福井県大野市乾側牛ケ原の美濃街道に花山峠(坂戸峠)という場所があります。
福井市との境界近くのトンネル内にその象徴として地蔵尊が祀られる。乳出しのご利益があるとして信仰されてきました。その由来はすこしばかり残酷な伝説から来ているといいます。
今回はそれらの由来などを見ていきます。
どこにあるのか
大野市の牛ケ原と福井市の計石の境付近にあります。
ちょうど、トンネル~スノーシェッド内にある形になります。
今の峠越えのメインルートは、丁地区と東川上の国道158号線になりますが、牛ケ原と計石は昔ながらの峠越えの道となります。今でも車の往来は少なくありません。
目的の地蔵尊があるのはトンネル~スノーシェッドの途中にあるという事で、駐車場もなく、車を止めておく場所もありません。なかなか立ち寄りにくい場所にあります。ただその道を通るとおそらく赤いのぼりを目にすると思います。なので知ってる方は気になっていたのではないでしょうか。
ちなみにちょうど越美北線の上にあるような形になります。
伝説
地蔵の伝説1
むかし羽生に子供を産んだが乳の出ない女がいて、わざわざ大野まで花山峠を越えて、乳をもらいに通っていた。ある日の帰り道なだれにあって、親子ともに死んでしまった。村人はそこへ地蔵さんを建てた。地蔵さんの横に水が出た。その水を飲むと、よくお乳が出るという。今も少しずつ流れている。今でも母親は布袋で乳房の形をつくって地蔵さんにそなえ、乳の出るのを祈っている。
引用:『越前若狭の伝説』
のぼりも立って、かなり目立つこの地蔵。しかしその由来は結構悲しい伝説にあったのですね。
現地には多くの石仏が安置されています。お堂に入っているものと外にあるものの区別が何なのかは不明です。時代ごとに増えていった感じでしょうか。
この話は『奥越前の昔ばなし』にも収録されており、
(前略)
村人は母子の冥福を祈って石地蔵を安置しましたが、その後、この石地蔵の横に湧く水を飲むと、よく乳が出るといわれています。今も毎日線香やお花の絶えることがありません。
引用:『奥越前の昔ばなし』
このように書かれています。確かに新しめの花が供えられていました。
水は今も流れており、いかにも「汲んでいけ」みたいな感じになっていますが、今は衛生上飲んではいけない水となっているようです。
石碑があります。
中々達筆すぎて読めませんが「地蔵」という文字が先頭に見えるので、この地蔵尊のいわれか、それを唄った文がかかれているのでしょうか。
そして、実はもうひとつ、これとはまた違った供養地蔵の伝説があるのです。こっちもなかなかやばいです。
地蔵の伝説2
天保の飢饉の時、花山峠を乳飲み子をつれた母親が歩いてきたところ、こじきが来て、「乳を飲ませてくれ」と頼んだ。断られたので、こじきは親子を殺してしまった。そのあとに地蔵が作られたという。
引用:『越前若狭の伝説』
人間のなかなかおっかない話です。
しかし興味深いことに『大野郡誌』にこのような記述があります。
天保飢饉の碑 坂戸の峠を北に、三四町の右手小高き所に在り
(中略)
無縁の死者を収瘞せしものにて
引用:『大野郡誌』
要は飢饉の無縁の死者を集めて埋葬した場所だという事です。
三四町という表現が「3、4町」なのか「34町」なのかわかりませんね…。いずれにしてもけっこう遠い(1町=およそ100m範囲)ので場所は特定できそうにないですが、付近に天保飢饉塚があるということです。
そして気になったものが現地にもあります。
外に出ている石仏の祠の裏に、まるで見えないように隠れるようにしてもう一つ石碑が立っているのです。もうぴったり後ろについて写真も撮れない。見えない。
でも心なしか、「南無」という文字が上に彫られているようにも見える。違うかもしれませんが。つまりこっちの石仏群は塚の供養石仏の可能性が。
という妄想もできます。わかりませんけど。
いずれにしても、この天保飢饉版の伝説に何かしらの関係を感じなくもないなぁと思いました。
狐に化かされる
これは昔話として、『奥越前の昔ばなし』に収録されている話です。
よくある、「狐に化かされないようにして、いつの間にか化かされている」という類の話です。
ここでもやはり美女に化けるようです。
花山峠の狐。この話で化かされたのは福井側の人でした。
花山峠と名の由来
峠の名前は元「坂戸峠」
さて、今まで見てきた通り、ここは「花山峠」といっていますが、どうやら昔は「阪戸峠(坂戸峠)」や「坂の峠」と呼んでいたようです。
『大野郡誌』を見ると、
- 改鑿せし縣道美濃道の阪戸峠
- 縣道美濃道線は、羽生村と境を分つ坂戸峠より本村に入り、中央部(殆ど牛ケ原地籍)を東西に貫通し、下庄村に去る
とも書かれておりさらに、
[深山木]さかどの山をこゆる時 さかどの山夕こえ来れは我宿の梢ほのかに霧こむる見ゆ
此(花山)ほとりにむかし鏡山といひし山ありしこと朝倉殿の織田殿にせめられてこのあがたにのがれきたまひし時の道のさまかけるものにみえたり今はさる名は聞えずこのむかつををかげ山といふはもしそれにやあらむかがみつづまればぎとなりぎとげと相通へばおのづからうつれるとなへなるべくおぼゆ
[越前名蹟考]坂の峠 福井より大野への道筋羽丹生庄より此峠をこゆる街道なり
引用:『大野郡誌』
