福井県鯖江市に琵琶山という岩山が存在しています。
ここにはかつて、二つの山と森があり、そして大池があって自然豊かな場所だったようです。その後、鯖江36連隊の練兵場となり、周辺も大きく開発され、琵琶山周辺は訓練場となりました。
戦争が終わると、山の殆どは切り崩されて、眼鏡製造団地となり、今では住宅ある土地となっています。ただ琵琶山は霊場として残り、周辺は起伏がわずかに残るなど、当時の面影を感じられる様子となっています。
『福井県の伝説』に見る琵琶山と大池
岡野の西にある山で、山の南の麓には溜池があった。往時は雁鴨などが多く泳いでいたが、だんだん埋められたのと、今は兵営近くで銃音が繁しくなったのとで水島は下りなくなった。この山は明治四十二年に里人から兵営に寄贈したので、随意の賞景にはさし閊えるようになった。
山麓の池は今より二百有余年前には周りが二十町もある大池であった。云々
引用:『福井県の伝説』
このように近代まではとても自然豊かな場所だったようです。
普通に人々の生活圏拡大で埋められていったようですが、兵営に寄贈されて以降、著しく環境が変わったのでしょう。
さらに詳細に書いている郷土資料が存在します。それが、『丸山町誕生20周年記念 丸山町誌』です。
次項「琵琶山と丸山」は主に、『丸山町誕生20周年記念 丸山町誌』と『山々のルーツ』を見て、記していきたいと思います。
琵琶山と丸山
地理
琵琶山は標高43.7m。かつて丸山は、丸山三丁目の眼鏡工場団地のあたりに、その東側に琵琶山があった。丸山は傾斜の小さい丸い山、山というより丘に近い。琵琶山は琵琶に似ていたことからその名がつられたといわれる。四方に白山、文殊山、日野山、越知山を望み、春はつつじの美しい場所だった。戦後、冬には子供たちのスキー場となって賑わい、近辺の小学校の遠足場所でもあった。
琵琶山は変朽安山岩、洪積台地の中に約25m頭を出し、丸山は10m低かった。
山は昭和37年から徐々に切り崩され、今は一部が記念に残されて忠魂碑が建っていて、東麓にあたる一部が残されている。
この洪積台地は良質な粘土の為、かつては瓦の産地でもあった。また、鯖江歩兵第36連隊の練兵場でもある。ただ昔は、鳥羽野・糺野・吉江野と言われ、所々に池や湿地があり、雑木林や萱原で、江戸時代には福井藩の鴨の猟場であった。
「丸山町」とはじめに出たのは、昭和41年。正式に名づけられたのは昭和49年。施工されたのは昭和50年。
昔、丸山の西に「吉江ふけ」といわれる水深の浅い葦の生い茂る池があり、また、「鴨池」という広さ二町程の大池(じゃぼんこう伝説の池)が別にあったかは不明だが、いずれにしてもこの一帯には湿地が多く、所々に池があったのは確かである。
歴史
かつては、この辺りを通る街道は、神明神社から浅水まで、鳥羽城下を通る西へ大きく迂回した道と、糺野・米岡を通り西へ大きく迂回した道の二つがあった。これは、神明社の烏ヶ森から丸山町を含む西鳥羽までの丘陵地帯が、雑木や茅が生い茂り、盗賊が住みつき、「野盗の巣窟・狐狸の住処」と恐れられていたためである。
その後、結城秀康が福井に入り、この難所を「福井より三里のところに通行人を難渋せしめる場所があってはならない」とし、さっそく街道の改修を本多富正らに命じ、秀康の没後、二代目忠直が継承し完成させた。現在の鳥羽の街道に沿って人家が並ぶのは、この二代藩主の鳥羽野開拓の功績だという。
文化十二年の越前国名蹟考にも「吉江ふけ」が載っている。「絵図記に今立郡鳥羽野の西大池有と云は是ならんか、琵琶山より此ふけの辺広野にして、水陸の花草多く、騒人の遊息する所なり。此ふちの中に蒪菜有。俗に千年の池にあらざれば生ぜずと云。」
鯖江藩主間部詮勝の『政午紀行』に「吉江野ニシテ池アリ、冬春ハ雁鳬群集セリ」と。
吉江藩主松平昌親はここで鴨猟をされ、その際に鷹揚を設けた。これが日本初の坂網猟であったとされる。当時一般人の密猟も多く、看守を設けた。吉江藩廃藩の後も、管理下に置き、福井藩主や藩士が度々鴨猟をおこなった。
吉江に伝わる里謡の「吉江町名所づくし」にこのような歌詞がある。
「一つとさ一のえ 一つ御池の琵琶山に 登りて見れば美しや オー えんつつじ(狐つつじ)花盛り
二つとさ一のえ 二人の仲は丸山の 御池の鳥の立つごとく オー つがい鳥はなりやせぬ」
鯖江連隊の練兵場として
明治27年の日清戦争を契機に軍拡が始まり、福井県にも鯖江と敦賀に連隊が設置された。当時の村長らは協力として土地を提供し、同時に射撃場、営舎に使う広大な土地の買収にあたった。明治30年に今の三六町に兵舎、丸山一帯の雑木林や湿地は埋め立てられ、地元民の勤労奉仕もあり、明治32年に練兵場となる。以降、1500~2000人の兵士が在往していた。
練兵場は丸山を中心に、経ヶ岳南麓までの長さ東西約1350m、南北約1250m、総面積140万㎡であった。戦闘訓練は、浅水川を起点とし、琵琶山山頂に設けられた敵陣地攻略、山麓に設けられた機関銃陣地への攻撃がよく行われ、頂上の敵陣地を攻撃すると直ちに兵営に向かって追撃戦の演習が行われた。戦後でもその時の塹壕が掘り巡らされており、所々にコンクリートのトーチカや鉄条網が設けられていた。
晴天の時は毎日のように、午前か午後、又は終日訓練した。小休憩後は、山に向かって突撃訓練、なだらかな山だったが、駆け上がると中腹までしか息は続かなかったという。所どこに機関銃をそなえる模擬銃座があり、付近に塹壕があった。兵営迄走らされることもあった。連隊の創設は明治二十九年九月二十五日。明治三十年八月二十日に舎屋完成。終戦後の五十年間まで軍人がここで訓練した。山には三、四十本の赤松が生え、涼しい木陰を作っていた。
『丸山町誕生20周年記念 丸山町誌』には、当時の写真も掲載されている。
昭和39年に埋め立てられるまでは、子ども達が魚釣りをして楽しんだ琵琶山南麓にあった溜池があり、福井藩士が鴨猟をしていた池の一部で、練兵場造成の為だんだんと埋め立てられたが、源流であるという理由で残されていた。
毎年9月23日には、戦没軍人の招魂祭が練兵場の広場(琵琶山北)で行われ、一般大衆や近辺の小中学生も参列し、余興なども催され賑わったという。明治42年9月22日に大正天皇が皇太子殿下の時、丸山山頂に入られ、約一時間琵琶山一帯の演習をご覧になられ、その行啓記念碑が昭和39年の丸山切り崩しが行われるまで山頂にあった(現在三六町連隊史蹟碑横に移転)。練兵場跡にあった三六橋は石碑だけが建っている。
丸山は戦後、すすき野原だったが、山頂に松の木七~八本と桜の大木一本があり、花見を楽しんでいたという。

