長泉寺に今も残る二つの白山神社~水落白山神社・長泉寺白山神社【鯖江市】

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福井県鯖江市にかつてあった長泉寺三十六坊。そこには白山信仰があり白山神社があったというが、周辺には現在でもその名残とされる白山神社が残されています。

一つは長泉寺山内にある水落白山神社。一つは長泉寺の家々の中にある長泉寺白山神社。この二つの白山神社は、かつての長泉寺白山信仰の息吹を感じる神社となっています。

長泉寺町内にある白山神社

長泉寺白山神社

白山神社
祭神 白山媛命、大物主命、崇徳天皇
 養老二年(718)泰澄大師の勧請と伝える。この別当が長泉寺で、現在の中道院は同寺三十六坊の一。戦国期には朝倉氏の崇敬を受く。明治十年村社に列格。長泉寺山中に鎮座したが、同四十年金刀比羅社を合祀して現在地に還る。大正元年指定村社に列す。
引用:『御大典記念福井県神社誌』

元指定村社 白山神社
長泉寺区第三十号上野南割八番地鎮座
祭神 白山媛命、大物主命、崇徳天皇
 鎮座年月未詳。養老元年泰澄大師勧請して、西仙坊を造営し、別当となる。後三十六坊となり、当時社寺の領地参千余石有し、頗る勢力があった。桓武天皇の勅願所だったと云い伝う。貞元元年、比叡山の慈慧大師、この地を、称美し、自ら、樒を植え、遺株、今猶繁茂している。「別当を霊地山長泉寺と云ふ」。戦国の時、一揆の為に焼亡して後、中道院、之を管した。明治維新に際し、神仏混淆を区分し、明治十年、村社に、列格す。然るに、社頭は、第卅三宇一番地であるので往昔、境内付近に居住した氏子は、漸次、街道筋に移転してから、今や、人家を離るる事、五町余の山中となり、例年積雪の候には、老幼の参詣に堪えざるにより、明治四十年五月二十五日、福井県の許可を得て、仝宇無格社金刀比羅神社を合祀し、同時に、今の地に、移転した。
引用:『鯖江郷土誌』

『今立郡神社誌』にも同じようなことが書かれており、更に付け加えて、

口碑伝説
 元正天皇の養老二年に泰澄が越知山を開き、白山を開いたが、白山は女人禁制且つ険しい地であるため、諸人の参詣は難しかった。そのとき、この地が平坦且つ霊地であったため、喜び、分身の白山妙理大菩薩(伊弉冊尊)を安置し西泉坊を造営、後に別当となり三十六坊となる。桓武天皇の勅願所となり、比叡山の慈慧大僧正北陸巡錫の時ここに留まり、地形が比叡山に似ているとし、樒を植樹、三十六坊を修造、滞在九か月にわたった。朝倉・信長や一揆の戦乱の時、焼亡したが、天正四年に別当住職が中道院と圓教院を再建、その時に白山神社も石祠で祀られた。寛永年間に社殿を再建するも規模は小さかった。天保十三年に朱塗りの大鳥居を建立(今のとは異なる)、安政年間に社殿を造営、明治維新の廃仏毀釈時に白山妙理大菩薩が中道院へ移された。
参考:『今立郡神社誌』

とされています。

長泉寺三十六坊と白山神社が焼失したのは、一向一揆の兵火とするものもありますが、『福井県神社誌』には、織田と朝倉の戦いの兵火ということになっています。

旧地からこの場所に移転されて、それなりに時間が経っています。

もう元からこの地にあったかのような風格です。長泉寺の旧北陸道沿いの街中にあり、周辺には人家や寺などがあります。

長泉寺白山神社

郷土史に書かれている朱塗りの鳥居は今でも継承されています。

もちろん当時のものではありませんが、これはこの長泉寺白山神社の伝統なのです。白山神社で朱塗りの鳥居とは珍しいなと思っていたのですが、ちゃんと由緒があり、それを継承している。それはとても素晴らしいことと思います。

