福井県小浜市の若狭という地区に椎村神社があります。
自然豊かで巨木の痕跡が見られたり、古い階段があったりと歴史と自然を感じる神社です。
王の舞が有名な神社ですが、その王の舞はほかの若狭地方の王の舞とは少し違います。またこの神社と地区の歴史的関係も奥が深いです。
今回は神社と地区の歴史、王の舞についてみていきます。
御祭神・由緒
祭神:青梅首椎根津彦神、大山祇命
社伝によると、人皇四十五代聖武天皇の御宇天平三年(731)創建。式内社。椎社とも称す。中期には山王社とも称す。延喜式に「椎村神社」とある。國帳に「従三位椎村神社」とある。藩政時代の郡縣誌などには、椎村神社の記載はなく、「山王社」「山王二三宮大権現」などと称してある。羽賀寺年中行事には嘉祥三年に大光坊智真律師の勧請するところで鑰田として三斗六升の物成を別当職に宛行われ、寛永十一年酒井忠朝が再興し、別当羽賀法印良秀遷宮の式を勤める。大正九年三月同区王の前に長保四年(1002)勧請の無各社山神社大山祇命を合祀。大正十四年拝殿新築。
参考:『御大典記念福井県神社誌』『福井県神社誌』『若狭遠敷郡誌』
昔疫病が流行ったことがあるようで、それは神の祟りであると考えられており、「暴神」であるともされています。
神社の森と名前の関係
伴信友はこの椎村神社について考察してあり、『内外海誌』には『伴信友全集二巻』を引用して詳しく書かれています。
若狭浦の老人に、椎崎のことを問ふに、郡県志にいへると同じ。但しその椎崎といふは若狭浦(山副の海辺の里なり)内なから東浦と呼て人里ある所より、西の方小山一隔たる一区(ヒトトコロ)の地にて、又の名を椎ノ森ともいふ。椎樹多く叢生(ムラガリオヒ)たり。その森ノ中にある杜を椎ノ宮といへり。祭神は椎崎御垣(シイザキミカキ)大明神と申す。山王は相殿に座して御垣山王とも申す。されどもなべてはただ山王社と申なり。
引用:『内外海誌』
今言う椎崎御垣大明神とは二神の名を連ねたものであり、椎崎とは椎村ノ神を座し、御垣とは国帳にある正五位御垣明神とある神を相殿に祀るもので御垣山王とも山王ともいい、またその後に二神ともを山王というようになった
というらしいです。
椎村というのは椎叢(シイムラ)の中に座すことから来ているとも考えられるそうです。
伴信友の引用がそのまま書いてあるのでなかなか理解が難しい言葉並びでしたがこういうことのようです。間違っていたらすみません。『内外海村』に書いてあるので興味を持った方はご覧ください。国立デジタル図書館で見られます。私の読み間違いがあるかもしれません。
とにかく椎がそれほどたくさんある森であるということには違いないようです。
境内には巨木の株も残されています。
周りを見てもまさに森の中にたたずむ神社という感じです。
そして、前回「若狭浦の名前の由来と古墳「王塚・黄金の鶏」伝説【小浜市】」で紹介した金の鶏の塚や王の塚などの伝説のことが書かれています。
元旦の朝に塚の近くで鶏の鳴き声を聞くと幸運が訪れるというものです。
そしてその王塚の前の坂を王の前というといいます。
近くには確かに山があり、神社と塚(古墳)が一体化している配置のようにも見えます。
山際の神社は高台にあるのがほとんどですが、こうも塚の伝説があると、神社自体が塚の上に立っているのではないかと勘繰ってしまいます。
階段は古くからの石段でなされており、多くの人がここを踏みしめてきたのだということを想像させられます。
若狭区と神社
『内外海誌』でもかいてありますが、元々は西の方の区である西ヶ浦にも人里はありましたが、疫病(エヤミ)が流行ったために東浦に移ったということです。
『内外海の記憶』には、
村は移動しましたが神社だけは残されたのです。
引用:『内外海の記憶』
ともかいてあります。
しかしこれには色々と説があるようで、実はこれも「若狭浦の名前の由来と古墳「王塚・黄金の鶏」伝説【小浜市】」で紹介したのですが、藩政時代に鉄の精錬があって、その公害で西ヶ浦から東浦に移ったという説もあるようです。
王の舞について
王の舞は若狭では十六か所で伝承されています。その中の一つです。
若狭区の地元では悪さをする猪を天狗が退治するしぐさで、悪魔払いと五穀豊穣を祈願する舞といわれています。
引用:『内外海の記憶』
文化財のホームページなどで言われているのは、「獅子を退治する鼻高」という表現になっています。
五穀豊穣を願う舞ということで、海に近い土地といえども、昔から漁業よりも農業が盛んにおこなわれた若狭区の考え方によるものと思われます。
王の舞のある祭礼では、神社境内で獅子舞と王の舞が奉納された後、離れた集落へ向かい、鉾と王面の露払いを先頭に太鼓を打ち行列を成し、集落の中央にあるお旅所でまた獅子舞と王の舞が奉納されるといいます。
獅子舞は、二人一組で頭と尾。頭は御輿に向かって右回転軸、尾は左足から出て三歩、四歩目に砂地を蹴るように跳ぶ。其の時太鼓一打。一回転三跳、三回転すると衣装を脱ぎ、頭の人は神輿前に末広をひろげ一揖して二人退く。
王の舞は獅子舞が終わると行う。侍者の捧げる鉾の衣をはずしこれを装着し面をかぶる。御輿に一礼、御輿の前で左回転、三歩目に跳ぶ。これを四度行い元の位置へ戻る。三歩毎に太鼓一打。これを三回転行う。鉾を右脇にかかえ獅子を追う状態。これが終わると鉾を構え左先右手前で鉾を御輿の下に潜む獅子を突きさす動作。再び持ち直し、同じく右先左手前で鉾を突き刺す。突き刺すごとに太鼓一打。終わって、鉾を侍者に渡し、一旦姿勢を正し左右の手を腰に当て居丈高の姿勢を取る。これは獅子を突き刺すことに成功して武器を手にしていない状態を表す。御輿の正面で行い、そのまま散歩大きく退く。退くと姿勢を正しのけぞりかえり、左右の手の親指・人差し指・中指を出しうつむいて、指さす格好で左右左と一歩ずつ進み面を外して侍者の捧げる鉾に結び付け末広をひろげ御輿に一揖して去る。
面は年代不詳。
参考:『内外海誌』
『内外海の記憶』によると、王の舞の装束は
- 面は赤黒い朱塗りで憤怒面で製作は室町時代。
- 装束は黒の襖を尻からげし、白の麻布を肩からたらし、きらびやかさはなく、素朴なもの。
きらびやかな王の前ではなく、本当に一集落で質素に行われる祭りのようです。
古の神社
椎村神社の成り立ちからすでに古の時代となっており、伝わる王の舞も古くからの伝統が込められています。
神社を形成するのは社殿や人々の伝統はもちろんのころ、この場所に来ると、その森自体も大切な神社の一部であるということが実感できます。
自然と人々が共に古から紡いできたこの神社。
これからもそれが途切れることなく、壊されることなく、未来に残っていくことを願います。
参考文献
『御大典記念福井県神社誌』
『福井県神社誌』
『若狭遠敷郡誌』
『内外海誌』
『内外海の記憶』
基本情報(アクセス)
自動車 | 小浜ICから15分 |
駐車場 | なし |
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