戦後・現在の様子
昭和30年に鯖江市が誕生したと同時に、国道八号線が琵琶山を貫くように敷かれる。『丸山町誕生20周年記念 丸山町誌』には、当時の写真が載っている。ただまだ当時は周辺の町に大きな変化はなく、東部の水田は大雨が降ると湖のようになるほどだったという。丘陵地で広大な土地も空いているため、工業地帯の候補に挙がっていた。しかし、練兵場跡地は、鉄道が引きにくい点、飲料水に欠く点が難点だった。環境整備が先決であるとし、昭和35年に上下水を整備、産業道路西八号線を作った。ただ、練兵場跡は国の開拓財産になっており、農地として県に委託し開発者に開墾させた。農地法により、県が売り渡し五年間に開墾が完了しているか検査し、未開墾地や該当しない土地は国が買い取ることができるようになっていた。この検査は昭和31年に行ない、昭和32年に完了し土地が買収されてしまう。しかし、検査において、詳細や正確性を欠くとの理由で訴訟問題に発展し、開拓者が勝訴したが県が上告するなど長期化した問題になった。このため市は、何もできず、工場誘致計画は進展しなかった。開拓者が開拓組合共同採草地として所有していた丸山琵琶山は、長期化する裁判の捻出のため、仲介役だった県会議員に処分を依頼したが、その後、福井県眼鏡工場団地協同組合に売却された。当時、丸山琵琶山は緑地公園として残したい意向であったが、代替地が見つからず、都市計画に基づき、丸山琵琶山跡地に眼鏡工場団地を造成し、残りの土地は住宅地になった。当時は琵琶山中心に開発する予定だったが、経済界の変動、金融引き締めにより、脱落者が多く、丸山中心に開発された。琵琶山跡地は、琵琶山霊場地として一部献地されたほかは組合などに売却され住宅地に変貌した。
丸山町内の区画整理は昭和37年から始まった琵琶山区画整理事業は最初で、国道8号線(現旧8)沿いの西の琵琶山を切り崩すとともに、4.3haを宅地化する。総事業費2,200万円。眼鏡工場団地造成工事もあり、昭和39年には琵琶山丸山は完全になくなってしまった。
『丸山町誕生20周年記念 丸山町誌』には、丸山と琵琶山が切り崩される写真が掲載してある。
丸山町
丸山町は町内の中心にあった丸山を偲んで名づけられた。昭和39年までは、従来の鳥羽中町、田所町など旧名のままだったが、当時の班長が練兵場跡地を丸山区と認めるように開拓者17軒の連名で陳情書を市議会に提出。その当時、丸山琵琶山が切り崩された直後だった懐かしい山の名を残そうという話し合いが行われた。この時、琵琶山より丸山の方が言いやすく書きやすいということで丸山町になった。昭和41年に「丸山準区」となり、昭和50年に現在の丸山1丁目~4丁目となった。
現地の様子
『山々のルーツ』によると、琵琶山は布団を着て寝ている様子に見え、丸山は饅頭のような、かわいらしい山だったといいます。