と見えます。「花山峠」という名前は見られず、一貫して「花山」と「阪戸峠」「坂の峠」という風に分けて書いてあります。
『大野郡誌』は大正元年(1912)発刊の郷土史なので、その時代はまだ「花山峠」という言い方はしていなかったようです。「花山峠」という名称が出来たのは結構最近なのですね。
そして朝倉義景が抜けた道がこの坂戸峠ということのようです。
ちなみに「坂戸」というのは、現在の牛ケ原の中にある一つの村の名前で、それがちょうど峠の麓の村なのです。なので古くからは「坂戸峠」と言っていたのでしょう。(明治九年に周辺3村と合併し牛ケ原村になる)
花山の由来
では「花山」とはどこから来たのかという問題です。
まず「花山」そのものの由来について、『大野郡誌』がこう書いています。
[深山木]花山にて この由を花山としもいふことはつつじあしびの咲ばなりけり
[越前名蹟考](坂の)峠を過る道より左手にははな山ありつつじ木瓜など多き故に花山といふか
引用:『大野郡誌』
どうやらこのあたりにツツジが多く咲いていたようです。なので、「花山」というようになったと。
『越前若狭の伝説』にも似たようなことが書かれています。
ここはつつじやぼけの花がたくさん咲くので、花山峠と名付けられた。
引用:『越前若狭の伝説』
ただこの『越前若狭の伝説』の文は、『大野郡誌』を見ると少し違うように見えますね。つつじが咲くので「花山」と名付けられたのは「峠」ではなくこの辺りのことで、峠の名前のことではなさそう。それとも坂戸峠の別名として「花山」とされたのかです。
実は乾側地区には公式ホームページがありそこに、
昭和40年頃までは坂戸峠と呼ばれていた
『歴史ロマンの郷 いぬいかわ』http://www.inuikawa.jp/powerspot/
と書かれているんですね。
かなり最近なので、やはり坂戸峠と花山は意味合いが少し違うような感じがします。
ちなみに牛ケ原には坂戸のような細かい村の中に「花山」という村もあります。坂戸は昔からある村ですが、『大野市史 地区編』によると花山は昭和十三年(1938)にできた新しい行政区です。再び昭和二十九年(1954)に合併があり、今の牛ケ原という大字になったということです。
というわけで、「花山」という村も出来上がりました。しかも「花山峠」と呼ばれるようになる前にです。この村は美濃道沿いにあります。
これで「花山峠」という名前が付けられた経緯が2つの説になってしまいました。
- 峠周辺を花山と呼んでいたのがいつしか峠の名になった。
- 花山村が出来たことによって、峠の名前が「坂戸」から「花山」になった。
「花山」自体の起源はつつじが咲いていた場所というもので間違いないですが、峠の名前が「花山峠」になった理由は・・・、どちらなのでしょうかね。
ちなみに
- 花山峠のトンネル名は「花山トンネル」昭和38年(1963)架設
- 花山峠のスノーシェッド名は「坂戸スノーシェッド」昭和62年(1987)架設
坂戸と花山が凄いせめぎ合ってる・・・。
謎の石碑
さて、この花山峠の地蔵の付近にもう一つ気になるものがあるのです。
向こうに何やら石碑のようなものが立っています。
あまり誰も通ってなさそうな道を進み近くまで行ってみます。
だいぶ昔のものですね。あまり読めません。
でも、「敦賀県」「石川県」という文字が見えます。ということは明治時代のものでしょうか。
すると近くに看板が埋もれているのを見つけました。だいぶ埋もれていたので落ち葉をどかすのが一苦労ですが、気になるので全部どかすと、
「峠改修記念碑 明治二十一年八月」と書かれています。
つまりこの花山峠の美濃道改修記念に立てられた記念碑という事ですね。
先ほどの『大野郡誌』にも
改鑿せし縣道美濃道の阪戸峠
と書かれていたので、そのことでしょうか。
これの詳しく載っているのは、『大野市史 通史編 下』です。
「大野道の改修」というタイトルで紹介されています。福井~岐阜間の一区間(福井~大野)のことを大野道といっていたようで、それが全区間合わせて「美濃道」と呼ばれていたようです。
大野道の最大の難関は坂戸峠(花山峠)であった。「左まで高しと云ふにハあらねど、車を挽くにはなかなかの障碍にて、運転の便利之れが為めに非常に妨げららる」ことから、大野町の布川源兵衛など有志者により敦賀県、石川県に対してその掘下げについての願書提出が繰り返され、漸く福井県となった明治十五年八月開鑿が認められ工事請負の入札が行われたという。次いで明治十六年五月には「該工事は大ひに捗とり今十数日間にて落成すべき見込みなりとぞ」と報道されてる。なおこの工事について大野町民などより多額の献金が行われた。
引用:『大野市史 通史編 下』
敦賀県、石川県の名が出てくるので、おそらく同じようなことが石碑も書いてあるものと思われます。
この道は多くの人の協力の元出来上がっていったのですね。
基本情報
最寄り駅 | JR越美北線牛ケ原駅から徒歩24分 |
自動車 | 大野ICから8分 |
駐車場 | なし |
参考文献
『越前若狭の伝説』
『奥越前の昔ばなし』
『大野郡誌』
『大野市史 地区編』
『大野市史 通史編 下』
「歴史ロマンの郷 いぬいかわ」ホームページ
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