長泉寺山に残る水落白山神社

水落白山神社

長泉寺とは違う方向に登り口があります。

水落白山神社
水落白山神社

本当に山です。まるで登山。

水落白山神社
水落白山神社

古めかしい白山神社の鳥居と扁額。

水落白山神社

ここを登ると社殿があります。

現地にて説明版が掲示されているので、事前に調べていかなくてもある程度のことは書いてあります。

水落白山神社

 養老二年(718)、泰澄大師が当地に玉林寺(後の長泉寺)36坊を創建し、その山頂に白山権現を安置したものが現在の白山神社であるとされる。後に山本庄の氏神となり、大治四年(1129)に神明社が遷座してきてからは二の宮となった。
一部引用:『現地説明版』

そしてこの説明のあとに、この神社の社叢の巨木たちの紹介がされています。

昔からある社叢ということが、境内の巨木で証明されているというわけです。杉の木の樹齢は200~250年と推定されるということです。

水落白山神社
水落白山神社

境内は厳かな雰囲気に包まれていました。そしてこちらも朱塗りの鳥居。

長泉寺の白山神社の流れを組んでいるという事でしょうか。

 

福井県今立郡神明村水落区字白山八十二番地鎮座
祭神 伊弉冊尊
口碑伝説
 社号は古昔より土宮又は白山小白山とも称せり明細帳上申の際現今の社名となれり山麓に木曽義仲の城趾あり義仲常に崇敬し山頂の風景絶佳なるを愛し殊に神木桜の清麗なるを観て薄墨桜と詠める短冊を納めしと云う、今猶古木森々桜樹を交えて旧時を追想せしむ貞和二年十二月十八日賢春外五名の血判起請文あり仝三年三月九日より源左近太夫守友(神明神主瓜生守吾の遠祖)輔任以来絶えず奉仕す貞治五年三月二十八日地頭興久より神楽料として神田一反歩寄付せらる
引用:『今立郡神社誌』

この記述は確かに水落の白山神社の物ですが、住所が違うという点で疑っています。

ちなみに水落にはもう一つ白山神社の跡があり、水落宿場跡碑近くに石碑が立っています。

水落白山神社

ここのことの可能性もありますが、そこも現代の住所ではないので、確定は難しいです。

しかし郷土史の中には、「山頂の風景絶佳なるを愛し」や「古木森々桜樹を交え」という記述があるので、長泉寺山の事を言っているのではないかと思います。そうすると、古くからここに鎮座していると考えられる、この白山神社の事をさしているのではないかと思うのです。

いずれにしても、現地の公式見解では、長泉寺山にあった大昔の長泉寺三十六坊時代の白山神社の位置が、この白山神社の位置ではないかということのようです。

この水落白山神社と長泉寺白山神社は、元は同じ白山神社だったのかもしれません。

現代へ続く信仰の息吹

中道院が残った理由として、おそらくすりばちやいとという、庶民の信仰を集めやすいものがあったことが要因の一つだと思います。

それと同じく、元々は巨大寺院の奥の院として鎮座移していた神社ではあるものの、氏神として祀られるようになったことで、庶民からの信仰を集めたのでしょう。

何かで言っていましたが、歴史的に長く残る信仰施設というのは、敷居が高くない、庶民に愛される、庶民の信仰を集める場所であるといいます。

泰澄が「白山は参詣が難しいからこの低い土地に霊地を開こう」というのが、まさにその原点でしょう。

中道院も白山神社も、庶民の信仰を集めてここまで残って来たのです。

参考文献
『御大典記念福井県神社誌』著者福井県神社庁 出版1994.9
『鯖江郷土誌』著者鯖江町 出版1955.9
『今立郡神社誌』著者福井県神職会今立郡支部 出版1919.8
現地説明版

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基本情報(アクセス)

水落白山神社

最寄り駅福井鉄道水落駅から徒歩8分
自動車鯖江ICから11分
駐車場なし

長泉寺白山神社

最寄り駅福井鉄道西山公園駅から徒歩4分
自動車鯖江ICから8分
駐車場なし

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