現在は切り崩されて、一部のみとなっています。
看板があり関係者以外立ち入り禁止だったので、登ることはできませんでした。しかし岩山は確かにここにあります。

琵琶山霊場。
ここに練兵場があった、ここが戦時の兵士たちが駆け回った場所だったこと。そしてここに琵琶山という山があったことを伝えています。
見た感じ、この岩山は玉垣が張り巡らされ、頂上には石造物がいくつかありそうです。
この岩山の頂上は、本当の頂上ではないにしても、今の頂上からの眺めはどんな感じなのでしょうか。

西には公園があります。そして周辺の土地が高低差があり、このあたりが切り出された時の名残が土地の形としても残っているのです。
この一帯が山でした。
ここには、多くの歴史が刻まれているのです。
琵琶山と丸山は今も残されている
丸山は完全に物理的には消えてしまい、琵琶山も一部を残しては消えてしまいました。
郷土資料には当時の様子が写真で残されており、切り崩される様子を見ると、どうしても心が痛みます。
ただ、この土地はその名残を残してくれました。
琵琶山を少しでも残してくれたこと。丸山を町名として残してくれたこと。これらによって、この二つの山は確かにここにあったのだと、歴史に刻まれました。
そしてきっと、これらは今後も残り続けてくれるはずです。
山というのは、人々にとって、どこか親しみを持つものなのです。
参考文献
『福井県の伝説』著者河合千秋 出版昭11
『丸山町誕生20周年記念 丸山町誌』著者鯖江市丸山町 出版1996.8
『続・山々のルーツ』著者上杉喜寿 出版1987.9
基本情報(アクセス)
| 最寄り駅 | 福井鉄道鳥羽中駅から徒歩12分 |
| 自動車 | 鯖江ICから10分 |
| 駐車場 | なし |


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