西光寺の本門は、下石田の方を向いて(西向)建ててあり、そのために御堂と門とはかけはなれた感がある。
引用:『福井県の伝説』
これは蛇報恩講が起こる前の出来事です。
蛇報恩講のみならず、お寺自体にもこれほどの由緒があるので、歴史好きにも充実した場所になっていると思われます。
信心の伝説
この蛇の伝説は、乳母が立派な僧侶を育て上げ、さらにその乳母は自分の身を池に投げ蛇体に変えてまで信仰を続けようとして、蛇体になった後でも侵攻を続けるという、まさに仏教への信心を説く伝説になっているのでしょう。
曹洞宗では、蛇体になった女性を救済する女人救済の伝説がよくありますが、浄土真宗西光寺のこの伝説は、信心が故に自ら蛇体となるという、少し曹洞宗の成り行きとは違う感があります。
いずれにしても仏教のありがたさを伝える、信仰を広める伝説ということなのでしょう。
参考文献
『福井県の伝説』著者河合千秋 出版昭11
『越前若狭の伝説』著者杉原丈夫 出版1970
『会議所二十年と鯖江の産業』著者鯖江商工会議所 出版1981.3
『神明郷土誌』著者神明郷土誌編纂委員会 出版1972
『全国寺院名鑑』著者全日本仏教会寺院名鑑刊行会 出版1969
『鯖江今昔』著者三輪信一 出版1981.7
『ふるさと立待』著者ふるさと立待編さん委員会 出版1994.12
基本情報(アクセス)
| 最寄り駅 | 福武線鳥羽中駅から徒歩28分 |
| 自動車 | 鯖江ICから18分 |


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